十一章 : 静謐な物語、白 ... 前
真っ白な建物は、それ自体がひどく浮いていた。
“白”とは、常に浮いて存在する色だ。
見慣れすぎた漆黒の夜には誰も息を呑みはしないのに、白銀に染められた世界は空間から浮き出たような歪さを持つ。
脳裏に過る風景は、既に遠い過去となったもの。一面の白。
あの細かく脆弱な白い粒に、樹木さえ太刀打ちできない景色。
残酷な色。何時からか、白からはそんな印象を受けた。
もうすぐ、また、あの季節。
白は全てを、奪って塗り潰してしまう。
何一つ、無かったことにしてしまう。
「入らないの? 祈咲」
少し上から、声が掛かる。
入口の前で呆けたように建物を見上げている少女を、雫はその中から見下ろしていた。
“ガラクタ館”の、常連の一人。彼女が見るのも例の絵だ。
「……ねぇ、雫、白は好きなの?」
「ん?」
唐突な質問に聞き返すと、「好きなの?」ともう一度言われた。
白とグレイの大理石。
白い壁はしっかり磨かれていて、白い服の自分と少女の影が、薄らと映し出されている。
金縁よりも、銀縁の枠の方が多い絵画。
白い台座に乗せられた美術品。台座のプレートも、銀に黒文字。
―――――ああ、成る程。
思い返せば、此処は一面真っ白だ。
「あんまり考えないね。見慣れた色……かな。僕には」
「そう」
「君は?」
半歩後ろで、少女が目を瞬かせたのが分かる。
「君は?」
少女と同じように、もう一度質問を繰り返す。
彼女が沈黙したことで、靴音だけがいやに響いた。
雫は、白を好む。
浮世離れした雫にとって、“白”とは自分その物だ。
空間から、浮き出た色。
其れでも人が言うように、白は何にでも染まる事が出来る。
何色にでも染まるように、見える。紙面の上では、確かにそうだ。
けれど、紙面の上でなら。黒も赤も青も、変わらない。
例えば、黒が全てを塗り潰す色ならば。
白は、全ての存在を薄める色だ。白は、染められない。
白を染めるには、大量の色が必要になる。絶対的にも見える存在。
光の三原色を混ぜると、其れすら、白になるという。
他の何色でもない、白に。あの空間から浮き出た色に。
「好きじゃないと思う」
「なんだ。似合うのに」
雫とはまた違う、彼女も“白”だ。
此の世界から浮き出ているのに、此の世界に在るように見せている。
不思議そうに見上げているだろう。
その先の言葉は、言わなかった。彼女も別段問いはしない。
お互いに、興味が無い。
彼女が白を好きではないという理由も、別段聞きたいと思わなかった。
“生死”の絵。作者も分からない鏡面に描かれた世界を、彼女もまた、無感動な瞳で彼と同じように眺める。
同じように、眺めているのに。
彼と彼女が共に此処を訪れるところを、雫は見たことが無かった。
常に繋がっているように、同じ心を分け合ったように、仲の良い――其れは月並み過ぎる言葉だけれど――仲の良い、二人なのに。
「カノン君は?」
「んー……さぁ。多分教会にいるんじゃないかな」
「今日、会ってないの?」
「うん。何となく」
あっさりとした受け答え。
ぼんやりと、絵画にすら焦点を当てていなさそうな目が何を見ているかは分からなかった。
皆、不思議だと言う。その様子には問いたくなる。
“君は、カノン君をどう思っているの?”。
「一緒に……来ればいいのに」
さり気ない言葉に、彼女が振り向く。
不思議そうな表情で、大きく一度、瞬きをした。
「駄目だよ」。彼女が、言う。
「駄目だよ。………私じゃない私を見ているカノンには、きっと耐えられない」
否定の言葉に、淀みはなかった。
私じゃない、私。此の“ガラクタ館”のどれかが其れほど、彼女に重なっただろうか。
一際大きな“生死”の絵。
