十章 : 空の北極が緋に染まる頃 ... 前
地に咲き誇った時雨が止んだ、一年前の秋の一晩。
霞晴れの宵空の中、時折思い出したかのように星が、浮かんでは消える。
去年、あの場所にカノンは、彼を待つように佇んでいた。
彼の屋敷に背を預け、じっと、目を閉じている。
腕の中にある冷たい鉄を、腕を組むことで閉じ込めながら、その引き金に指を掛けて。
ぎぃと、門がずらされた。
緩慢に瞼を持ち上げると、彼は、薄く、其の鉄以上に冷たく笑む。
「今晩は。果刹さん」
主人と客が、逆転しているような光景。
屋敷の主は断りもなく訪れた彼を気にも留めず、ただ、一言投げ返した。「物騒な事だ」、と。
些か不自然な腕の組み方。
僅かに、だが確実に、ぷつりと途切れているカノンの“色”。
闇夜に溶け込んでいる黒が、あの小柄な鉄の塊が、隙間から覗いているのだと。
思い至るまでの時間さえ、果刹には必要なかった。
「そうだろうね」
返されるのは、何を考えているとも知れないただ深いだけの魔窟の笑み。
優雅にも感じられる所作で、カノンはするりと腕を解く。
引き金に指が掛けられたまま、金物の口が果刹を向いた。
人に、指図されない限り物言わぬ、ぽっかりと開けられたままの口。
ほう、と其れを見る果刹の目は、何処かいとおしむような、場違いな雰囲気を湛えて。
「漸くか」。瞬きをするのと同時に笑う。向けた銃口が、刹那揺らいだ。
「待ち草臥れたな……長らくそいつを見ていない」
対峙している人物の手に握られている鉄の塊が、人の命を容易く奪うということさえも、記憶から飛びそうな表情だった。
細められた眼は、まるで尊いものでも見るかのように。
其の言葉に、表情に、カノンは穏やかな微笑みを返す。
黒金を握る者には不釣り合いなこと極まりないほど、柔らかく。
「嘗ての従者に殺されるのは、貴方にとっても嬉しいんだ?」
しかし紡がれる言葉は毒。
肌を突き刺す夜風さえ、母神の暖かさを思わせる。
じわりと広がっていく空気は、氷柱を隠し持っていた。
「クク…ッ どうだろうな」
相見えなかった世界の中で、また、古の世界の中で。
彼らは確かに“友”という関係を築いていた。
同じことを誓い、同じものを想い。
同じものを愛し同じものを見ていた。
崩れた、わけではない。崩したわけでも。
此の日も誰かが問うたならば、彼らはきっと答えただろう。
“嫌いではない。認めている。自分達は確かに「友」である”と。
「そいつが俺を忘れていなきゃ、何処を射るべきか教えて貰えるかも知れないな」
長い指で差した先の黒金。
今彼の手にある小振りな銃は、果刹がかつて、手渡したもの。
何の為にか、などというのは、聞かなかったし言わなかった。
今此の為に使われても、不思議ではないと表情が言う。
むしろ―――――此の為に渡したかのように。
小さく笑って、頷いた。決められた使い道はなかった。
彼は、其れを理解していた。
だからこそ、何も聞かず、何も言わずに、当たり前のように其れを向ける。
「誰も貴方は忘れないよ。尊き君主、夜闇の聖者。其の手に持つのは髑髏なのに、貴方は未だ指導者だ」
かつても、今も、そして、きっと此の先も。
進むべき道は太陽でも、まして月でもなく。北端の星に人は求めた。
闇の中、据えられた王座に腰掛けて、他がどれほど忙しなく周りを廻っても、決して動く事はない、氷の地の名を持つ其れに。
そうか、と彼が笑う。
愉しげなのに、何処か空虚に。
ス、と口角を持ち上げると、瞳が刹那、暗く光った。
急に、縮められた距離。
静かに伸ばされた手が、重い弾丸の出口を塞ぐ。
一瞬の間に構成された、彼の雰囲気は、まさに―――――、
