5 アホ毛なりしや
謎の女魔法使いにぼこぼこにされたから彼女のアホ毛になった。
最後の一撃で粉々になってしまった俺がとっさに取った最後の生存手段。それが、アホ毛になって隠れるというものだった。
俺は形は変えられても色は黒から変えられない。ちょうど女魔法使いが黒髪でよかったと心底思うのだった。
さて、どうしたものか。俺がアホ毛になった途端、女魔法使いが倒れてしまった。意外と俺との戦いで疲れていたのか、完全に気絶しているように見える。
この隙に逃げてしまえばいいのではないか。という考えが真っ先に浮かんだが、この女は遠くまで逃げても転移して追っかけてくる化け物だ。俺のことを遠くからでも探知できる能力があると考えて良い。逃げても追っかけてきてしまうなら、このままアホ毛として隠れていた方がましだと思う。
正直アホ毛として近くにいたらそれはそれで、彼女が起きた途端すぐに気づかれて消滅させられる危険性はある。ただし、あれだけ逃げても追いかけてきたのだ。逃げられる可能性よりも隠れ続けられる可能性の方が上回ると判断する。
はらはらしながら女、いや今や俺は彼女のアホ毛なのだから主人と呼んだ方がいいか。はらはらしながらご主人が起きるのを待っていると、1、2時間くらいしたところで俺のご主人様は起床した。
むにゃむにゃと何か言った後で、立ち上げる。そのまま何もせず静止した。
バレたら今度は確実に殺される。心臓はないから鼓動が早くなることはないが、精神的にはドキドキが止まらなかった。
1分ほど経つと、ご主人様は歩き始めた。そのまま途中途中で休憩を挟みながらひらすら何時間もかけて街にでる。転移は使わないのだろうかと思ったが普段はこうして魔力を節約しているのかもしれない。
街にまでくると、すぐに偉そうな人たちがやってきてご主人様となにやら話していた。それから高級そうな宿屋に入るとシャワーだけ浴びてベッドにダイブする。
すーすーという寝息が聞こえて、やっと俺は安心した。バレてなかったみたいだ。
ちなみにご主人様の胸は大きくも小さくもなかったがとてもいい形をしていた。華奢な体と合わせて奇跡のような造形美だ。といっても今の俺に性欲はないので立派な彫刻を見るような感覚にしかならなかったが、どちらにせよ眼福でした。
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アホ毛生活が始まってちょうど二年が経った。
年がら年中アホ毛としてじっとしているのは意外にも苦にならなかった。この真っ黒な体のおかげだろう。お腹も空かないし眠くもならない。それにアホ毛は意外と揺れるものだ。ご主人様が歩いていたりすると、それに合わせてゆらゆらと体を動かすことができた。
この世界の言葉もなんとなくわかるようになってきた。俺のご主人は山奥の小屋で一人暮らしなので普段誰かと話したりすることはないが、頻繁にぼそっと独り言を言うのだ。
加えてご主人はどうやら有名人のようで周りに群がってくる人は後を絶たない。ご主人自身は面倒そうにしていたが、人付き合いは最低限あった。
そんなこんなで言葉に触れる機会も少なくなく、日常会話くらいの意味はわかるようになったのだ。
そしてご主人様の名前も判明した。本名は多分アストルティアだ。普段はアストルと呼ばれていることが多いが、何人かはそう呼ぶ。
綺麗な名前だなと俺は思った。
「おはよう」
ご主人が起きた。俺のご主人は誰もいないのに起床時と就寝時に「おはよう」と「おやすみ」を欠かさず言う。もちろん「ただいま」や「いただきます」もだ。日本語ではないので語源とかはわからないが、とにかく随所の挨拶は一人でもする派らしい。
一人黙々と井戸に水を汲み行き顔を洗う。街で買ってきたパンを齧る。そのあとはおそらく今日も、一日中家の中で本と睨めっこだ。ここ2年間ご主人はずっとこんな生活を送っていた。
予想していた魔法をぶっぱなして魔物退治しまくるような生活とは程遠い。もしやご主人は冒険者でもなんっでもない一般人だったのでは?俺は一般人にも退治されてしまうようなただのスライム?なんて疑問に思ったこともあったが、小屋に訪ねてくるいかにも強そうな人たちや彼らとの会話を聞く限りそうでもなさそうだ.