其の中の顔も見えない少女に、彼は祈咲を重ねているとでも言うのだろうか。
雫にその言葉の意味を、理解することは出来なかったが。
「そんなに、好き?」
カノン君のこと、と問う。
誰もそれを聞かなかったのは、きっとそうだと何処かで思っているからだろう。
けれど、雫には疑問だった。果たして彼女はそんなにも、彼に執着しているのだろうか。
此の、透明な笑顔の裏が、無いとはきっと、限らない。
透明な板の裏側に、もしも鏡が置かれていれば。その先は誰にも、分からない。
「分かんない。でも、カノンがいないと私はきっと生きられない」
答えは、そう。“依存”だった。
誰かに凭れるように生きる。かつては其れが兄で、今は彼。
好きとは言い切れない、嫌いな筈がない。分からない。
「カノン君は……きっと君を、好いていると思うけれど」
「そう」
絵画に向き直って聞こえた返事。それはあまりに淡泊だった。
拒絶の意思を不意に感じて、雫は其処で口を噤む。
祈咲はまた、変わらない絵画を見上げていた。
時間も温度も感じさせない、外界から切り離された空間。
昨日見ても、今日見ても、明日も、其れは変わらない。
現世を離れた其処は時を、絵画の時代で止めていた。
人が幻想的と呼べるほど、美術や芸術と呼ばれるほどには、美化された、綺麗なままで。
「………カノン君は」
黙って絵を見る、彼女は答えない。
二人共にいる光景は、心すら重なり合いそうなのに、こうした彼女を見ていると、まるで彼が、彼だけが、手を伸ばしているかのようで。
彼の、見ている方が息苦しくなりそうな想い。
彼女は何処まで感じているのかと、思ってしまう。
彼らが幼子の積み木のように、造り上げている世界など見えはしないけれど。
完成予想図を知らないままに、口を挟むのは罪だろうか。
結論は、考えるまでもなかった。
彼だけが、カノンだけが、きっと其のものを断罪する。
繊細で曖昧な二人の世界に手を出すものは、誰であろうと、どんな意図であろうと許さないだろう。
「カノン君は、君を好いていると思う?」
「…………」
その沈黙が、肯定か否定かは分からなかった。
其れでも「そっか」と頷いて、雫は徐に踵を返す。
タイミングを見計らったように、其の、背中に声が掛かる。
「カノンは何も見ていないよ」
振り向いても、彼女の立ち姿は変わらない。
此方から見える頼りない背中は、抱き締めると容易く砕けそうで、其れでも誰かが捉まえないと、消え失せてしまいそうだった。
枯れ葉のように、粉々に霧散するのではなく。
綿雪のように、人知れず、溶けて其処から消えてしまう。
祈咲にはそんな脆さがある。
満ち、強い存在感で其処に立っているかと思えば、欠け、朧げに佇んでいる。
そして、其の夜空から、ふと途切れて消える月の危うさ。
彼女の口が、微かに動く。
声は、無かった。
けれど確かに雫には、「カノン」、そう言ったように聞こえた。
「カノ――――――」
「カノンはずっと、此処にいるの」
「……そっか」
あの、創作された景色の中に、彼はずっと身を浸している。
普段の彼からはおそらく考えられないほどに、柔らかな雰囲気で此の絵を見る、彼を雫は思い返した。
―――――カノンは、ずっと此処にいる。
雫にその意味は分からないだろう。其れで良い、と祈咲は思う。
真っ直ぐ見上げた絵画には、少女が一人。ただ一人だけ。
カノンは、此の対の世界――――此のモノクロの景色の中から、綺麗に止まった世界を見上げているのだろう。
蜃気楼のような存在だった。
彼から見る此方はきっと確かなのに、此の世界で彼は不確かだ。
何処にいるの? 其処にいるの? 出会う度に、確かめる。
今日は、何処にいるの? カノン。




