ヒロイン
痛む腕を無理矢理に使い、バイクを走らせ始めて既に三十分が経過していた。
行く当てもなく、状況も分からない。思考がまとまらなかった。それでも走る。ひたすらに逃げていた。さっきのアレが再び迫る気配はない。それを断言する材料はなく直感によるものだったが、何故だか外れている気はしなかった。しかし、このまま逃げ続けてもいいものだろうか。
「・・・おかしいな」
ふと、バイクを止めた。まだ街の郊外だが、やけにうるさい。人の騒ぎ声が聞こえる。日の出には一時間以上も早い。この時間帯でこんなにうるさいのは何故だろう。
胸騒ぎがした。これは、さっきから感じる「直感」によるものではない。自分自身の感情という気がする。
・・・あれ?直感というのは、自分のものではなかったろうか。
頭を振って余計な考えを取り払う。一度、見てくることとしよう。人混みならばある程度は安心出来るはず、という打算も込みである。
バイクを道の端に寄せ、右腕を庇いながら歩く。それは直ぐに見つかった。
「これはヒデエな」「なんでこれ・・・」「おかしくないか」
何かを囲むようにして、家から飛び出してきたようなパジャマ姿の人々が見える。多くは懐中電灯を持っているようだった。大半の人は顔をしかめている。
その間に割り込んで、覗き込んだ。
―――死体だ。猫の死体。
胴体の中ほどから切り取られるようにして、後ろ足の無くなった猫が横たわっている。首に鈴を付けている所を見るに、飼い猫だったらしい。周囲に飼い主らしき人物はいない。
鈴に懐中電灯の光が反射して目に入った。
「似てるな」
まるで先程見た消滅で削られたかの様である。
しかし、無くなっているのは猫だけで、地面が抉れた様子はない。なら、無関係だろうか。
「すいません、何故こんなことに?」
急に話しかけられた住民は沫の容姿と折れた右腕にギョッとしたようだが、直ぐに気を取り直して答えてくれた。
なにか大きな音(バキッという音に似ていると言っていた)が聞こえて起きて出てきたものの、こんな状態の猫が死んでいたのでみんな困惑しているという話だった。
「あとそう、この真正面の家でなにか壊れたって話じゃなかったかな」
親切な住民がそう言った時にちょうど、バン!と、目の前の家のドアが開き、四、五十代くらいの男が出てきた。
「チッ、何なんだよ、これは」
その男は、手に大きなビニールの袋を持っていた。中には硬そうな、屋根瓦のようなものが入っている。
「いきなり天井が崩れやがった」
「おいおい、大丈夫だったか?」
「全部じゃねえよ。一部だけだが、わけわからん」
その男と近隣住民が会話をしだした。
・・・いきなり崩れた天井。さっきの消滅なら可能かもしれない。その場合、屋根の上にいた猫がそれに当たり、その余波で屋根が消えたということだろうか。
これが人為的なものなら、何のためだろう。生物であれば何でも良くて、たまたま沫達が狙われただけだろうか。
―――ドガッ、と。下半身の無い猫の頭が抉れた。
そのころには、沫はそこを離れていた。また襲ってきたいやな予感、直感に従った結果だ。それは正しかったようで、次の瞬間には近隣住民もろとも猫を消し飛ばしていた。
罠だった。
死んでしまった人々を悼む余裕もなく、バイクを起こし、走らせる。こうしている間は攻撃が来ないことを祈るしかない。
半径二メートル程が無くなり、所々に血と、腕やら足やらをまき散らす道を抜けた。
目の端に涙が浮かぶ。それを右腕の袖で拭う。少し痛い。
何故こんなことになったのだろう。僕が何かしたか?
