渡辺綱邸に鬼の腕があること
時は平安、後一条帝の御代――。
油小路沿いの渡辺綱邸では、朝から使用人たちが騒いでいた。
「今日は朝から風もないのに几帳がばたばたと倒れてしまいよりますわ」
「こちらは御簾が勝手に巻き上がったり落ちたりしてますえ」
「半蔀もきいきいとうるさいったらかないしまへんなぁ」
そう広くはない邸内では調度類がひっきりなしにがたがたと音を立てており、とにかくやかましい。まるでそこだけ夏の嵐がやってきたような様相だ。
庭の杏の木の枝という枝にたわわに実った青い実が、風にあおられてゆらゆらと揺れ、いまにもぼとぼとと落ちそうだ。
昨夜からの小糠雨は明け方頃に止んだが、空は鉛色の雲で覆われている。地面は雨でそこかしこが濡れており、空気も湿っていた。
「なんでこないなことになったんやら」
「こらあかん。折櫃が勝手に井戸に飛び込んだわ」
中年の下女と老家令が顔を顰めて交互にぼやくので、簀の子に座って使用人たちの訴えに耳を傾けていた北の方は渋面でため息を吐いた。
「それもこれも、殿が鬼の腕なんぞ持ち帰ったりするからですわ。腕を入れた唐櫃は、陰陽博士からいただいた霊験あらたかなお札で封印したとおっしゃいましたが、櫃の中で腕が暴れるものですからもうほとんどのお札は千々に裂けてしまったそうじゃないですか。お札を破って腕が櫃から出てくるのも遠からず、といったところでしょうね」
「安倍様のお屋敷へ、さらに追加のお札をいただきに遣いを出しましたが間に合いましょうか」
下女は不安げに表情を曇らせた。
「殿はなにをしていらっしゃるの」
北の方の問いに、家令が答える。
「唐櫃の前で髭切の太刀を構えて腕が出てこないかと見張っておられます」
「いっそのこと、腕を安倍様のお屋敷にお届けしてはどうかしらね」
「あたくしも殿へそのように申し上げたのですが、腕がとにかく重く、殿でも唐櫃ごと持ち上げることはできないそうでございます」
「鬼の腕を抱えてうちまで持って帰っていらしたのは殿だというのに?」
「それはそれは重い唐櫃に入れましたので」
「櫃から出せば良いのです」
北の方が強い口調で言うと、下女は慌てた。
「そんなことをすれば鬼が腕を取り返しに乗り込んできます。いまは腕を唐櫃の中に封印しているから鬼も邸内に入れないだけで、一度櫃から出してしまうとそれはもう恐ろしいことになるそうでございます。なにしろ、相手はあの大江山の茨木童子でございますよ」
下女は真っ青になり怯えるように全身を震わせた。
そこへ「もうしもうし」と幼さが残る声が門の外から聞こえてきた。
「おや、どなたかいらしたようよ」
「鬼が童に化けて訪ねてきたのやもしれません」
首を横に振って恐ろしげに下女は門から目をそらす。
「安倍様からは、どなたも屋敷に入れてはならぬと言われているとのことでございます」
「昼間から鬼は来やしませんよ」
下女の態度に呆れ返った北の方は立ち上がると、草履に足を通し、自ら門扉を開けた。
「おや、可愛らしい女の童ではないの。どなた?」
美しい顔に似合わず豪胆な北の方は、自分の腰の辺りまでしか身の丈がない子供を見下ろした。七、八歳といった禿の娘だ。
「安倍の主より渡辺様へ、これをお届けに参りました」
大きな目をしっかりと北の方に向け、はきはきとした口調で答える。ここまで走ってきたのか、頬は薄紅色に染まっていた。
「お願いしてあったお札ね。まぁ、ありがとう」
女の童が両手で差し出した札の束に目を遣り、北の方は目を細めた。
「主より、こちらでお手伝いをするよう、言い付かっております」
「それは助かるわ」
北の方は女の童を邸内へ招き入れた。
「お方様、その童は?」
北の方が女の童を連れて戻ってきたのを、家令が見咎めた。
「安倍様のお札を届けてくれたのよ」
「誰も屋敷の中に入れてはならぬと安倍様が――」
「その安倍様のお使いよ」
ぴしゃりと言い返すと、北の方は女の童に尋ねた。
「そなた、名は?」
「美鳥と申します」
女の童はにこりと愛想良く答えた。
「おや、あんなところに真っ黒な烏が。なんやこっち見てるようで不気味やわ」
土塀の瓦の上に止まった烏を見つけた下女は「しっしっ」と手を振ったが、烏はきょときょとと頭を左右に振るだけで去ろうとはしない。
「なにしてはるんや。あぁ、烏か。ほっとき。いまはそれどころとちゃうやろ。ほれ、お方様の袿が勝手に踊り狂ってるやないで。あれをさっさと捕まえてくれんか」
邸内を荒らす怪異に疲れた様子の家令は、下女に命じた。
「清太の奴はどこをほっつき歩いてるんや。安倍様のお使いだけがいらしたやないか」
安倍家へ使いを出した下男が戻ってこないことを家令はぼやく。
「まさか恐ろしゅうて逃げ出したんやないやろうか」
下女が言うと、家令はふん、と鼻を鳴らした。
「百鬼夜行を面白がって見物に行くような男やで。ま、安倍様の屋敷でなんや珍しい物の怪でも見せてもろうてるんかもしれんな。そのうち戻ってくるやろ」
庭に飛び出した北の方の袿を目で追いながら、家令は「かなわんなぁ」とこぼしながら仕事に戻った。