「……なら、従って貰おうか」
翻された髪、流された夜色の眼が、『付いて来い』、とカノンに告げる。
「拒否権は、無いみたいだね」
「お前が俺を、“君主”と呼ぶ限りはな」
まさに、高潔なる“我が君”。
圧倒的な存在感で、総てが終わりへ向かう秋の日に。
彼岸の赤い花と共に、数多の、亡骸の上に、
金木犀は、咲き続ける。
―――――だから、……終わらせる。
+ + + +
此の地は冬を“枯れ時”と呼ぶ。
命が枯れ、風が乾く頃。
しかし、世界と時の死がなければ、再び春は巡らない。
屋敷の裏側へ回り、裏口の一つを果刹は開けた。
一つだけ、しっかりと鍵が掛けられた扉。
そのすぐ奥には長い階段が地下へ向かって繋がっている。
端の蝋燭に火を灯すと、明かりは下まで続いていった。
最下層、色の違う壁を片手で押す。
回転扉のような其れは、扉の奥から見ても壁。
地下の其の部屋は隠し部屋のような小さなソファとローテーブルだけがぽつりと置かれている場所だった。
テーブルの上には本が一冊、籠に入れられた果物と、果物ナイフが傍らに。
狭く暗いが、意外と使われている雰囲気だ。
「裏から入れる事を知るのは、おそらくお前が最後だろうな」
ソファに身を沈め喉の奥を鳴らす。
指で拳銃を模って、彼はスッと持ち上げた。
カノンに向けるように示された殺意の篭もらない武器は、向けていい、という合図。
いや、向けないのか、という催促だろうか。
所作が、表情が、死を甘んじて受け入れていた。
覚悟を決めていたのでも、諦めていたのでもなく、ただ。
太陽が昇り、落ちるのを、眺めているかのようにまったく当然のこととして。
考えた挙句の振る舞いなどでは決してないのが見て取れる。
思考を止めた人間の、果ての姿のように思えた。
人間が、極当たり前に日頃覚える感情さえ―――人は自ら取った行動に感情を当て嵌める事で其れを覚えているのだと言うが―――、その反射的に巡らせる考えさえも、覚えることを捨て去った姿。
身に降りかかる一切を、まるで運命だと言わんばかりに受け入れる。
立派と言うには程遠い。
彼は君主と呼ばれるほどの男だが、今の姿の印象に称えの情は入らなかった。
「人間じゃない」
「……そうだろうな」
拒絶にも似た響きは殆ど恐怖に近いものから出され。
其れに対する返答は、肯定の響きを持たなかった。
何も考えていないように、口だけを動かし音を放つ。
「まさかお前に言われるとは……あの時は思っていなかったが」
幾年かの時を重ねるうちに、彼もまた変わったのだろう。
カノンの眉根が寄せられた。不愉快そうに、銃を握る手に力が入る。
入って―――――掛けた人差し指を動かすことは、未だ出来ずに。
「……今更何を考えている?」
止められ続ける引き金に、果刹が笑った次の言葉。
鉄から意識を背け、カノンは短く答えを返す。
「僕は何も変わらないよ。記した誓いを果たしたいだけ。あの子を、其処から引き離す」
「矛盾だな」、と果刹が喉の奥を鳴らす。
自覚はあった其の言葉。淡白にカノンも肯いた。
「其の願いを叶えるのが矛盾か、捨て去るのが矛盾か……どちらにせよ、か」
「黙ってるだけで世界は変わるよ。今の世界に永遠はない。百歩譲ってあったとしても、移り変わる世界に造られた永遠なんて御免だね」
それは、いつ変わるとも知れない。
今さえ、人間というものは徐々に傾き、壊れていっているだろう。
積み重ねられる世界の上で、人々は歪み、狂っていく。
築き上げた文明に縋り、元々無かったものを夢見て。
周りが共に狂うから、其れに気づかずにいられるだけで。
僕の欲しい永遠は変わらずに一つだと、笑んだ。
