三章 : 喜びから外れた歯車は嘆きに嵌められて、回る ... 後
家路はぼんやりと眩く、行き交う人々の笑顔は更に遠ざかる。
改めて感じると懐かしくさえ思えてしまう、慣れて久しい束の間の孤立。
独りだ、という実感は、その事実としてのみ在るだけで。寂しくも嘆かわしくも無く。
ただ、何となく虚しいのは、居た筈の彼が居ないからだ。
ぴったり三人分だった夕食。
少年は其の妹に、自分の到来を予想していたのだと言ったと云う。
だから密かに、多めに用意したのだと。
綿菓子のような彼の嘘が、また、一つ積み重なる。
彼はその陰で久時に告げて、此れは告悔なのだと言った。司祭の彼に感謝を告げて。
十字を携えた小聖堂が、出た時のまま残されていた。
点けっ放しの明かりの所為で、硝子の虹彩は外に漏れ、奥で黙する自宅を浮かび上がらせる。
ただいま、と言い当然のように開ける戸はチャペルのそれ。
姿の見当たらないカノンは、静まり返った家には居ない。
きっとまた街を見下ろして、時を、待っているのであろう。
全てが静寂に包まれて、此処から何も無くなる時を。
「裏に、居るかな」
きっと。そう呟いて、細い花瓶から花を引き抜く。
あの弟に関しては、心配になる年でもなければ其れを許すような人柄でもない。
送り届けた少女のように、目を離したら夜空へ飛び込んでしまいそうだとも思わない。
放っておけば良いからと、彼もチャペルを後にした。
森には少し満たないような、裏の木立ちの最奥は、開けた草原になっている。
其の更に奥にひっそりと、佇んでいるくすんだ墓標。
秋には彼岸花が咲き誇る、真っ更な草地を踏みながら、墓標の前にぱさ、と無造作に持っていた花菖蒲を添えた。
複雑な色を湛えた目で、刻まれた文字を暫らく見遣る。
黙祷は無く、ただ、感情の引いた視線を捧げ。
片膝を付いてしゃがみ込むと、−HATASE−と歪に彫られた文字を、白色の指ですっとなぞった。
「今晩は……果刹」
緩く笑って紡ぐ挨拶。
込み上げても来ない涙はきっと、何処かで枯れたままなのだろう。
返されることのない言葉に、沈んだ沈黙が、下りる。
目を閉じて、思い出されるのは鮮やかな赤。
血の気を失くして俯く顔と、薄暗闇に光るナイフ。
返り血を浴びたのは果物だった。
『―――――』 絞り出された悪態の、行き先は誰にも分からない。
「随分、遠いことみたいだ。未だ、……喪に伏す期間だけど」
気を緩め、空を仰ぐと風が吹く。
無い筈の返答と受け取って、「うん」、と小さく頷いた。
「もう、しつこいくらいに言った。君は嫌いだろう? 果刹。でもね、」
言わせているのは君なんだよ、と。
何所か冷たいやり取りは、彼の生前から変わらない。
互いに背を向け続けたような関係だった。
振り向き確かめる必要も無く、放っておけば互いの気配が感じられる場所まで寄っている。
背後に風は通らないと、莫迦げた夢を、だから見ていた。
性格は互いに熟知している。
彼は久時を皮肉を込めて「詐欺師」と呼んで、久時は彼を嫌味たっぷりに「聖者」と呼んだ。
不愉快そうに二人揃って眉を顰めて、久時が笑い、果刹が喉の奥を鳴らす。
“髑髏を持った聖人君子”、手紙にも書き添えた皮肉を、墓標に彫ることは無かったけれど。
「其れだけ……変化は早かったよ。崩壊は早い。長い年月で築いたものも、一晩で消えてしまうのだから」
歯車を一つ抜き取られれば、後はドミノ倒しと言っていい。
月が煌々と輝いた夜、まさに、其れが実現した。
全てを持って行ったのは、多分、果刹だったろう。
彼の周りに在った者の、心は彼しか向いてなかった。
心の在り処は彼だけだった。
「ずるいよね。君は」
そうと云うのに全てを置いて、一人遠くへ行った、彼に。
悪態を吐きに来たわけじゃない。けれど結局、此れが言いたかったのだろう。
幽霊とか言うイディアルな、其れが存在するならば―――出て来てみろと、何度、内で言い放ったか。
彼の居る間は必要さえも感じなかった、心の底からの暴言は、冷たい墓石に投げ付けられる。
一つ一つの其れらはしかし、裏を返せば一種の叶わぬ祈りであった。
追憶という甘い夢から、彼を引き摺り出したいという、幼稚でくだらない願望だった。
「……分かってる。莫迦げてるって言うんだろう」
ごめん。何所へともなく向ける。
懐中時計の蓋いを外し、折れそうな針に指を這わして、時だけは、大量に流れたのだと知った。
そろそろ戻る頃合いかと、緩慢に腰を上げ、立ち上がる。
今宵の中で日付は回り、もう一日は終わる頃。
新たに廻った季節と共に、沢山の物が埋もれたのに、真っ先に覆いたい嘆きの記憶の断片は未だ、色褪せてさえくれないようで。
其の日と今日の二日しか、此の世に生きていない気がした。
明日もおそらく、そう思う。
過ごした日々と同じように、その友人に背を向けて。
「ねぇ、聞こえる?」と問い掛ける。
緑が互いを擦り合う音が、小さく彼の耳に届いた。
淡々と、言葉を紡ぐ。“君に祈りたい事があるんだ”。
「君に渡した花菖蒲。其れは、僕の本心だから」
―――――護ってあげて。あの子たちだけは。
彼も、まったく同じことを、今望んでいる筈だから。
いや、ずっと幼かった頃から、望み努めていた筈だから。
何物にも染まることの無い、夜闇の色のガウンを脱いで。
“聖者”から一人の“人”へと変わる。
信憑性の無い神にさえ、縋ろうとしてしまうような、何処までも無力な人間に。
ガウンと対を成すような、白い、白い花菖蒲。
供えた花を思い起こして、
「“信じている”よ。神なんかより、果刹。君を」
最後に墓標へ笑い掛ける。
今宵の手向けに選んだものは、彼に寄せる絶対の心情。
紡ぐ言葉はひ弱な紙に綴った手紙のようなもの。
風や宵闇に溶けて消え、届かなくても文句は言えず。
けれど如何しても彼には聞いて欲しいから。
遥か昔から人々が、花に閉じ込めた言霊を送る。
通じ合う認識は世界語にも似た不変の言葉。
此れならば、彼の目に届く前に散りゆくことなど無かろうと。
「次は……何を飾ろうか」
ただ、“何となく”感じたから。




