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「ちょっとぉ~。お兄ちゃん、まさかこの最後のクッキーを食べてしまうわけがないよね? わたしの兄貴なら、そんなことないよね?」
「そんなに顔を近づけるな。俺がこのクッキーを食べて何が悪いというんだ。だいいち、この前は季に全部あげたじゃないか。ーー欲張るな」
「それはつまりね? 今後お菓子の枚数が奇数だった場合、最後の一枚はわたしに譲って構わないということを、あっさり認めたようなものじゃない」
「違う。みんなの前だというのに、お前が泣きわめくフリしたせいで圧倒的に不利になったから仕方なくしたまでだ」
光臣は、妹の理不尽な言い訳に、イスの背もたれよりかかってため息をついた。その瞬間に兄の手元からクッキーが離れたのを、季は見過ごさなかった。
スパァーンッーー
「おっしゃー! ゲットだぜ」
「どこぞのモンスター捕まえたみたいなかけ声出すな、バカが」
「バカじゃないもん!」
勝者のコールに、光臣は悔し紛れな声を出す。それを季はおもしろそうに見下ろしながら、念願叶って手に入れたラストのクッキーを開封した。
チョコチップをところどころに散りばめたクッキーは、甘すぎず、素朴すぎず、季にとっては最高の食感であった。そんな庶民的なもので喜ぶんじゃない、と両親にたしなめられたこともあることにはあるが、そこまで気に留めなかった。
季にとって、このクッキーにすら価値を見いだせないほうが、厄介者なのだ。
「はっはっはっは」
光臣が突然高らかな笑い声をあげる。それはいまだかつてないような気味の悪さであり、いざありつこうとしていた季はクッキーを口元から離した。
「心理作戦? さすがにキモいけど、でも無駄よ。このクッキーは渡さないから」
「あぁ、かまわん。どうぞこちらにはおかまいなく召し上がってくれ」
「はぁ?」
季には兄の意図することがまったくわからず、不信感をつのらせた顔をしながら、クッキーに目線をもどす。すると、タイミングを見計らったかのように、光臣が鞄に手をのばした。
「さぁ~て、俺はこっちだな」
「?」
なにをたくらんでいるのか気になった季は、もう一度、兄の机を見直す。
大きな背中の見え隠れしたのは、"だいふく”とデフォルメされた文字。教室に差し込む日の光を反射するプラスチックパッケージ。何事だ。もう一個隠し持っていたとは。
「ちょ、何食ってんのあんた。アタイに隠して大福頬張ってるんじゃないわ!」
和菓子と洋菓子だったら洋菓子を選ぶ派の季だったが、このときほど和菓子の代名詞である大福が輝いてみえたことはない。ぱらぱらとまかれている白い粉はダイヤモンドダスト。
毛を逆立てた猫みたく、季は反射的な指摘をした。だが光臣にとってみれば、このくらいのことを言われるのは分かりきっていたことだった。むしろ言わせたかったようなものだ。
「俺が大福食って、どんな罪がある? これは俺が注文した個人所有物だ。青タヌキとメガネ坊主の横でバットをふるっているキャラか、お前は」
「ネタ古すぎ。うう・・・・・・今度やったらただじゃおかないからね」
兄のほうは、久しぶりにありつけた自分だけお菓子に、無表情ながらも幸福をかみしめていた。個人所有のなんという素晴らしさーー。
そのとき、音も立てず教室のドアが開いた。ドアは、戸袋のドアストッパーにぶつかることなく、その寸前で停止した。この広いけれど小さい学校で、そんな几帳面なことをするのは一人もいなかったはずだ。あのおとなしい先生ですら、豪快な開け方である。
光臣は何か妙だと思った。どうせ先生なんだろうけれど。
「あ、先生がいらっしゃったみたいだ」
「お兄ちゃんが敬語使うと、ものすっごく違和感あるのは、なんでだろ」
光臣は大福をすぐに飲み込んで、包装を座席の横に設置したゴミ箱に入れた。その後ろで、季はいまだ不満そうに、机の上に散乱しているケシカスを兄専用のゴミ箱に落とした。
「おい、俺のゴミ箱にお前のものを入れる必要はない。これは俺専用だ。ゴミ箱が嫌がっているみたいにしか見えない」
「んーもう! さっきから、俺の俺のって、う・る・さ・い!」
「お前の声のほうが、明らかに常識を超えてうるさい」
「ひっど」
小嶺は教室の入り口で一連のやりとりをずっと見つめていた。さっきまで屋上にいたはずの吹寺兄妹が教室でまたも喧嘩していたのを見て、やれやれと思いつつ、兄妹っていうのも悪くはないかもしれないと考え直した。小嶺という一人っ子には一生わかり得なさそうだが。
「はいはい。二人ともそのへんで小競り合いはやめてください」
「あ、小嶺っち。やっほー」
