一章 : 散り落つ桜の花弁の上で ... 前
「此処にいたの」
さく、と。未だ水気の残る草花を背後の誰かが踏み締める。
容赦の無い、風情さえ感じさせる音。
其れに伴った無機質な声に、―――「探した?」―――首と目線で彼は答える。
何処か幼さを残した貌の、少女の頭が揺れる度、柔らかく色薄い髪も揺れて。
心許無い木造の、彼の座るベンチに歩を進めつつ言葉を紡ぐ。
「ううん、少しだけ」
「そう」、と答える彼の傍ら。
独り占めていた空間で、けれども其れが当然のように空けられていた長椅子の右。
慣れ切った自然な振る舞いで、彼女は其処へ腰を下ろす。
静寂。薄く伸ばされた雲が流れる音さえも、聞こえてきそうな静けさの中。
戻された彼の視界にはまた、お世辞にも綺麗とは言い難い、朽ち色のカーペットが入る。
視覚を共有するかのように、彼女も同じものを映して、
「綺麗。なのに寂しいね」
何処へともなく向けられた、賛辞が耳を掠めて消えた。
視線の先を少女へ向ける。
幾分前までは仄かに彩られ舞っていた、今は色褪せかけた絨毯を、彼女は虚ろに眺めていて。
“君さえそれを想うんだね”と、諦めにも似た笑みを漏らした。
―――――如何して、
こんな一片が、人の心に残るのか。何故、人間の心は、これしか残しておけないのかと。
過ぎ逝く春を思う度、感じる世界の空虚さを。
問い掛けた先は自分自身でも少女でもなく、常日頃、見向きもされない若落葉。
未だ瑞々しい木の落とし子は今散り逝くには早過ぎるが、見上げれば青く残っている。
人の生涯の四分の三。常に目に入る彼らはある意味永久的で、輪廻の象徴。
冬間に一度死に絶えても、また同じように蘇る。
常盤、永遠、永久、悠久。
憧れた限り無い時を、あれほど言葉に表したのに。
讃美するように人が仰ぎ、詠い、親しみの情を向けるのは、何時の世も此の桜のように、脆くて毀れ易いもの。
“果てがあるから美しい”とは、一体誰が決めたのか。
苛々と。込み上げる感情を抑えるように、彼は組まれた脚の上で、腕を組んだまま目を閉じる。
その一連の所作だけで、彼自身以上に彼が解ってしまう少女の、大きな目が横から覗き込んだ。
火種の言えない苛立ちを、ゆっくりと噛み砕いている意識。
その隅の方で機能していた聴覚が、自分の名前を聞き付ける。
「架音−カノン−」、と。
別段気に入りの名前でないが、感情は緩く黙していく。
単純、と内心で自嘲し、短く返して目を向ける。
覆っては見せる瞼の奥が、不思議と不安を掻き混ぜたように揺れていた。
「何か拙いこと言ったかな」
私、と少女は指を向ける。
言葉を待つ折の独特な表情のまま、カノンは暫らく動きを止めた。無意識に。
真っ直ぐ見つめたその先には、じっとカノンの顔色を窺う少女がいて。
彼女の髪を梳きながら、「さぁ?」と首を傾げて笑う。
「祈咲−きさき−が気にすることでもないよ。君には関係ない筈だから」
「そう」
強張った肩を大きく下ろし、少女の視線は再び落ちる。
頭を撫で下ろす手は止めずに、灯の消えた瞬きを見る。
既に治まった先の思いは、代わりに笑みをもたらした。
隣に大人しく座る少女が、今し方見せた心からの安堵を思い起こして。
自分の一挙一動にする、過剰なまでの反応は、子が養い手に嫌われまいとするのにひどく似通っていて。
小さく、喉の奥を鳴らす。
髪から肩へと手を滑らせて、自分の方へ引き寄せる。
華奢な彼女は呆気なく、彼の片腕に収まった。
ぱちぱちと、二、三度瞬いて彼を見るが、彼は何事も無かったように、移ろう絵画を眺めている。
何でもなかったのだと悟り、少女も地表に目を戻す。視界の端で、彼は見ていた。
光の射さない其の目に映り込んでいる、世界は、無機質なようで、
地面を透かしてその先までも、見ているような気さえする。
彼女が映す世界の色は、何色として処理されて。
彼女はその色彩に、何を感じるのだろうかと。セピアを見ながら考えた。
「桜より金木犀が見たいな」
「飽きたの?」
「ううん、そうじゃないけど」
―――――今日は、風が強いから。
流れない雲に向けた言葉に、あぁ、とカノンは薄く笑む。
“君って嘘は下手だよね”と。
顔を赤らめた彼女は小さく、“うるさいな”と威嚇した。
祈咲の他には向けようともしない、戯れのようなカノンの笑顔。
彼女は下唇を噛み、「だってね」、と言葉を継いだ。
「人の望みと正反対に、桜は世界を映すんだよ。優美な半面綺麗じゃなくて、散るのが早い人の世の中」
「うん」
「今日は……月も昇らない」
祈咲、と一度彼女を呼んで、紡ぎ続ける呪い言を断つ。
少女の見ている世界はやはり、色のない無機質なものだった。
そして彼女は、未だ追っている。
決して見られない筈の夢、パレットには乗せきれないほどの色が自然と取り巻いている何処かの日々を。
「いいよ。もう戻ろうか」
彼女の返事を聞くより先に、彼は立ち上がり其処を離れた。
もう直に、朱に変わる空。
何の意味すらも無いというのに、日入りの刻は鮮やかで。
全地を照らせる光の珠が緋色に葬られる様は、永遠なんて在りはしないと鼻先に叩き付けられるよう。
信じようともしていない神。
其れでも此の瞬間だけは、居て欲しい、と何処か思った。
其れは縋りたいからでなく―――彼は断言するだろう―――憎む対象が欲しいから。




