ep. 10 定義から始まる関係
広曽木真は、自分の部屋の灯りをつけると、真っ先に机の上に置いたノートを開いた。
そこには今日の議論のメモが走り書きされている。
ページの中央に、大きく三つの言葉が並んでいた。
快楽の形式
価値承認
関心の偏り
今日、未唯と話しながら導き出した「好きの三要素」だ。
――これが好きの核。
では、未唯を好きになった僕の“核”はどこにあったのか?
真はペンを握り直し、考え込む。
感情を分析することには慣れているつもりだったが、未唯に関しては普段の“処理速度”が通用しない。
いつものようにシステム的に整理しようとしても、どこか感情が引っかかってくる。
(……未唯のあの表情、脳裏から離れないな)
ふと浮かぶのは、未唯が言葉を探しながら沈黙したあの瞬間だ。
沈黙は拒絶ではなかった。
迷いでもなく、恐れに近いものだった。
(あの時、僕は彼女を理解しようとするだけで精一杯だった)
好きという言葉ではなく、理解しようとする欲求。
そこには性的衝動も、支配欲もなかった。
ただ一つ、“彼女を知りたい” という純粋な動き。
(……あれは、価値承認だ)
そう気づいたとき、胸の奥に静かで柔らかな熱が広がった。
***
シャワーを浴び、軽く食事を済ませたあと、真は机の前に座り、スマホを手にとる。
時刻は22時を過ぎていた。
未唯もきっと家に着いている頃だろう。
(……連絡をしたい。でも、迷惑かもしれない)
真にとって、この迷いは珍しい。
これまでの恋愛では、自分から好意的にアプローチを仕掛け、相手が応えるという形がほとんどだった。
興味を持たれやすい容姿も手伝い、恋愛に困ったことはなかった。
しかし今回は違う。
未唯は“感情の形”をまだ持たない。
そんな彼女に、不用意に踏み込みすぎるのは避けなければならない。
少し考え、真は短いメッセージを送った。
〈今日はありがとう。議論、すごく面白かった。また話そう〉
送信ボタンを押した瞬間、胸がざわついた。
短い文でさえ、これほど慎重に選んだことはない。
(……返ってくるだろうか)
スマホを伏せて、ノートの続きを書き始める。
「好きとは……」
ペンが紙を滑る音が、部屋に静かに広がった。
好きとは、主観的快と価値承認と関心の偏りで形成される多義的感情である。
だが、その成立は単純因果ではなく、複数の条件因(Momente)の重なりで生じる。
そう書いてから、真は少し首を傾げた。
(未唯は……こんな定義に納得してくれるだろうか)
未唯は感情が苦手で、言語化にも不慣れだ。
今日も何度も言葉を探しては沈黙していた。
それでも真は、あの沈黙を嫌ではなかった。むしろ愛おしかった。
未唯が言葉を探す姿は、不器用で、真っ直ぐで、誠実だった。
(ああいう誠実さに……僕は惹かれたんだ)
初めて気づく事実だった。
***
そのとき、スマホが短く震えた。
画面を見ると、未唯からの返信が光っている。
〈こちらこそ。話せてよかった。また教えてください〉
真は心のどこかがふっと緩むのを感じた。
(よかった……返ってきた)
だが同時に、「教えてください」という一文に、未唯らしさが詰まっていることが分かり、胸が少し痛んだ。
(……僕たちは、同じ場所には立っていない)
未唯にとっての“好き”はまだ無色だ。
真はそこにすでに色を見てしまっている。
その非対称が、焦りを呼ぶ。
(でも焦ってはいけない)
真は深呼吸をした。
未唯にとって感情は“構築すべき対象”だ。
カントを信じている彼女は、感情を義務よりも下位に置く。
だからこそ、急ぎすぎれば壊れる。
(まずは……彼女が安心して話せる関係を作ろう)
真はスマホにもう一度メッセージを打つ。
〈じゃあ、明日の昼休み、図書館の上のとこで話さない?〉
数分後、未唯から短い返信。
〈はい、お願いします〉
真はその「お願いします」に、未唯の性格のすべてが凝縮されているように感じた。
距離を保ちながら、丁寧で、誠実。
そのくせ、どこか自分を見失いかけている。
(彼女は、自分が“未唯”だということすら疑ってるんだよな)
そんな未唯と“好き”を定義する物語が始まる。
二人にとって避けられない問いだ。
(明日……未唯はどんな表情をするんだろう)
胸が、わずかに熱くなる。
それは恋ではなく、まだ名前を持たない何かだった。
でもそれは確かに、真の感情のなかで静かに形を取り始めていた。
未唯と話すときだけ、生きている感覚が鮮明になる。
その理由を、真はまだ知らない。
ただ一つ、はっきりと分かることがある。
(僕たちの“定義”は、ここから始まる)
部屋の静寂の中、真はノートを閉じた。
明日、また新しい議論が始まる。
そしてその議論こそが、二人の距離をゆっくりと、しかし確実に変えていく。




