第4話:窓越しのヒロインと真っ黒な教科書
入学3日目の3時間目の前の休み時間。
俺は猛烈に悩んでいる。そして、猛烈に反省している。
……今日から通常授業が始まるというのに、数学の教科書を忘れてしまっていることに気づいた。
入学式の日に配布された教科書は、基本的にすべて、自分に割り当てられた廊下のロッカーに入れっぱなしにしていたのだが、唯一数学の教科書だけは、「予習でもしたら?」と俺の中の天使に言われて、持ち帰っていた。今思うと『魔がさした』としか言いようがない。
そして、自室の机の上に出すだけ出して、予習など一切せずに、カバンに入れるのを忘れて、今日を迎えてしまったのだ。
腕を組んで眉間にシワを寄せていると、
「吉田、どうした?」
と前の席の吾妻が気遣わしげに聞いてくる。
「数Ⅰの教科書忘れた……」
「まじか、お前、わざとだろ?」
「信じてくれ、まじでわざとじゃない」
「本当かー?」
吾妻がそういうのも無理はない。
つい昨日「気をつけろ」と釘を刺されたばかりだ。
教科書を忘れたということは、つまり。
「じゃあ、どっちかに見せてもらわないとだな?」
「だよな……」
にやにやした吾妻の言う通り、俺の両隣の2人のうちどちらかに教科書を見せてもらう必要がある。
問題はどちらに教科書を見せてもらうか、だ。
ルートA:初恋の窓越しヒロイン・多田楓
ルートB:人生2周目のアイドル・岩瀬礼奈
普通に考えたら、中学の頃から知り合いの礼奈を頼るべきだろう。
だが、『岩瀬さんとはそこまでの仲ではない』という大前提の設定がある。
礼奈が一般人を頼るならまだしも、俺が芸能人を頼るという選択肢はないだろう。彼女は、高嶺の花なのだ。
……だとしたら、やっぱり多田さんに頼むしかないか。
そもそも礼奈は、多分授業中にかかってきたであろう電話を折り返しに、今教室から出ている。授業開始までに戻ってくるか怪しいものだ。
よし。
「多田さん」
俺は左隣、窓際の席で教科書を熟読しているらしい多田さんに話しかける。
「へ? 吉田くん、どうしたの?」
「数学の教科書、見せてもらえたりする? 数Ⅰだけ忘れちゃって……」
「わ、私の教科書ってこと、かな?」
妙に焦った感じの答えが返ってくる。
「ああ、うん、もし嫌なら岩瀬さんに頼むけど……」
「う、ううん! 違うの! 別に嫌ってことじゃなくて……。でも、私の教科書、汚いよ……?」
「汚い……? 教科書が?」
「う、うん……」
心配そうに上目遣いでこちらを見てくる多田さん。
いや、一昨日入手した教科書が汚くなってるはずがない。謙遜するところがちょっとズレてるか、彼女が本当はめちゃくちゃ嫌なのにNOとは言えない日本人かどっちかだ。
あと一回だけ聞いて無理そうなら礼奈を頼ろう。多田さんに断られたと言う大義名分があれば多少緩和されるだろう。
「俺は、構わないので、多田さんがよければ……」
「……うん、分かった。笑わないでね?」
「ああ、うん」
あいにく俺は、数学の教科書で笑う陽気なセンスは持ち合わせてない。
ということで、多田さんと机をくっつけさせてもらう。
チャイムが鳴ると、慌てた様子で礼奈が教室に入ってくる。
席に戻りながら、ぎょっとしたこちらを見てきた。
「吉田君……?」
何かを言いかけた礼奈だったが、ちょうどその時数学の教師が入ってきて、諦めたようにがたん、と席についた。
授業が始まって分かったのは、多田さんが教科書を汚いと言ったのは、決して謙遜なんかじゃなかったということだ。
いや、汚いというのは語弊がある。
そうではなく、一昨日入手したばかりのはずのその教科書には、大量の書き込みがなされていたのだ。無論ラクガキなどではなく、ポイントと思われるところには線が引かれ、考え方の補足になるような数式が書き込まれ、練習問題はその解答の選択肢に丸がついている。
相当真面目に予習をしてきたらしい。
「……よし」
しかも、胸の前で両手で握り拳を作り、鼻からふんす、と息を吐く始末。たかが授業(というのは教師に失礼かもしれないが)にすごい気合の入りようだ。
「じゃあ、この問題を……多田楓さん。分かりますか?」
「は、はいっ!」
授業中に指された多田さんが、ガタン!と音を立てて立ち上がる。
「おお、気合十分だな」
多田さんの前に指された人たちは座ったまま答えていたのに、一人だけ立ち上がるので、教室の笑いを誘った。
だが、多田さんは、
「えっとえっと……」
と目を回している。
その問題は、選択問題で、A〜Dの4択。
多田さんの教科書にも、Aのところに何重にも丸がついている。これだけ予習している多田さんが間違えるわけもないだろう、と思っていると。
「い、いち、です!」
と口にした。
「いち……?」
……多田さん、Aを1と答えてる?
改めて教科書を見ると、黒鉛筆で丸を書き込みすぎて、Aの文字が潰れてしまっている。
つまり、『1つ目の選択肢』というところは理解しているのだが、A〜Dか、ア〜エか、1〜4か、はたまたイ〜ニか、どれかが分かっていない。
俺は咄嗟に、自分のノート一面に大きく「A」と書いて、多田さんの机をとんとんと叩いて、
「多田さん」
彼女の注目をこちらに引きつける。
それを見た多田さんは、「あっ」とつぶやいた後、
「Aです! すみません、選択肢を間違えちゃいました!」
と照れくさそうに微笑んだ。
そのあどけない笑顔にクラス中がほわ〜っとした雰囲気になる。
「はい、正解です。ケアレスミス、気をつけましょうね」
先生も、言葉とは裏腹に穏やかな笑みを浮かべている。
「ありがとう吉田くん、助かったよ」
座りながら、困り眉で笑う多田さん。
「いや、全然」
「というか、ノート1ページ使わせちゃってごめんね?」
「別に。これくらい大きく書かないと見えないと思っただけだよ」
俺は消しゴムで「A」を消しながら答える。
「……優しいね、吉田くん」
「いや、別に。教科書見せてもらってるし」
多田さんの爽やかな笑みが妙に照れくさくて、俺は消しゴムを動かす手に集中した。
数学の授業が終わり、俺は多田さんにお礼を言って席を離す。
すると、
「吉田君」
今度は、右隣から話しかけられた。
「ん?」
「あの、あたし、ちょっと国語の教科書忘れちゃったみたいで。見せてもらってもいい?」
「忘れ物? 岩瀬さんが?」
「うん……」
完璧主義の礼奈が、そんなのしたことないのに珍しいな、と礼奈を見上げると、彼女は耳たぶを触っていた。
それは、礼奈が嘘やごまかしを口にするときの癖だ。
……いや、嘘なのかよ。
「……分かった」
「うん……ありがと」
嘘をついている罪悪感か、少しうつむきながら妙にいじらしく俺の机に自分の机をくっつけてくる。
その時、吾妻がにやにやしながら振り返り、俺にそっと耳打ちをした。
「吉田、本当に気をつけろよー?」