渡辺綱邸に巫女が現れたこと
渡辺綱邸は狭い。
主人である源頼光は一条大路に立派な屋敷を構えているが、頼光の家臣である綱はこぢんまりとした家で妻とわずかな使用人たちとで暮らしていた。
その邸内が、いまや大騒ぎとなっている。
北の方のあとをついて庇を歩く美鳥は、自分で倒れたり起き上がったりする几帳、勝手に音を奏でる箏、家中を走り回る袿、ころころと転がる鏡などに目を丸くした。
とにかく賑やかだ。
「うるさくてごめんなさいね。殿が鬼の腕を持ち帰ったりするものだから、朝からずっとこんな調子なのよ」
ふふっと北の方は楽しげに笑った。この状況が恐ろしくはないらしい。
「ところであなたは、うちの殿が鬼の腕を切った話は聞いているのかしら」
「はい、お聞きしました。一条戻橋のところで鬼に襲われ、応戦して太刀で鬼の右腕を切り落としたとか」
童女とは思えないほどしっかりした口調で美鳥は答えた。
「そうなのよ。どうやら、大江山の鬼の残党らしいわ」
半年ほど前、綱は夷賊討伐の命を受けた源頼光に付き従い丹波の大江山へ向かった。
大江山は酒呑童子と名乗る鬼を首魁とする破落戸の集団の根城となっていた。
頼光らはわずかな手勢で鬼らを捕らえ、首魁である酒呑童子の首級を獲った。しかし、酒呑童子の腹心といわれる茨木童子は取り逃がしてしまった。
その茨木童子が昨夜雨がそぼ降る中、一条戻橋を馬に乗って通りがかった綱を襲ったのだ。女装をして橋のたもとに立って綱を待ち構えていた茨木童子は、綱の返り討ちに遭い太刀で腕を切り落とされたため、悪態をつきながら逃げていった。
朝になって頼光の家臣のひとりである碓井貞光が一条戻橋から血の跡を追ってみたところ、羅城門のあたりで血は途絶えていたという。
鬼の腕は綱が頼光のところへ運んだが、頼光はそれを陰陽博士に見せるように命じ、鬼の腕を自分の屋敷で預かりたくなかった安倍晴明は、綱に自邸へ持ち帰り護符で七日間封印をしておくようにと指示した。
「どうせ切り落とすなら腕ではなく首をやればよかったのに、うちの殿ときたら肝心なところで詰めが甘いの。おかげでうちはこの惨状よ。できることなら、安倍様のお屋敷に鬼の腕を投げ込んでやりたいくらいだわ」
どうやら北の方は家の中が荒れまくっていることに腹を立てており、鬼の恐ろしさなど二の次らしい。
「鬼が腕を取り戻しにくるかもしれないってことで殿は納戸に籠もっていらっしゃるけれど、鬼が襲ってきて納戸の壁を突き破ったらどうなさるおつもりなのかしら。借家なのに、困るわ」
「――はぁ、そうですね」
困惑した美鳥は、適当に相槌を打つ。
いつ鬼が現れるかと怯えるならわかるが、この北の方は家が壊れる心配しかしていないように見える。
武将の北の方というのは皆こんなものなのだろうか、と美鳥が首を傾げたところで、綱が籠もっているという納戸の前に着いた。
中からはがたがたと物が大きく揺れる音と経文を唱える声が響いてくる。
「殿! 安倍様から追加のお札が届けられましたよ!」
納戸の扉をこぶしで力強く叩き、北の方が綱に大声を張り上げて呼び掛ける。
「殿! 開けますよ!」
返事を待たずに北の方は勝手に扉を開けた。
美鳥が止める暇もなかった。
途端に、中から血肉の腐った臭いがあふれ出るように漂ってきた。
その臭いの酷さに堪えきれず、美鳥は袖で鼻と口を覆う。
北の方は顔を歪めたが、納戸の中にいる夫君に「お返事をしてくださらないと鬼に食われたのかと心配になりますわ」とまったく心配していない口調で告げただけだった。
息を止めた美鳥はおずおずと納戸を覗き込むが、燭台の灯りひとつで照らされた室内は薄暗く、澱んだ空気で目がかすむせいか綱の姿も靄のようにしか見えない。
(こんな強烈な瘴毒を放つ鬼の腕のそばで半日も籠もっていて正気を保っていられるなんて、渡辺綱は鬼と並ぶ化け物じゃないかしら。さすがはあの酒呑童子の首級を獲っただけの武士だわ)
妙な感心をしつつ、美鳥は目を凝らした。
ようやく暗闇に目が慣れてくると、室内にある唐櫃と人影が見えるようになってきた。
とはいえ、美丈夫と評判の綱の姿はやはり靄に包まれている。
「おう、誰ぞ?」
靄の中から男の野太い声が響いた。
「安倍様のお屋敷からお札を届けに来てくれた女の童ですわ」
声の主は綱だったようで、北の方が涼しい声で答える。
「いま儂は手を離せないのだが」
「お手伝いいたします」
