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好きがわからない君へ告白したら、カント倫理学でフラれました。 ――それでも僕たちは、自律から始まる恋を続けていく  作者: 目田 不識(めた・ふしき)
第0章 告白と拒絶:原初的非対称

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ep. 1 日常の中での未唯との邂逅

今回、思い切って書き溜めた小説を投稿しようと思います。

すごく長いです。240話ぐらいまで行くと思います。

もうすでにほとんど書いているので、順に投稿していこうと思います。

駄文にお付き合いください。

 広曽木真ひろそぎ・まことが最初に彼女の名前を意識したのは、履修登録から三週間ほど経った、火曜日の二限だった。


 哲学科二年向けのゼミナール室は、教室というより少しだけ狭い会議室のような造りをしている。四人掛けの長机がコの字型に並び、その内側に古びた木製の教卓がひとつ。白い蛍光灯は僅かにチラつき、窓際のブラインドは何度も使われてきたせいで、ところどころ曲がっている。冷暖房の効きも悪い。だが、真はこの部屋が嫌いではなかった。無駄な装飾がない分だけ、思考がよく響く。


 その日のテーマは「自由と必然」。担当教員が黒板に “Freiheit” と “Notwendigkeit” の単語を書き、チョークを置いたところだった。


「じゃあ、この問いに答えられる人はいますか。自由は因果律の外にあるのか、それとも別種の因果なのか」


 静かな間が落ちた。いつものことだ、と真は思った。こういう時、最初に空白を埋める役目が、自分の方へじわじわと回ってくることも知っている。


 それでも、あえて手を上げる前に、彼は一度教室を見渡す癖があった。どこかから、すでに言葉になりかけた思考の気配が立ちのぼってはいないか。誰かの喉元まで来ている答えを横取りしてしまうのは、少しだけ気が引けるのだ。


 そのとき、視線の先でふっと動いたのが、大都乃未唯おおとの・みいだった。


 前から二列目、窓際から一つ内側の席。ノートを閉じかけた細い指が宙で止まり、ペン先がページの上でわずかに震えている。真は、そこで初めて「その手」を認識した。骨ばっているわけでも、特別に白いわけでもない。だが、何かを言おうとして言えない、そのために動き出しかけて止まった筋肉の緊張が、手の輪郭を少しだけ際立たせていた。


 彼女は結局、手を上げなかった。代わりに、やはりというべきか、教室の空気に耐えきれなくなった真の右腕が、いつものように静かに空を切った。


「はい、広曽木くん」


「……自由を、自然因果とは別種の『法則性』として理解する立場、だと思います。少なくともカント的には」


 教員が促すように顎を引く。真は、黒板の “Freiheit” の文字を見ながら、いつもの調子で簡潔に答えを組み立てていく。因果の連鎖、自然必然性、そして実践理性としての自由。自分の中で何度も整理してきた図式だ。


「自然必然性の因果律とは別に、『自分が自分に与える法則性』としての自由な因果性を認める。だから自由は、因果の否定ではなく、因果律の第二様式として――」


 言いながら、視界の端にさっきの“手”の残像がちらついた。彼女も、今の問いに何か言いたかったのだろうか。あるいは、単にペンを置き損ねただけかもしれない。それでも、真の中では、「言葉になり損ねた何か」として、その動きが妙に残った。


 授業が終わると、教室の空気は一変する。議論の余韻はすぐに鞄のファスナーの音と椅子のきしみにかき消され、哲学の単語は、次のコマの教室番号と昼食の話題に置き換えられていく。


「広曽木、やっぱり早えな、おまえ」


 後ろから肩を小突かれ、真は軽く振り返った。同じゼミの友人が笑っている。


「何が」


「何でも。先生の質問にさ、整理するの。俺、半分くらいまで考えた頃にお前が答え終わってるんだよな」


「……別に急いでるわけじゃないけど」


 本心だった。真にとって、あの程度の整理は、ただ“見えてしまうものを、そのまま口にしている”感覚に近い。それを褒められるたびに、彼はいつも少しだけ居心地の悪さを覚える。自分にとっては地面と同じくらい当たり前のことを、「すごい」と言われるのは、どこかしら不公平な評価のように思えた。


 軽口を交わしながら荷物をまとめ、出入口へ向かう。その途中、ふと視線が吸い寄せられる。


 大都乃未唯は、まだ席を立っていなかった。


 周囲の学生たちが次々と教室を出ていく中で、彼女はひとり、ページの端に何かを書き込んでいる。小さな文字で、何度もなぞるように。ペン先だけがかすかに揺れて、肩と背中は不自然なほどじっとしていた。