どうやら前は冒険者だったが今はすでに引退したらしい。
訪ねてくる現役冒険者たちのかしこまったような口調から察するにご主人様はかなり高名な冒険者だったのだろう。なんで引退してしまったのかはわからないが、今の生活も楽しそうに送っているので普通にやめたかったのかもしれない。貯蓄は十分にあるようでゆったりスローライフを送っている。
今日もそんなスローライフが始まるのかと思っていたところ、山小屋の扉がガンガンガンと叩かれた。
ただの来訪者にしては荒々しい叩き方だ。
「アストル様! 朝から申し訳ありません! ガロア村の者ですがお話ししたいことがありまして!」
ご主人様はパンを齧るのをやめて、重たそうに腰をあげる。
扉を開くとそこには20手前くらいの青年がいた。この山小屋から一番近くの村は峠を一つ挟んだ向かい側にある。急いで山を越えてきたのだろう。青年は肩で息をしていた。
「話したいことって?」
機嫌悪そうにご主人が答えると、青年は息を整えることもせず慌てるように言った。
「はじめまして。突然の訪問申し訳ありません! 私はガロア村のムックといいます。実は昨夜、私の妹がインキュバスに攫われてしまったのです!」
「インキュバスか。それはかわいそうに。
それで私に何の用なんだ?」
「いえ、ですから私の妹が————」
「私はもう引退したんだ。困りごとなら冒険者組合を頼ったらいい」
ご主人はもう冒険者を引退している。あれだけの魔法が使えるなら引退しても簡単に魔物退治くらいできそうなものだが、そこらへんの自分ルールのようなものがあるのだろうか。
「それではとても間に合いません! まだ12歳なんです! 殺されてしまいます!」
「それはないだろうな。あれはサキュバスの男版の魔物だ。人間の女を攫って自分の子を産ませる。少なくともそれまでは無事と見ていい」
確かにさっきご主人の言った通りかわいそうだ。生きているとしても妹がインキュバスに強姦されているというなら兄としては少しでも早く助けたいと思うだろう。
「それは無事とはいわないでしょう!」
まったく青年ムックの言う通りだ。だが、それとご主人が手を貸すことは全く別の話だ。可哀想だからといってご主人様が手を貸す通りはない。
「あなたはかつては救世主様と呼ばれたお方だ! 手を貸していただけませんか! お願いします!」
ひどい言い分だ。置かれた状況も考えれば同情するところだが、頼み事をするならもう少し言い方を考えた方がいいと思う。
案の定ご主人は機嫌が悪そうな顔だ。頭をくしゃくしゃとかいて少し低くなった声で答える。
なおアホ毛である俺もくしゃくしゃされた。細くて綺麗な指に触れられて満足だ。
「冒険者として正式に依頼を受けたことをやっていたらそう呼ばれるようになっただけだ。今はもう依頼を受ける義務もない」
「そうですか⋯⋯」
そうですかじゃないよ。田舎育ちで教養がないのはわかるけどそんな態度じゃ妹助けてもらえないぞ。
「まあ、そうだな。たしかに義務はないが個人的な依頼としてなら受けてやってもいい」
「ほんとですか!?」
「本当だ。だって可哀想だろう。君のような無能な兄を持ってしまった妹さんが可哀想だ」
ご主人様はなんだかんだ言って優しい。最初から依頼を受けるつもりで青年を試していたのだろう。
お眼鏡に敵わなかったとしても助けてあげるとは、さすが元救世主様だ。
「だがそれなりの対価はしっかりともらう。お前には何が出せる?」
ただの田舎の村人であるムックが出せるものはたかが知れている。ご主人も本気でなにか欲しいというわけではないはず。けじめというやつだ。
「私が出せる全てを差し出します。あと村長から村に古くから伝わる宝を渡す用意があると聞いております」
「全てはいらん。大した物ではないと思うが村の宝だけもらうとしよう。すぐにでるから少し待っていろ」
ご主人はそう言ってムックを外で待たせると、残ったパンを一気に頬張って準備を始めた。以前俺と戦ったときには持っていなかったナイフを腰に装着している。青い宝石が散りばめられた綺麗なナイフだがなにかの魔道具だろうか。
ご主人は10分ほどで支度を終えるとムック青年と共にガロア村に向かった。
俺はといえばいつも通りアホ毛として右に左にと揺れているだけだ。慣れてくるとこんな生活も悪くない。ご主人様が年老いて亡くなるまではこうして頭の上の百万分の一畳を借りていようと思うのであった。