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降下

 荒くなる息をできるだけ抑えて目の前のフェンスを越える。今、このビルの屋上には誰もいない。私だけだ。準備もした、覚悟も決めた。大丈夫、やれるはずだ。フェンスの外の屋上、というよりも外壁の上に立ち、そっと下を覗く。目の前には地上4階の高さが滲む。道を歩いている人も、走っている車も、おそらく私には気付かない。だから落ち着いて、自分のタイミングでやる。


 もう一度だけ深呼吸をする。ポケットからイヤホンを取り出して、震える手で無理やり耳に突っ込んだ。お気に入りの音楽が耳の間近で、でもとても遠くから聞こえる。別にそれで構わない、人の声が聞こえなければそれで。最後に聞こえるのが人の声だなんて御免だ。電子音で耳と脳を埋め尽くす。


 足が震えている、すぐにでもへたり込んでしまいそうだ。それでも内腿に力をいれ、なんとか踏ん張ってみせる。怖い、でもそれでいいんだ。死を、苦痛を恐れないのは狂人だ。私は人のまま人として死を選ぶのだ。だから死ぬのは怖いし痛いのは嫌だ。それでも私はそれらすべてを乗り越えて死に向かって落ちていく。これが賢い選択だとは思ってない。ただ、もう何が良いとか悪いとかは分からなくなってしまっている。今の私の頭に浮かぶのは死のイメージだけで、それだけが救いであるような気がしている。あと少しだけ足が動いてくれればいい。それですべて終わるはずだ。


 いつの間にか曲がっていた背筋を伸ばす。前を向き、真っすぐ歩いて斜めに落ちて丸く広がる。その姿を強くイメージする。頭から落ちるように、しかし勢いが付きすぎないように足を踏み出しながら姿勢を前傾させて、踵が離れ、足の裏が離れ、つま先も離れていく。そして落ちる。それだけだ。それだけで終わりだ。産まれてきたときは大勢が立派な機械に囲まれながら私を取り上げたのだから、それに比べると終わりはずいぶんあっけないものだ。それでも私はその一歩を踏み出せずに、町中の断崖に立ち尽くしたままぼんやりと前を向いている。


 だんだんと視線が落ちていき、向かいのビルの廊下を歩くスーツの男性が見えた。電話で何かを話している。次第に歩調は緩やかになり、立ち止まった。電話で話したまま窓の外を向き、上を向き、私と目が合った。まずい。名も知らぬ彼と私は3階と屋上でしばし見つめ合った。彼は電話を耳から離し、窓を開けて何かを叫んだ。それを合図に弾かれるように背を向け、フェンスをよじ登って逃げる。失敗だ。入り口の扉を勢いよく開け放ち、階段を駆け下りる。雑居ビルを出て、人波にぶつかりながら走る。2度、3度とぶつかり、その勢いのまま裏路地に駆け込む。イヤホンを投げ捨て、薄汚い壁に手を付き、膝を付き、うずくまりながらえずきに任せて吐き戻す。黄緑色の吐瀉物が少量、地面に広がった。さっきの光景が蘇ってくる。見られてしまった。知られてしまった。私は私の内に湧く衝動を知られた世界の中でまた生きなければならない。さらに膝を折り、座り込みながら涙を流す。私は死ぬことすらできなかった。その言葉だけが頭の中で何度も繰り返された。


 涙が枯れ、ようやく立ち上がる。行く場所があるわけではないが、いつまでもここにいるわけにもいかない。足についた砂利を払い、ふらつきながら一歩目を踏み出す。私は本当に死にたかったのだろうか。それすらも疑問に思えてきてしまっている。この道の真ん中の、私が踏み出したその場所が人知れぬ大穴でもない限り、私はこの思いを遂げることができないのではないだろうか。未だ日は高く、そこかしこに和やかな歓談が溢れていた。


 ふっ、と何かが香った。足を止め、辺りを見回しながら出どころを探る。焼けたパンとバターの匂いだ。それにすこしコーヒーの匂いもする。おそらくは少し先に見える喫茶店だ。目の前の灰色の世界が急速に着色されていく。私は、聞いたこともない喫茶店の戸に、いつの間にか手をかけていた。

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