 真は通り過ぎざまに、そのノートの端を盗み見た。そこには、乱れた字でこう書かれていた。


 「自由=自分で自分に義務を課すこと?」


 クエスチョンマークが二重線で塗りつぶされている。多分、迷ったのだろう。線を引いたあとも、紙の上にまだ疑問が残っているような跡だった。


 その瞬間、真は自分が歩く速度をほんの少しだけ緩めていることに気づいた。


 ――気づいて、何になる。


 すぐに、頭の中でそう言い聞かせる。ノートの端に何を書こうと、その人の自由だ。自分が口を挟むことではない。ましてや、そこに「義務」という単語があるからといって、自分の関心を正当化する理由にはならない。


 それでも、彼は数秒後、自販機の前で立ち止まり、ようやく友人と別れたあと、窓越しにもう一度ゼミ室の中を見た。


 大都乃未唯は、今度は顔を上げていた。窓の外の中庭をぼんやりと眺めている。視線の焦点はどこか曖昧だ。噴水のきらめきでも、通り過ぎる学生でもない何かを、目の前の光景を通して見ようとしているような目つきだった。


 真は、その目を知っていた。自分が鏡を見ずに自分の目を想像するとき、そこに浮かぶのとよく似た目だったからだ。


 事物の裏側にある構造が透けて見えてしまう、と信じている者の目。あるいは、透けて見えないことに苛立ちながら、それでもなお見ようとし続ける者の目。


「……あいつ、いたっけ、前から」


 独り言のように呟いて、真は缶コーヒーのボタンを押した。もちろん、彼女がこのゼミに最初から出席していたことは分かっている。出欠表に名前が読み上げられるたび、耳はそれなりに機能していたはずだ。ただ、その名前が意味を帯びることは、今日まではなかった。


 大都乃未――大きな都の「」、未だの「未」、唯一の「唯」。音と字の配置が、どこか不自然に整いすぎている。名づけた誰かの、ある種の意図のようなものが透けて見える名前だ。


 缶コーヒーのプルタブを引きながら、真はその名前を口の中で何度か転がした。


「おおとの、みい……」


 言葉の響きを確かめるように小さく唱えると、さっきのノートの一行が、頭の中で再生される。


 自由=自分で自分に義務を課すこと?


 真は、わずかに眉をひそめた。カント倫理学をきちんと読んでいる人間なら、その等式が単なる素人の思いつきではないことは分かる。言い方が稚拙なだけで、そこにはそれなりの読解がにじんでいた。


 ――自由を、「自分で自分に義務を課すこと」と感じている人間。


 では、その「自分」とは誰なのか。義務を課す主体と、義務を引き受ける主体は、本当に同じなのか。もし違うのだとしたら、その自由はどこかで二重化している。


 ゴミ箱に空き缶を放り込みながら、真は苦笑した。


「いや、何考えてるんだ、俺は」


 ゼミで出た話題を頭の中で転がすのは日常の一部だ。しかし今日の思考には、不純物が混ざっていた。いつもなら「自由」という概念そのものについて考えているところを、今日はどうしても、その概念をノートの端に書きつけた“誰か”のことが離れない。


 それは、純粋な概念への関心ではない。明らかに、“個体”への関心だ。


 真は、その事実が少しだけ気に入らなかった。


 世界を、構造として理解したい。事物を、概念として整理したい。ずっとそう考えてきた。高校まで理系コースに身を置き、図形や記号で世界を切り取ることに快感を覚えてきた自分が、今さら「一人の人間」に関心を奪われることに、どこかしら敗北感にも似た感情を覚える。


 好き、という言葉が嫌いだった。

 あまりにも曖昧で、主観的で、構造化しにくい。恋愛経験がなかったわけではないが、どれも「相手がこちらを好いてくれるから」という条件が先にあり、自分の側から能動的に誰かを“選び取った”感覚は薄かった。


 ――だからこそ、彼はまだ気づいていなかった。


 廊下ですれ違うたび、

 教室で視線が偶然重なるたび、

 ノートの端の一行を思い出すたびに、


 彼の中で静かに増殖しているものが、すでに「関心の偏り」と呼ばれるべき何かなのだということに。


 そして、その偏りこそが、やがて彼自身の言葉で「好き」と定義し直されるべきものになっていくのだということに。


 この日の広曽木真は、まだ、自分の認識の変化をただの“誤差”と呼んでいた。

 その誤差が、彼の世界を根底から組み替える最初の微かな揺れであることを、まだ知らないままに。

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