二 巫女が越後に戻ること
「あ……」
頬を伝う熱で、美鳥は自分が泣いていることに気付いた。
涙を流すのは何年ぶりだろうか。
家族や叔母を失ったときは泣いている暇などなかった。奴奈川神社での生活で姉巫女に苛められたり嫌味を言われたときも、涙が出ることはなかった。自分の涙はすっかり涸れたのだとばかり思っていた。
「そう泣くものではない。目が溶けるぞ。ほれ、あまりにも大粒の涙を流すものだから、溜まった涙が石になってしまったではないか」
陰陽博士は美鳥の頬を伝う涙をすくうと、茶化すように告げる。
その指先には、いつのまにか薄い緑色の翡翠があった。涙の粒のように勾玉の形をしている。
「……翡翠、が」
「そなたの涙で生まれた石だ。持って帰って、大巫女に見せてみると良い。もしかしたら新しいご神体になるやもしれぬぞ」
「これ、が?」
涙から翡翠が生まれるなど、聞いたことがない。美鳥にとって翡翠は、糸魚川の河原で拾うものだ。
受け取って手のひらに載せてみると、翡翠は陽光を浴びて鈍く輝いた。
乳白色の中に薄く新緑が混ざったような翡翠は、生まれたての卵のように見える。
「茨木童子の手に填まっていた翡翠は、役目を終えたから粉々に砕けたのではないだろうか」
「役目、でございますか」
「かつて越後でそなたを野盗から守り、そなたの仇である茨木童子を討つために一役買った。それがあの翡翠の役目だったとすれば、新たに社でそなたやそなたの郷を守るのがこの翡翠の役目であるかもしれぬぞ。翡翠は代々の帝が受け継いできている三種の神器のように唯一無二の物ではない。それぞれの人にそれぞれの役割があるように、それぞれの翡翠にもそれぞれの役割があると考えてみてはどうかな」
納得しかねるといった表情で美鳥が首を傾げると、陰陽博士は続けた。
「もちろん、砕けてしまった翡翠がそなたの郷にとって大切な物であることは儂もわかってはいるつもりだ。しかし、失ってしまったことを嘆いてばかりいてもどうにもならない。この翡翠がそなたの涙から生まれたということは、これはそなたにとって必要なものであるはずではなかろうか」
「そう、かも、しれませんね……」
言いくるめられている気分がしないでもなかったが、美鳥は頷いた。
「この翡翠が社でお祀りするに値する物かどうかはわかりませんが、大巫女様にお伺いしてみます」
この翡翠にどれほどの値打ちがあるかはわからないが、自分の魂の代わりにはなるかもしれないと感じた。
「これがあれば、また新たな翡翠を探せそうな気がします」
両手で翡翠を握り締め、それを抱きしめるように胸に押し当てる。この翡翠に社で祀るだけの価値がなければ、糸魚川の河原でまたご神体となる翡翠を探すだけだ。
頬から伝い落ちた涙は手を濡らし、指の隙間からこぼれて翡翠を湿らせた。
そのたびに翡翠はほんのりと色づき、緑色が増していくように美鳥には思えた。
初夏になり、美鳥が越後へ帰る日がきた。
童女に一人旅はさせられないからと、昨年美鳥と弥彦を都まで連れてきてくれた商人が同行してくれることになった。
「あんた、ずいぶんと大きゅうならはりましたなぁ」
一年ぶりに会った商人の男は、旅装束の美鳥を見て感慨深げに言った。
「そう、ですか?」
「背も伸びはったし、髪も長うならはって、娘さんらしゅうなってきましたな」
実際、このひとつきばかりで美鳥はぐんと成長した。もう七つの童女の面影はない。
「大巫女はんも驚かはるやろうね」
「――はい」
首から提げた守り袋を美鳥はそっと手で押さえた。そこには翡翠の勾玉と一緒に烏石を収めている。
(さぁ弥彦、いっしょに越後に帰ろう)
大勢の人が行き来する大路の光景を目に焼き付けて、美鳥は汗ばむ陽気の都を後にした