一話 始まる前の静寂
「おーい。敦也ー起きろー。もうホームルーム終わってるよー」
不意に、そんな声をかけられて
「…んあ?」
天城 敦也はうめいた。そして少しずつ目を開ける。
すると、目の前には一人の女の子が顔を覗き込んでいた。
手入れの行き届いた綺麗な黒髪のシフォンショート。飽きれていながら、それでいて優しい笑顔。チェック柄のスカートにえんじ色のブレザー姿の女の子。
彼女の名前は、鍋島 美鈴。
彼女は幼稚園の時から家のお向かいさんで、小学校も一緒のクラスの時が多かった。そして、この春から入学した都立帝東高校では同じクラスで隣の席という、所謂腐れ縁であるが。
敦也はその美鈴を見ながら質問をした。
「どしたよ」
敦也がそう聞くと美鈴は可愛らしい顔に手を当ててため息をついている。
「どしたの、じゃないでしょうが…。あんた6限目からずっと寝てたでしょう。起こそうとしても全く反応しないし…」
「…うん?今何時?」
「4時半。」
「おっとぉ…?ホームルームも終わってる?」
「だからそう言ったでしょうが」
美鈴は深くため息をつきながらそう言った。それに敦也は、時計に目を向けながら、
「流石にそれは盛りすぎで…マジで放課後?時計がバグっているとか、」
「往生際が悪いぞ寝坊助。大体、個々の時計は電波時計で磁気嵐が来ない限りは正確なの知らないわけないよね?」
呆れながら、ジト目で美鈴はそう言う。
敦也はゆっくり体を起こす。そして周りを見渡す。
彼が寝たのは6限目の社会学科専攻『美術社会学』の前。5限目の保健の授業で、電子麻薬の危険性についての授業を寝そうになりながらも受けてから力尽きて寝てしまった。しかし、美術社会学を寝過ごすのはまだしも、ホームルーム中も寝ていたのは俄かに信じがたいことだが
「………」
信じがたいことだが、
「………」
実際にホームルームの時間を過ぎている上に、クラスにいる人の数が半分くらいだ。掃除もとっくに終わっているようで、教室に残っているのは学級委員長や授業の復習を行っている真面目な人たちばかり。学級委員長がやっと起きたかと、呆れたような表情を敦也はに向けている。
敦也はようやく状況が把握できたようで美鈴に話しかける。
「美鈴、なんで起こしてくれなかったの。」
「起こしても起きなかったんでしょうが!」
「うっそだー。じゃあなんでこんな時間まで寝るのさ」
「それは私が聞きたいわ!美術社会学の江藤先生が何度も怒鳴ったり、頭殴ったりしても起きなかったのよ?私がとやかく出来るわけないじゃない。」
美鈴がそう言ってきて。
その美鈴の言葉に敦也は頬を引きつらせる。
「まじぃ?江藤ってあの江藤?」
「江藤先生にあのもそのもないわよ。」
「だよなぁー…」
敦也はそう言って頭を抱える。
美術社会学担当の江藤。前時代的思想の江藤。ブラックゼミの申し子の江藤。
校内でも悪名高い江藤の授業を90分寝切ってしまった事実に驚愕した。
「江藤…怒っていた?」
「江藤先生が書いた論文の感想文10枚ってさ」
「拷問かよ!?」
敦也はそう叫んで机にうずくまる。
「嘘よ、普段の行いと参画度が良いからってお咎め無しになってるわ。」
「よかったー!驚かすなよー。寿命幾ばくか削れたじゃなーか。」
「これに懲りて居眠りをやめることね。」
美鈴はそう言って小悪魔みたいに笑った。
「お前なぁ…」
それに敦也は苦笑いして鞄を手に取る。それから席から立って教室の出口に足を向ける。そして彼はあくびをしながら美鈴の方に顔を向ける。
「いやぁ、寝すぎて腹減ったからさ、肉まん食べに行かね?」
美鈴は最初はあっけにとられていたが、すぐに自分の鞄を取る。
「もちろん行くわよ。起こしてあげたんだからアンタが奢りなさいよね。」
と、美鈴は笑顔で彼について歩いた。