小嶺に気づいた季は、兄ではなく転校生のほうに向き直って、無邪気に応答した。部外者からすれば、仲のいい親友どうしにしか見えないほどであろう。
「開口一番、その呼び方は・・・・・・やめてよ」
「こら季。さっきのはやっぱり嘘だったか、あれだけ転入生には迷惑をかけるなと言ったはずだろ。あとで屋上呼び出しな」
「知るかぁ~! こっちまでおいでー」
光臣は、ドアのほうまで駆けだしていった季を追うことはしなかった。まさに自分の座席の前で重い教科書の束を抱えた彼女を、押しのける気はしなかったのである。
本校指定のスカートが、よく似合っていた。人型アンドロイドじゃないかってくらいに、よく均整の取れている体のライン。ほのかに色づいた髪束が肩の横を川のようになめらかに下っている。ぱちっとした目は具合良く光を反射し、いかにも美人といった様相である。
アンドロイドみたいで、アンドロイドではないのがわかる特徴があった。合計10kgはありそうな教科書を支える指が、そろそろ限界を迎えそうな勢いでぴくぴくとふるえていたのだ。
「あ、すまん。ここ座っていいぞ。こんなに無駄に座席があっちゃ、もはやどうなのかって思うだろうが、気にしないでくれ。自由席だ」
「ありがとうです」
「礼にはおよばない」
タテ二列×ヨコ六列に整備しなおされている教室ではあったが、それでも笑いが出てしまうくらいに小嶺にとっては空虚を憶えた。
「なんだ、お兄ちゃん追っかけてこないのか」
聞こえた声のもとには、季の姿があった。どうやら、季のことなどどうでもよさげに振る舞う兄がおもしろくないようだ。だが主張も甲斐なく、小嶺と光臣はそれを気にもしなかった。
小嶺が窓際の席に自分のポジションを定めたとき、ちょうど扉が開いて、また一人の人が入ってきたのだった。あいにく小嶺は扉から最も遠い席に座っていたため、座敷わらしでも忍び込んできたのかと一旦は本気で考えてしまった。
入ってきた"彼”は、ファストフード店にありそうな座面の高いイスに腰掛けて口を開く。
「はーい、みなさんお待たせしました。先生は十分なお昼寝をしておいたので、ここから夜まで連続授業にでもしようかと考えていたところです」
片品が言い終わるか終わらないかのところで、"え”に濁点をつけたような声を出したあげく、顔を真っ青にした光臣が口を挟んだ。
「まじっ・・・・・・すか」
「うわ~。兄ちゃんと暴れているような余裕なんて無かった・・・・・・」
小嶺が見ると、吹寺兄妹の片割れ、吹寺季までもがこの世の終わりをみたような目をしていて、その焦点はどこを望んでいるかうかがえないほどだった。
一方の小嶺は、わけあってか、まったく動じていなかった。片品はそれを疑問に思ったようで、不思議そうに彼女に問いかけた。
「おやおや小嶺さん、あなたはそこまで気にしないようですね。夜まで休みなしはさすがの僕でも辛いものがありますけど」
「そうですか? 私が経験からすると、昼から夜までぶっ通しでも悪くないんじゃないかなーって思いますよ」
「お前それは正気か!」
とたんに光臣が声をあげた。多少失礼な物言いだと自覚はしていたものの、自分のなかでは歯止めが効かなかった。
「正気だと思います。おそらくは」
端っこの一人を除いては、いかにも仰天といったふうに目を丸くせざるをえなかった。吹寺兄妹はこの物寂しい学校に長く居座っているが、そんな経験はない。もちろん、片品のほうにもそれは言えていることだった。こんな生徒は見たことがなかった。
「え、じゃあこういうこと? つまり、小嶺っちには転校前に昼から夜まで連続授業で受けたことがあるっていうの?」
「正確にはちょっと違うの。昼から夜じゃなくて、朝から夜まで」
「全然違った・・・・・・」
「難関校対策なんですよ。公立中学だったとしても、いかに偏差値の高い学校に行かせるかが一番の競争課題ですから」
小嶺は長野の中学で、入試特別講座の一環と題された授業を受けたことがある。朝7:30から夜21:00まで。どんな学校にだって入学試験という関門が用意されている。難解なところから受験者が定員割れしているところまで千差万別である。
「まぁ、あっちのほうには頭良い学校がそろっているからね。うちらの全員合わせたところで勝てたもんじゃないよ、あいつらは」
「そうだな・・・・・・」
吹寺兄妹は諦めの声を発した。
あの光臣も珍しく妹に同調したので、小嶺はこんなこともあるのかと感心した。この兄妹でも制度には勝てない。
「あぁーーそうみなさん落ち込まないでください。先生、泣きそうになっちゃう。成績が人間の学ぶべきことの根幹と決まったことではありませんし」
「でも就く職業が入った高校で決まるのなら、ちょっとね・・・・・・いくら平等とはいえ」