美鳥は綱の声を頼りにすすっと納戸の中へと進んだ。
手には三十枚ほどの護符がある。すべて翡翠を練り込んだ墨で「急急如律令」と書いてある。
中に入ると、泥色の靄が手足に絡みついてきた。袿がずっしりと重くなり、身体が思うように動かない。胸の辺りが苦しいのは息を止めているせいだけではないはずだ。
(奴奈川姫様、奴奈川姫様、お力をお貸しください)
両手で護符を掴んで心の中で唱えると、護符に書いた文字がほのかに濃緑色に輝いた。
途端に、靄が美鳥から離れる。
「まぁ、さすが陰陽博士のお札ですこと」
納戸の外から様子を窺っていた北の方は、美鳥が持ってきた護符の威力に目を瞠る。
美鳥は黙ったまま、まっすぐに進んだ。
靄は次第に薄くなり、外の明かりが入らない納戸の奥でもぼんやりと唐櫃と人影が見えるようになった。
長身の体格が良い男がひとり、太刀を鞘から抜いて唐櫃を睨んでいる。どうやら彼がこの館の主人・渡辺綱らしい。
唐櫃は時折がたがたと激しく揺れて、綱を挑発している。まるで、中に収められた鬼の右腕が自分と勝負しろと煽っているようだ。
美鳥は唐櫃を睥睨すると綱に「すこし下がっていただけますか」と告げて、持ってきた護符をすべて唐櫃の蓋に貼り付けた。
すると、それまで中で暴れていた腕はぴたりと動きを止めた。納戸内の靄も、しゅるっと勢いよく唐櫃の中に吸い込まれる。
また、騒々しかった邸内も静かになった。
几帳は勝手に起き上がらなくなり、北の方の袿は簀の子の上にふわりと落ちた。火鉢からも灰が巻き上がることはなくなり、油を辺りに撒き散らしていた灯明台も倒れたままになった。
「これはこれは、さすが陰陽博士お手製の護符だけのことはある。抜群の効果だな」
唐櫃が静かになると、綱は太刀を鞘に収めながら感嘆した。
「おそれいります」
軽く頭を下げた美鳥は、肩で荒く息をしつつ納戸から駆け出ると、倒れ込むようにして床に座り込んだ。
汗が滝のように頭から流れている。背中もぐっしょりと濡れていた。十を数えるほどの間しか納戸には入っていなかったというのに、全身がひどく疲れている。
「おやおや、顔が土気色になっているわ」
美鳥の顔を覗き込んだ北の方が、眉を顰めた。
「誰か、水を持ってきて」
北の方が声を上げると、老家令が水桶と柄杓を持って走ってきた。
「安倍様の護符のおかげで助かったぞ。これでしばらくは鬼の腕もおとなしくしてくれそうだ。なにしろ明け方前から唐櫃の中で暴れ回っていたものだから、さすがに閉口していたところだ」
柄杓で水を飲んでいた美鳥を、太刀を携えた綱が背後からねぎらった。
振り返ると、三十前後の美丈夫がうんざりした様子で溜め息を吐いていた。額にうっすらと汗が浮かんでいるが、優美な顔は紅潮しており、鬼の瘴気に当てられた様子はない。
さすがは帝のおぼえもめでたい源頼光の四天王のひとりとして、夷賊討伐で活躍しただけのことはある。鬼に対する耐性がかなりあるようだ。
「それにしても、あの爺――御老体は、なぜこのように幼い女の童を使いに寄越したのだ? 我が家がどのような惨状であるか、あの方なら想像できているであろうに」
老家令から水桶を受け取ると、綱は豪快に桶から直接水を浴びるように飲んだ。よほど喉が渇いていたらしい。
「わたしが主に願い出ました。ぜひ鬼の腕を見てみたいので、行かせて欲しいと」
昨夜は、美鳥が寝入った後になって綱が安倍邸に鬼の腕を持ち込んだのだ。妙な気配を感じて目覚めたときには、すでに綱は邸宅に帰った後だった。
「鬼の腕に興味があるのか? 恐ろしくはないのか?」
大の男に向かってはきはきと答える女の童が珍しいのか、綱はまじまじと美鳥を見下ろしつつ尋ねた。
「恐ろしゅうございます。でも、わたしは茨木童子の腕を見たいのです。その手を見て、確かめたいのです」
「なにを確かめるのだ?」
「仇かどうか、を」
かあ、と土塀の上に止まった漆黒の烏が一声鳴いた。
美鳥はその烏の視線を無視して、床の上に行儀良く座り直す。
「わたしはずっと、わたしが生まれた郷を滅ぼした鬼を探しておりました」
美鳥の幼い容貌にあどけなさはない。
「わたしはこのようななりをしておりますが、まもなく十四になります」
綱を見据えながら美鳥は告げた。
北の方や老家令の呆気に取られた表情を目の端に止めつつ、美鳥は語り始める。
「わたしの生まれ故郷は、越後の姫川にほど近い場所にございました」