どこに逃げればいい?どこなら安全なのだろう。
何も思い浮かばない沫は、無意識下で自宅への道を走る決断を下したらしい。
バイクは家に向かっていた。
*
「ッソ。―――泡!」
自宅に入る。靴も脱いでいないが、緊急時だった。
家は三階建て。泡が思い出だと言って引っ越そうとしなかったので、昔から同じ場所だ。一回は空きスペースで、二階がリビング。三階は双子の部屋が一つずつある。
その家の二階部分に、兄の泡は居た。呆然としてテレビを眺めている。何を呑気な。
「泡、何してる!」
沫は泡の腕を掴んだ。なおも彼は呆然としているのみである。魂が抜けてしまったかのように、動かない。
「逃げるぞ!」
「・・・え?ああ、うん。そうだね、逃げないといけない」
「状況を理解してるとは思えねえが、とにかくマズイ。急ぐぞ」
「僕はむしろ、沫が理解してることに驚きだよ。テレビ見たんだね」
「テレビ?」
さっきから僅かに音を漏らすだけだったテレビに沫は視線を向けた。
こんな時に何を呑気な、という内心はガラッと変わった。泡は、相当に大事な情報収集をしていたらしい。
『先程、臨時のニュースが入ってきました。総理大臣の、田中首相が暗殺されたとの情報です。未明に、自宅で亡くなっているとの通報がありました。調べによりますと、犯人はこの二人であると断定されているようです』
先程からキャスターの左側に写っている写真。それは、紛れもなく荒屋泡と、荒屋沫に違いなかった。
『この二人は、荒屋泡と荒屋沫というそうで・・・えー、双子であり、現在十六歳であるそうです』
「はは、どこの調べだよそりゃあ・・・」
沫は頭を抱えた。家に警察も来ていないのに、情報が抜かれているようである。
「一体、どういうことだ」
「分からない。何も」
泡は呆然とするばかり。一瞬沫をチラリと見たが、それきりだ。
「逃げた方が・・・いいのかな」
「自首でもするのか?やってもないことに」
「ここで逃げる方が、認めてるみたいじゃない?」
「アホが。奴ら、断定してるって言ってたろ。証拠が有るハズ無いのにな。捕まえてくるに決まってる。今すぐ準備しろ。必要な物だけ持ってくぞ・・・急げ!」
そう言うなり、沫は三階に駆け上って行った。
取り残された泡は、やっと再起動を掛ける。混乱している頭で何が必要かを考え始めた。
「・・・枕は要るかな」
*
五分もしない内に準備を整え、折れた洗濯棒を添え木代わりに右腕を応急処置した沫は、じゃらじゃらしたストラップのついた大きなカバンに枕を詰めようとする泡をひっぱたき、すぐさま用意をさせた。どうやらまだ混乱が抜けきらないようである。
少しして落ち着いた泡が三階のベランダから玄関を覗き見る。警察はまだ来ていないようだった。
「でも、おかしくないかな?」
「何がだよ」
「人が来ないのがだよ。警察も、ご近所さんも」
「さあな、ご近所さんは、人殺し野郎が怖いんじゃないか」
「冤罪なんだけどなあ」
はあ、と泡は溜め息を吐いて見せた。かなりコンディションが整ってきたようである。こうなると泡は強いことを、沫は知っていた。
すぐさま一階に降り、家を飛び出した。
家を足で飛び出し、道路にはバイクで飛び出した。
その際、腕の折れた沫が運転するか、バイクに乗ったことのない泡が運転するかで一悶着あったが、結局ある程度乗れていたという理由で沫が運転することになった。
沫は、バイクを人通りの少ない道を気持ち速めに走らせる。
しばらく押し黙っていた泡が沫の肩を叩く。こうしてちゃんと喋る機会はいつぶりだろうかなんて考えながらも、今ならまともに受け答えしてくれるだろう。あわよくば、昔みたいに楽しく談笑したい。
話す内容は、そう。まずは大事なことからだ。
「沫。僕らなんでこうなったんだろう。昔は違ったよね・・・?」
「昔?昔は知らんが、俺らが今こうなってんのは、誰かが意図したものだと思ってる」
「そうじゃなくて。・・・ああいや、そうかな。そうだね」
どうしよう。話したかったのはそれではなかったのに。俺は、やはりまだ混乱しているのだろうか。