「それで……? “変えたい”わけだ。景色を」
「……壊すのは、好きだよ」
人々が壊れゆくのなら、街も世界も、共に壊れてしまえばいい。
王も、神も、一度綺麗に消えればいい。
君主を失くした国は消える。
続くことなく終わった世界に辛うじて残された残骸がどのような末路へ向かおうとも、其れはもう、無から作られた新しいもの。
そうかと漏らされた、深い吐息。
外された視線は、もう何も映していない。
引け、と一言、命じられた。
「引け。……俺はもう良い。雁字搦めになった鎖は、世に呼吸さえ赦さない」
秩序は壊れても、夜は明ける。
押し遣るように、其れは世界を無理矢理明日へ引き摺っていく。
立ち止まる事を忘れた人は、目隠しをしたまま其れでも足を動かすのだろう。
アラームが、鳴り止まないから。もう止める術を知らないから。
息が詰まるような世界。
人々は平然とした顔で、知らず知らずに壊れていく。ただ、崩落に向かう世界。
「けどな。一人の土くれが消えたところで、楽園−エデン−への扉は開かない。……何なら試してみるが」
たとえ君主と呼ばれようとも、どれ程化け物に近くとも。
其の手に緩く、ナイフを握る。
ただ鉄を支えるだけの腕を見遣り、果刹は口元を歪めた。
彼に相応しい、勝者の笑み。
「お前はいずれ、負けを思い知る事になる」
紅い飛沫と、鮮やかに染め上げられたナイフ。
白い顔を歪なキャンバスにして、だが其の笑みは、歪まない。
“見物させてもらおうか”と、口は確かにそう動いた。
彼岸の刻印を暫し眺め、忘れていたと其の身を起こす。
擦れも感じさせない声で、果刹は静かに言葉を紡ぐ。
「此処までやってやったんだ。最後の命令、聞いてもらうぜ?」
―――――何で。
今尚、其の余裕を保つなど、他者には可能なのだろうか。
的を失い下ろされていた黒い重石が、容易く彼に奪われる。
胸元に添えられた銃口。逆転した其の立ち位置が、本来ならば正しかった。
殺すのか、と眼で問うた。
其れなら其れで構わないと、思っていたのかも知れない。むしろ、
後になり振り返るほどに、其方の方が良かったのかも知れないと。
「……殺されたいか? 俺に」
「貴方が殺したいんならね」
狂気に侵された、笑顔。互いに最もよく似合う顔。
小さく喉の奥を鳴らして、「安心しろ」と其の手が緩慢に下ろされる。
「アイツを傷つけでも……死なせでも、したら。来世では真っ先に貴様を殺してやる」
もう彼には手を伸ばせないもの。
断末魔と呼ぶにはあまりに相応しくない言葉で、彼はラストシーンを飾った。
一歩、二歩と、ソファの隅に崩れ落ちる。
其の死に様に添えられたのは、咲き乱れる自らの曼珠沙華。
生の糧を殆ど花に換え、雪のように蒼白く冷えた躯―――――此の、白は知っていた。
記憶に蘇っては消える、彼女と同じ冬の花の色。
けれど最後に彼が出した、焼き鏝のような黒の瞳は、知らなかった。
「―――――ッ」
駆け抜けたその感覚が、純粋な恐怖である事に、気付く事など出来なかった。
其の初めての感覚に。
冷たいだけの虚無色の眼。
此の刹那前まで目にしていた、あの色で幾ら睨まれようと――――無色の声音で脅されようと、何も感じはしなかったのに。
磨き上げられた信念を、何所に隠していたと云うのか。
生温かい死の川の中、背筋が凍っていく。――――寒い。
歯の奥が鳴ったような気がした。
気付けば、耳を塞いでいた。
気付いた時には、
叫んでいた。
膝を付き、あの日にさえも流れなかった、涙が頬を伝っていく。
其の滑稽な表情を月に映したくて、止まらない涙を風に無理やり乾かして欲しくて、澄み渡るほど冷えた空の下に這い出した。