まだ中学生として扱いを受けている季にとっては、複雑なものだ。季が小学生だった頃のことだった。あまりにひどい人口減少から働き口がなくなったことで、学校ごとに生徒の将来を決める制度に移行した。職業選択の自由に関する法規も改められたそうだ。
と、思考を巡らせていた小嶺の目には、パンパンと手をたたいて皆をしずめようとする生徒が写った。まぎれもない。吹寺光臣だった。
「おい、俺たちはそんな、ネコもシャクシもかき集めているような共通基準に翻弄されていていいと思うのか? 俺は生徒会長としてそれを否定したい!」
「はーい。生徒会長さんうるさいですよー、まじでうるさいっすよ。転校生来たからって調子に乗らないでくださいね。ーーてかマジ黙れし」
飛んできたのは妹からの熱いラブコール、否、吠えメールだった。さすがにどぎつい言葉だったが、先生は何も言わなかった。小嶺はこの場を受け入れておくことにする。
「季、お前は言葉の加減をしらないな」
「小嶺っち、気をつけたほうがいいよ。あなたはつい今来たようなものだから知らないと思うけど、あのお方はガチで調子乗るから」
小嶺は何か言おうとしたが、光臣のほうにあっさり発言権を奪われた。若干強引に。
「おい、転校生に余計なことを吹き込むな。だいいち俺が先頭に立ったときに限って、調子に乗るなんてコトがあるか」
「ある。兄貴バカだから」
「うわ・・・・・・実の妹にここまで罵倒されると、泣けてくる」
平然とした顔で否定された兄が今にも泣きそうな顔をして小嶺のほうを向いた。もちろん小嶺は困惑するしかなかった。直後に、どうせ演技だろうと考えてプイッと外を向いたが。
もう一人ーー片品先生が事態の収拾をはかろうと、机の上に潰れている光臣がさっきやったとおりにパンパンと手をたたく。小柄なわりに打つ手の音が大きい。
「さて、うるさくなりそうな人が寝静まってくれたので、授業のを始めましょうか。小嶺さん、悪いけれど窓を閉めてくださいませんか? 声が通らないので」
「了解でーす」
なんでここの教員は、これほどまでに辛辣なことを平気で口にするのか、などと考えつつ、小嶺は間延びした"対人用”接触語法で返事した。
窓辺から吹き込んできていた風は収まった。小嶺の気持ちからすれば、中で響くエアコンやダクトの際限無く続く機械音よりかは、自然風のほうが好きである。とはいえ、転校生が一人主張をするのは気が引けた。
「ありがとう。ではでは、2時間目の最初は今年から更新される課題事業についてです」
「課題事業? なんだっけ、それって」
季があらんかぎりのタメ口で質問した。それが許されるのはこの学校の特徴だった。何事もなかったように先生は答えを返した。
「いままであなたもやってきたことです。中学までに生徒がやるべきことというのは、それすなわち学業。あなたがやってきたのは基本教育課程です」
「ま、まじで・・・・・・! アタイ、今の勉強をするだけでもヒイヒイなのに・・・・・・」
兄ちゃんバカだから、と言い切ったわりには、自分にも心配の余地があるようすの季を見て、小嶺はプッと吹き出しそうになった。
「そう案ずることではありません、季さん。基本教育とは違い、高校の課題事業では指定された事業さえ満たせば、あとは自分の好きな役割を全うするだけです」
先生が季を諭したところで、小嶺の前に座っていた光臣がむくりと起きあがる。
「先生の言うとおり。妹よ、俺たちがやっているのは単なる作業に近い。だから痛手をさらに負うようなこともない」
「なんだもう起きあがっちゃたのか。あーあ、光臣さんはつまらない人間ですねぇ~、そんなことだからいつまでたっても青春できないんですよぉ?」
妹は兄に逐一言われるのが気に入らない様子で、嫌みったらしくネチネチと言い放った。応戦した兄のほうは、座席を軋ませて立ち上がる。決して彼が太っているのではない。むしろ細いであろう両脚の後部がイスの脚に触れたのだ。
「あのなぁ! 人が一番気にしていることをよくもーー!」
「はい光臣くん。うるさいので黙っておいていただけますか? 約束ですよ・・・・・・約束破ったらどうなるか知ってますよね? まぁ知らないとは言わせませんけど」
とは、少々こわばった笑みの先生が漏らした言葉。
「ぎくっ」
光臣は、ぎくっ、なんて文章にしかでてこない表現を、あっさりと口に出したのだった。人間関係の幅が広い小嶺でさえも、こんな人間は初めてである。
いや、ある意味通じるところがあるのかもしれない、ということにしておこう。とりあえずの結論はそれだった。ともあれ小嶺にはもっと大事なことがあった。
小嶺は目立つ高らかな声で、片品に質問した。
「で、今年の本校の課題事業って、結局何ですか?」
「俺もその答えを待っているんですが、なにせこいつがうるさくて・・・・・・」
