2話 傲慢の王サタン
魔界の深い森。その最奥には、静かに横たわる巨大な湖がある。
魔人たちは、その湖を『月光湖』と呼んでいた。
湖面は限りなく澄み渡り、空間そのものを映し出す鏡のようだった。
満月の光が水面を越えて湖の中に差し込み、透き通った水の底には、納骨堂のような古びた建物が沈んでいる。
広い湖の中央には、ひときわ異彩を放つ巨大な塔がそびえ立つ。
月光に照らされた神秘的な輪が、七色の淡い光をまとい、
間隔をあけていくつも重なりながら、塔はその身を夜空へと伸ばしていた。
それが、魔王城――すなわち、魔王の玉座が据えられた場所である。
城の内部には、鏡黒石きょうこくせきで作られた階段が空へと続いている。
その名も『天の階あまのきざはし』。
最上部には、透明で硬質な玉座がひとつだけ置かれていた。
その玉座は、月光の光を貯えるように、静かに煌めいている。
そこに座していたのが、傲慢の王――サタン。
片肘を肘掛けにつき、足を組み、威厳と美の化身として玉座に腰をかけている。
漆黒の髪は月光を浴びて糸のように金色を帯び、黒曜石の瞳には底知れぬ光が宿る。
顔立ちは端正で冷たく、神々しさと彫刻のような静けさをまとい、見る者に畏怖と魅了を同時に与えていた。
だが、玉座の間にはただならぬ空気が満ちている。
サタンがわずかに目を細めるだけで、空間の温度が下がり、鏡黒石の床が微かに震える。
その姿を前にすれば、誰もが“力の発露”を否応なく思い知らされるのだった。
玉座の前には、四人の魔王――アザゼル、サマエル、ベルゼブブ、レヴィアタン――が謁見の礼に則り膝をつき、右手を胸に当てて並んでいる。
――サタン様は満足しているだろうか。アザゼルは心の中でそう問いながら、静かに頭を垂れる。
この場にいる全員が、サタンの評価を一瞬たりとも見逃せないことを理解していた。
(魔窟の成長は、どの世界でも順調だ。間もなく我らが勝利を手にする――)
アザゼルはその事実を、心の中で繰り返していた。
サタンの前で発するどんな言葉も、まずは自分の脳裏で何度も確認される。
アザゼルの心は、低く、深く、サタンへ報告の意を届けていた。
その瞬間、サマエルがちらりとアザゼルを横目で見た。
野心の火花が心の奥でちらつく。
(自分が創り出した“魔窟”さえあれば、人類の滅亡など造作もない。――問題は、誰かが余計な手出しをしなければ、だ。)
ベルゼブブは愉快そうな気配を漂わせ、肩をいからせる。
(滅ぼしてしまえばそれで終わりか……いや、生かさず殺さずの今のやり方が一番だ。退屈な展開だけは御免だな。)
レヴィアタンは一歩下がり、怯えの色を浮かべる。
(……アメノミナカナ神がこの世に遣わされた――その報は確かに届いている。でも、いまだ所在は不明のまま……。サタン様はどう動くおつもりなのか?)
四魔王の間には、忠義と野心、恐怖と不満が複雑に渦巻き、玉座の間の空気が重さを増していく。
サタンは玉座に身じろぎ一つせず、ゆっくりと四魔王たちを見下ろした。
その瞳は、彼らの内心をも見通すかのような冷たさと、美しさを湛えている。
沈黙の中、サタンの口元にかすかな笑みが浮かぶ。
心の底で(神どもめ……まだ我に抗おうとするのか。愚かな存在だ。)
この百年もの間、準備と執念だけを積み重ねてきた。その自信が、脳裏を支配している。
(見つけ出して、殺せ。生まれたての神など、我らの敵ではない。)
隣に控える巨大な魔獣が低くうなる。
サタンはその毛並みに手を滑らせる。その仕草すら、周囲に息を飲ませる威圧感を纏わせていた。
(醜い……だが、よい。この醜さこそが恐怖だ。人間どもが怯え、命を失い、絶望する――神どもへの見せしめとなるだろう。)
その“思考”に呼応するかのように、城の外を徘徊する魔獣たちが一斉に遠吠えを上げる。
玉座の間には、血と獣の匂いが満ちていく。
四魔王は静かに身じろぎする。
アザゼルは沈黙のまま微笑み、サマエルは指を弄び、ベルゼブブは舌打ちし、レヴィアタンは膝を小さく震わせる。
ベルゼブブの心に恐れが忍び込む。
(……恐ろしい。)
サマエルは誰にも気づかれぬよう口元で薄く笑った。
レヴィアタンの脳裏には、一瞬、戸惑いと不安が去来する。
サタンの思考が、玉座の間に新たな緊張をもたらす。
(くだらぬ理想を説く神の考えなど、私が正してやる。我が正義が、お前たちの怨嗟に応える。そのために――今、動け。)
その瞬間、天の階の奥に設えられた『写し鏡』がサタンの姿を映し出す。
美しく整った容貌、月光を反射して輝く姿――その隣には、血と獣の臭いをまとった魔獣の姿があった。
サタンはそれを見比べ、ふっと目を閉じる。
(いずれこの世の理も変わる。神どもに我々の“本当の力”を知らしめる時が来る――。)
月光湖の鏡面には、魔王城がくっきりと映り込んでいた。
その美しさは神域のようであり、同時にこの世のものとは思えないほどの恐怖を放っている。
城の守りを担うのはサタン直属の親衛隊――グリゴリたち。
彼らは代々、城の隅々まで規則正しく配置されている。
天の階を登れる者は、ただ一人『傲慢の王サタン』と、そばに仕える魔獣のみだった。
強力な魔獣たちが徘徊する月光湖から、サタンの姿は常に月光に照らし出されていた。
否――サタン自身が、あえてその美を神に、世界に見せつけていたのだ。
この魔境には“満月の夜”しか存在しない。
太陽は昇らず、光なき昼も訪れない。
この“永遠の夜”は、サタンが“傲慢”によって創り変えた、彼だけの楽園――パラディソ。
そして、この神話の時代――
アメノミナカヌシとして生を受けた“体”に、神来かみき 真古徒まことの“魂”が宿った。
その名は――マコテルノ。
神の器に、人の魂が入り込んだ。
彼は、滅びゆく世界に抗うための道を歩み始める。
そして彼らは、人の会話などの愚かな物は使わない。ただ、知性で思考を巡らせればいい。