いや、後だ。今は逃げることを考えないと。
・・・よし。
「逃げ切るよ。目指すは海外だ。ツテがあるから、ココさえしのげば簡単だ」
「ああ、そうだろう・・・アレが無けりゃな」
「アレ?」
ここにきてやっと沫は家まで逃げてきた理由を思いだした。
この首相暗殺と、あの攻撃は、果たして関係あるのだろうか。関連性があるとすれば、タイミングくらいのものだが。
「魔法攻撃」
「ふーん。そうなんだ・・・」
沫は、後ろで笑っているようである泡を小突いた。沫の方からそんな冗談が聞けるとは、泡は想像もしていなかったのだ。
泡は、沫の青色の部分を握りしめた。
やはり呑気だ、と沫は溜め息を吐いた。沫も少しだけ嬉しかったことは、言ったりしないが。
だがあれが脅威であることは間違いない。この速度は危ないかもしれないと、もう少し速く走らせる。
今向かっているのは、港の方だ。決して近くはないが、バイクだとそんなに時間はかからない。
「ねえ沫。海外って、どこ行きたい?」
「そうだな、ハワイとか」
「んふ、旅行じゃないんだから」
「どこら辺が妥当だ?」
「中国とか、韓国とか、そこらへんなら手軽でいいと思うよ」
「お前も旅行みたいに言ってるじゃねえか」
一時間程走らせると、緊張感も無くなってきた。ヘルメットを途中お借りしたので、誰かに声を掛けられたりもしていない。
今はちょっとしたビル群を走らせている。平和なものだ。
だからといって油断も慢心もしていなかった。していなかったから、助かった。
命が潰えることは無かった。
バシュッ、と。泡が背負っていた大きなカバンから、気の抜けた音が聞こえた。
今度は沫の直感が働いていなかった。ので、聞こえた瞬間からのスタートである。沫の耳に音が飛び込んだ瞬間、沫は泡の脇腹を左肘で突いた。右腕はアクセルで加速させる。
この時、もし二人が双子でなければ、そして久々に会話を楽しんでいなければ、危なかっただろう。
泡は沫の意図が掴めずに、ここで二人とも命を落としたはずだ。
泡はすぐさまリュックサックを放り捨てた。
「・・・なるほど、まさしく魔法だね」
「だろ」
無くなってしまった後方のアスファルトを見て、泡が冷や汗を掻いた。取り乱さないのが不思議なくらいである。
「沫!もっとスピード上げて!」
「分かって・・・あ、無理これ」
「なに・・・?うぁ!!」
バイクが横倒しになって滑っていく。メーターやら何やらが吹っ飛んだ。沫が制御を失ったのだ。
それは、折れていた右腕に負担をかけ過ぎたのが原因である。回避のための急加速は、負担が大きすぎた。
泡はその場に放り出され、沫はバイクに引きずられて下敷きになっている。
「痛っ、沫!」
奇跡的に泡は軽傷で済んだ。が、沫は相当危ないだろう。今すぐにでも病院に連れて行かなければ、きっと死んでしまう。
泡はすぐさま立ち上がり、周囲を見渡す。
襲撃者はどこだろう。それらしき人物は見当たらない。散歩でもしていたのだろう人たちが数人、驚いた表情で固まっているのみだ。焦りが出てくる。
ガッ、と。またあの音が聞こえる。今度は泡の足元からだ。バイクのパーツに混じって、地面に少しめり込んだものが見える。
「銃弾・・・?」
銃弾に見える、が。そんな悠長なことを言っている暇は無かった。その銃弾は、着弾直後、直ぐに辺りを消し飛ばす爆弾に早変わりする。
そんな間抜けな声が泡の遺言という事になる、ことは無く。
「お待たせ」
と、
ここがヒーローの登場シーンである。
気が付くと既に、ヒーローは目の前に跪いていた。違う、あの銃弾に触っているようだった。それだけで、問答無用の爆弾は無力化された。いつまで経っても何も起きない。
「・・・ぁ」
泡の喉から声にならない吐息が漏れた。
そしてヒーローは、いやヒロインと言うべきか。そう、この女性は、立ち上がって言った。
「やあ、初めまして。助けに・・・うわぁ!」
彼女は散らばったバイクの破片に足を滑らせた。
なんだか締まらない感じだった。