十一章 : 静謐な物語、白 ... 後
時計塔の鐘が、昼を告げた。
時計も無ければ陽も入らない部屋なのに、此処でも時は流れている。
外の世界と変わらずに、他の世界と、同じように。
此処もまた、確かに世界の一部なのだろう。
「―――――此の絵には、物語があるの」
「え?」
「……昔、むかし。あるところに、」
“一人の少女がありました。”
瞳を閉じれば、蘇る景色。彼女はいつも、鏡のように澄んだ泉の前にいた。
夕方になって、夜になると、どんな月の日でも彼女は泉の畔に立って、その水の裏を覗き込んだ。
泉の向こう側に立っている大樹の、太い根が泉に下ろされている。
その根の先が地面に付いていない事を、彼女だけが、知っていた。
その根は途中で括れて向こうへ繋がっていた。向こう―――――裏側の、世界の樹へ。
水鏡に映っているだけだと、人は思ったかも知れない。
けれど少女は其の先に、確かに世界が存在すると知っていた。
何時、其の水面を覗き込んでも、昼には映る少女の顔は、夜には映ることがなかった。
向こうの世界に、風が吹く。
色彩のない花弁が、遠く、向こうの水面に、ひらりと浮かぶのが見えた。
ある日、少女が泉を覗き込むと、向こうの世界の水面に満月が輝いていた。
温度のない真っ蒼な月。
おそらく雲ひとつ無い空に、くっきりと浮かび上がった其れは、細波に静かに揺られ輪郭を変えていた。
その月影に、羽根が落ちる。
其の蒼い光に染まらない、鴉のような漆黒の羽根。
次いで、真っ直ぐに伸ばされた爪先が、その上に静かな波紋を広げた。
『……天使さま』
“向こう”に舞い降りたその姿に、少女は思わずそう呟く。
対の世界に気付いた“天使”は、柔らかく笑って少女に返した。『どうしたの?』
「―――――お伽話のような夢の中、少女の楽しみはひとつ、増えた」
淡々とした語り口。
気付けば雫の目線すら、絵画に引き付けられていた。
話の中の“少女”とは、此処に描かれている彼女だろう。
対になった、単色の世界に人はいない。
けれど物語によると―――――此処には“天使”が棲んでいた。
『生死』、そう題された絵画。作者すら、明らかではない絵。
物語は一体何処から、どう伝えられていったのだろう。
今の語り手、祈咲は、何故、其れを知っているのだろう。
「天使は、少女に“シン”と名乗った」
彼らは月が西に沈んで、太陽が昇るまで共に過ごした。
何日も、飽きることなく共にいた。
けれど夜な夜な家を抜け出す少女のことが、不思議がられないわけはなくて。
少女の後を、隠れて追った人がいた。その人には、“天使”は見えなかった。
その人に見えたのは、泉の縁に腰を下ろして、何も無いところに話し掛けては笑う、少女だけだった。
魔女だ、と。
次の日彼女は住んでいた村を追い出された。悪魔の棲む木を燃やそうと、人々が泉へ押し寄せてきた。
『止めて! 違う! 私も彼も、悪いことなんてしていない―――――』
魔女の言葉は、誰も聞かない。
少女は真っ赤な華を水面に咲かせながら、冷たい泉の底に沈んだ。
柔らかな陽光が、泉をきらきらと輝かせた。
真昼の夜空に沈みながら、永い夢へと落ちながら、少女は呟いた。『綺麗……』
黒く塗られた月が昇った。
一点の翳りも無い黒い羽をふわりと羽ばたかせて、月の天使は泉に降りた。
いつもよりずっと近い距離で、少女は静かに眠っていた。
月の天使が手を伸ばしても、鏡を挟んだ向こう側。
世界に、手は届かなかった。
「――――――終わり?」
「そう。此れで、終わり」
「題名は……やっぱり、無いのかな」
「“夢跡ノ現夢”」
ムシの、ユメ。其れは綺麗な甘い夢。
其れは儚い、玻璃の夢。
そして残酷で忌まわしく、呪われるべき天使の悪夢。
彼女の身体から滴り落ちた、緋色の泡と彼の翼で、彼は世界に手紙を書いた。
底など抜け落ちたような闇。
夜空より海の底より深く、息を呑むほど美しい、其の闇の色は翳り無い黒。
残酷な世界にサヨウナラ。
“天使”と、そして蒼い月は、忽然と其処から姿を消した。
泉の底に色彩の無い、世界が見えることは無かった。
「………そっか」
歯切れの悪い結末に、雫は諦めたように頷く。
祈咲は何も、返さなかった。
夢は、未だ終わっていない。




