初登校:門をくぐれば、そこは異常地帯
朝の空気は、緊張と期待でほんの少し、重たかった。
歴史ある学び舎「私立・エリート学園」――
全国でも有数の進学校であり、芸術・スポーツ・学問、いずれの分野でも名を馳せる名門校だ。
その石造りの重厚な門の前に、エイジは立っていた。
「……いよいよ、か」
新しいローファーが小さく軋む。
足元から制服の裾、指先の万年筆にいたるまで、完璧に整えた装い。
だが胸の内は、まるで今日から世界が始まるかのように落ち着かない。
門をくぐる。
その瞬間、空気が変わった気がした。
敷地の中は、整然としていて静かだった。
美しく刈り込まれた並木、石畳を踏みしめる音、制服の色が景色の中にきれいに溶け込む。
ふと、視界の隅で白いハンカチのようなものがひらりと舞った。
見上げれば、誰よりも早く登校してきたのだろう、長い黒髪の女子生徒が風にたなびくスカーフをそっと抑えていた。
彼女は、エミ。
“芸術が過ぎる”バグホルダーとして、ほんの一部の界隈では既に名前が知られていた。
たとえば、初等部時代に描いた静物画が美術館に展示されたこともある。
けれど今は、静かに歩く一人の少女として、朝の校庭に佇んでいるだけだった。
才能を誇らず、ただ日常の中に紛れていた。
(本当にいるんだな、こういう人……)
エイジは、思わず目を奪われた。
その直後、また別の方向から声が聞こえた。
「やあ、君も新入生?」
声の主は、見上げるほど体格のいい男子生徒。
柔らかいくせ毛に、どこか牧歌的な笑顔。
「その制服、オーダーか?なんか……やたらフィットしてる。かっこいいな」
「うん。ありがとう」
「俺、マモル。君は?」
「エイジ」
「エイジ君よろしく!
よかったら、教室まで一緒に行こう?」
マモルはごくごく自然にエイジの横を歩く。
ほんの少し、肩の力が抜けた。
(……こういうのか。青春って)
学園の廊下は、どこを見ても美しかった。
木の温もりが残る手すり、重厚な扉、日差しの差し込む大きな窓。
どこを切り取っても、物語の中にいるような空間。
けれどそれは、ただ見せかけの舞台ではない。
ここに通う生徒たちの“空気”が、建物を本物にしていた。
廊下ですれ違う生徒たちは、静かに歩き、目を見て挨拶を交わす。
誰もが背筋を伸ばし、制服を丁寧に着ていた。
中には、教科書を開いたまま歩く男子生徒もいた。
彼の名は、タクト――
噂では、“頭が良すぎる”バグを持っているらしい。
同時に複数の教科を記憶し、複数の課題に並行で思考を回せる。
だが、バグに依存している様子は一切見せない。
学内でも“努力の天才”と呼ばれ、尊敬を集めていた。
すれ違いざま、タクトと目が合った。
一瞬だけ、わずかに眉をひそめるような表情――それが、ほんの刹那。
(気のせいかな)
エイジは視線を外した。
教室にたどり着くと、マモルが扉をそっと開けた。
「ここ、だね」
中から流れてくる声や笑い。
まだ始まっていないけれど、すでに何かが動き出している。
エイジは、そっと息を吐いて、足を踏み入れた。
今まで知らなかった世界。
金では買えなかった、出会いや、距離感や、空気の色。
「おはよう」
その言葉が、自分の声として教室に落ちるのを聞いたとき――
ようやく、本当にここに“入った”気がした。
お読みいただきありがとうございました。
今回はエイジの“初登校”――未知の場所へ踏み出す一歩の回でした。
名門・エリート学園は、見た目こそ落ち着いた伝統校。
けれどその内側には、バグという“異能”を抱えた個性派ぞろいの生徒たちが集っています。
エイジにとっては、まさに“世界が変わる瞬間”でした。
ほんの短いすれ違い、たった一言の会話。
でもそのすべてが、新しい青春の入口になる――
そんな予感が、校舎の空気に満ちていました。
次回は、いきなり事件発生⁉
式典前のざわつきと、タクトのプライドが火を吹く“首席バトル”の幕開けです。
お楽しみに!