「こいつとはーーアタイに何か恨みでもあるの!? まぁ、その課題ナントカってのは、ちょっと興味があったりもするから、教えてほしいけど」
皆の視線が集まったところで、片品は目を細めた。教師人生のなかで、やる気の無かった生徒達が急にやる気に満ちあふれていく姿が、たまらなく好きになったのだ。うっとりしているのもつかの間、すぐに説明を始めた。
「教育省から、手紙が来たんだ」
片品は、A4サイズほどの茶封筒を生徒達に見せびらかした。表には書留印、裏には封印のタイムスタンプが押してある。どこをとっても重要な感じがする封筒だ。
中に入っていた一枚の台紙を手に取り、読み上げた。
「貴校は教育省より認証された高等教育の場として、これを達成することを生徒及び教職員への義務とする。なお、これが達成されなかった場合、当該生徒または職員は高等教育法の規則に基づき、校外追放となる場合がある」
「先生。前文なんて、毎年変わらないグダグダ文章みたいなものなんで、省略してしまいませんか? こいつらはまだしも、俺にとっちゃ飽きる時間以外の何者でもないです」
途中、光臣がけだるそうな表情で片品に提案した。話をふられた片品だったが、特段生徒をしかりつけることもなかった。もとから叱り文句の上手い教員ではないことは自覚しているうえに、そもそも彼らはやる気がないわけではないからだ。
「すみません、生徒会長さん・・・・・・」
小嶺は光臣の肩をトントンと軽くこづいて、小声で声をかけた。
「うん? なんだ?」
「たしかに前文は堅い文章ばっかりのつまらない文章ですよ? けれど、慣例的に読み上げるのもありではないかと。それに追放なんて、物騒な事例に関わってきているので」
「あぁ、小嶺さんは初めて来た高校でもあるし、地方でもあるから不安だろう。けれど高校の課題事業ってのは、案外時間に追われるんだよ。できれば、こういう時間は削りたい」
「で、でもーー」
課題事業がどんなものか漠然としか知らない小嶺は、もうちょっと詳しい制度関係を確認したかった。したがって不満が残る。
「急に詰め込むような知識じゃない。大丈夫、俺たちがおいおい教えていくことにするさ」
「そ、そうですか・・・・・・」
小嶺の様子をちらっと目に入れた光臣は先生のほうへ向き直った。
「進行止めてすみません、新しい課題事業はなんですか?」
「いいでしょう。発表します、新しい事業はーー」
片品は一息おいた。この一息の間に、緊張がはしる。教師のやり方、基本中の基本だ。絶対に生徒が理解すべきことは間をおけ。
季が指を鳴らしても、兄は泣にも言わなかった。それくらい空気が張りつめる。
「日本人における現代時代の文化についての報告書作成、とのことです」
直後の反応は、大きな開きがあった。光臣は、ほう、と分かりきった様子で受け入れた。反対に季は、去年までとは全然違う、意味わかんないし、と拒みの入った文句。小嶺はあまり目立たないように努力していた。
最後に先生が付け加える。
「小嶺さんにはさっぱりなので説明をしておきましょう。さっきのお題目がこの学校が3年間取り組むべき課題です。それから、これをうまくこなさないと卒業条件に引っかかるのでご注意くださいーーじゃああとは生徒会長におまかせしようかな。先生寝てきます」
右手を生徒会長の肩にポンと乗せたあと、先生は教室を出ていってしまった。
「え、肝心の教職員さんが抜けていくって・・・・・・あの人は職務放棄しているんですか?」
「違うんだ。たしかに片品先生には、先生という肩書きがついている。だけど、それは僕らを直接教えるという意味ではない。直接教えるのは季のような中学生までだ」
「つまり、私たちは自力ですべてやらなきゃいけないんですね?」
「そうなるな。おまけに今回の課題ときたら、かなり抽象的な表現だから、何をやっていったらいいかよく分からない。こいつはちと面倒だ」
去年までの課題事業は、ひたすら逮捕術にいそしめという内容。光臣でも、体育系から学術系となると、さすがに対応しきれない。
「2人だけで、あの課題。でも、やるっきゃないですね」
「2人か・・・・・・2人ねぇ、まぁそう思うのも無理はないかな。小嶺さんの場合は」
光臣がなにやら過去を思い出すようにつぶやいた。その時だった。ガタッとイスを転がさんとする勢いで席から立ち上がったのは、吹寺季だった。
「兄ちゃんその話をしてはーー」
「あぁ、分かっている。あいつの事情も承知の上だ。けれど、どうしようもない事情がある」
あいつーー小嶺の心には、この単語がくるくるくるると回転し続けていた。その人に何があった? その人は誰だ? その人は何者だ? 私には危険な人か? そんなに隠す理由は?
