三章 : 喜びから外れた歯車は嘆きに嵌められて、回る ... 前
昼より冷えた初夏の夜風が、少女と“保護者”の髪を揺らす。寒くないかと問い掛けると、少女は短く頷いた。
蠢く影のように流れる人の波。
煉瓦造りの街並みの、石畳をかつかつと踏んで行く。
鐘の音と同時に点された、朧な山吹の街灯が、カーテンの隙間から漏れる光と大路を走る路面電車に時折手助けされ、照らす道。
月の無い夜。決して明るくは無かった。
此の季節、子供の影は見当たらない。
自分より頭一つ二つも高い大人を落ち着きなく見回しながら、繋がれた手に力を込める。
怖い、言外に示す少女に微笑んで手を握り返し、人気の少ない方へと進む。
蝙蝠が飛んでもおかしくないと思えるほどに、鎖された闇の狭い道で、少女は漸く肩を下ろした。
人は、居る方が怖いと云う。
全く誰もいない小道は、安心するのだと、彼女は。
『兄様がいる気がするの』、嬉しそうで泣きそうな微笑みに、聞き手は何を返せたろうか。
消えてしまった面影を、其処彼処の景色に求める様に。
育ち盛りに背丈も伸びず、成長をも止めたような少女は、おそらく一年前のあの日に、毀れてしまったのだろう。
あまりにも整った笑顔の、仮面で呼吸を止めたまま。
影を背負った洋館の、半開きの門を手の平全体できぃと押して、庭に目もくれず手を引いていく。
何時の間にか、二人の位置は逆にあった。
半歩後ろに付き添いながら、足取り軽い少女を見遣る。
此の景色。数年前からまるで変わらない此れこそが、彼女の崩壊を告げ知らせた。
兄は未だ此処に居るのだと、涙の中で笑い、そして。
何時か兄の許へ行くのだと、明るく笑って自分に告げた。慄きと恐怖は忘れない。
「ただいま、兄様」
大きな扉を力いっぱい押し開けて、もう一人の兄に呼び掛ける。
「上がって、久時−ひさと−さま」、小高い声に、お邪魔しますと其処をくぐった。
閉まる扉の音が響いて、直後足音が近づいてくる。
ダイニングに続く戸を大きく開き、向日葵にも似た笑顔を惜しみなく見せるのは、彼女と年近い少年。
片腕には両手鍋を抱えて。
「お帰り。久時兄さんもいらっしゃい」
暖かな夕食の香りが、エントランスまで広がっていく。
家へ送るという役目を終えて、別れを告げようとする久時に、奥からアルトの声が掛かった。「兄さん、」と。
「久時兄さんも食べて行ってよ。おれ今日作り過ぎちゃってさ」
「え、でも、」
「やーった。行こう? 久時さま」
虚しい遠慮は言葉にならず、ぐいぐいと手を引かれ通される。
中では少年が一皿ずつ、既に料理を追加していた。
青年に要る量がすんなりと、鍋からよそわれていく様は、作り過ぎたのは事実と教え。久時は其れに甘んじる。
食べ盛りの少年には多めに、少女も此れで、充分だろう。
如何して、という素朴な問いの、答えは考えるまでも無いが。
―――――果刹。
青年と、少年と、少女。組み合わせは一家と同じなのだ。
用意された余分な一皿は、本来誰の為にあったか。忘れるほど遠い記憶ではない。
否、たとえ遠くなっても、忘れる事など有り得ない。
―――――また、思い出してたんだね。
努めて明るく振る舞う彼は、きっと妹を泣かさぬ為に。
一人彼の人を思い出しては、其れを隠しているのだろう。
「兄様どうしたの」という問いに、「内緒な」と笑って耳打ちする。
納得したような頷きに、満足そうに更に笑って。
逞しいとは言い難い、両肩に入れられ続ける力。
どれ程かなんて予想する事は出来ないが、抜く場所が与えられていないのは知っている。
其れを甘んじて受け入れている。
一人兄として残された、彼のプライドなのだろう。
もしくは、其の所作さえも、彼に倣っているのだろうか。
歳の離れた弟妹を、一時も不安にさせなかった彼に。
鍋を置きにとタイミングよく、厨房に姿を隠して、彼は、大きく長く息を吐き出す。
悟られてはいけない、気付かれてはいけない。
心配を、掛けてはいけない。不安にさせてはいけないと。
守らなければ、ならないと。
ただでさえ、壊れてしまいそうな子だから。脆く儚い少女だから。
窮屈な時は、其れでもひどく幸せだった。
未だ彼女がいる。其れだけで救われる底の人生。
だから、―――自分のエゴの為に、此れは壊してはいけないのだと。
「祈咲、明日はどうするんだ?」
彼は、笑う。
造花の向日葵のように明るく。限界まで顔を綻ばせて。