「兄ちゃんの事情がどうだか知らないけどさ。小嶺っちにあの娘のことを教えたりしたら、私もただではおけないからね」
「ふん。小嶺さんを前にしているというのに堂々隠しごとの話をするとは、いい頭だな、妹」
あ、と季は完全に気の抜けた声をだした。そして、いい頭だと皮肉られたことが気にくわないのか、自分の失敗に顔を赤らめる。
このままでは季がふくらみあがって爆発しそうだったので、小嶺は救いの手をさしのべた。
「私が知ってまずいお話なら、今のは聞かなかったことにしますが・・・・・・」
「え」
突然の提案に驚いたあと、歓喜の声をあげる。
「いいの? じゃあ、遠慮なくーー」
「そんなわけで小嶺さん。面倒だから季はおいていこう」
「え、それはまずいんじゃないですか?」
光臣がこう効かれてニヤリと笑ったのを、小嶺は見過ごさなかった。妹と合意するのを、光臣はすっかりあきらめたらしい。交渉決裂。
「そうよ1 アタイに許可されず動くなんて、アタイの兄貴らしくないし!」
「いつから俺はお前の支配下に落ちたってんだ、理解できない。さぁ小嶺さん、とりあえず本校に来てくれたのだから、このだだっ広い校舎を案内しよう」
「まっ、待ちなさい・・・・・・?」
季は本格的に兄を止めようとしたが、圧しの言葉は途中で止まってしまった。ガラッと、歌舞伎舞台の障子のごとき速さで教室が開いたのだ。
先生が戻ってきたのだった。軽くもめ事になりかけていたので、先生に一喝されるかと冷や汗が流れる。けれど違った。
「おやおや、にぎやかなところ失礼。先生、ひとつだけ伝え忘れたことがありましてね」
「伝え忘れ?」
光臣が先陣をきって尋ねる。
「そうです。先生は新年度移行の手続きで頭に無かったんですが、吹寺季さん、あなたは去年提出するはずの幾何照明問題集をいまだに出していないですよね?」
「げ・・・・・・」
「中学最終学年の成績にも響いてしまいます。分からないところを質問できる時間を設けなかった先生が悪かった。そんなわけで寝るのやめたんで、季さんは課題を終わらせましょうか」
「マジでぇ・・・・・・今ですか」
「今、強制です。成績表のコメント欄に書くことが変わりますのでーー」
がくっと肩を落とした季の横を、なるべく見ないようにしつつ通過した小嶺だった。それでも心の中でニヤつくほかない。光臣に手招きされて逃げるように廊下に出る。
「片品先生、グッジョブだな」
光臣がぐっとこぶしを握って胸元に揚げた。
「光臣さん、まさかあの人とつるんでいるんですか・・・・・・?」
「まさか! そんなことはないよ、タイミングがいいだけさ」
「ならいいんです」
廊下は薄暗い。けれど古びているってわけでもない。採光のいいデザイン校舎には、かなしくも穏やかな陽光が注いでいた。先生と歩いたときには重い教科書を運んでいたせいなのか校舎の細部は見られなかった。
「小嶺さんはーー」
「あっ、あのー。先輩が"さん”付けしてくれるのはありがたいんですが、立場の都合上でやっぱり違和感たっぷりとは思いませんか」
「ん? そうかな」
「私からしてみれば、あまりおちつかないんですよねー」
光臣は考えた。何かを言われることなく社交していくことこそ紳士的ってものだろう。しかしそれが本人の希望と一致するとは限らない。本人こそが、最大の決定主だ。
結論した。
彼女のことを、こう呼ぼう。