八章 : 誰そ彼の願いに寄せる花 ... 後
『煩せぇ此れから仕事なんだよ。下らない事で邪魔すんな』
甘えを許して貰えない、彼の厳しさが誇りだった。
“家族”になんか興味もない、そう言いたげな気だるげな目は常に冷たく見下ろしていて、けれど、どんな時であっても、言葉や温度とは裏腹に、必ず自分を映してくれた。
『朝には帰る。お前は寝てろ。泣き言なんざ其の後で幾らでも聞いてやる――――――』
見捨てる。見放す。
どれ程幼く脆弱な弟妹でも、決して其れだけは無くて。
陰で守ってくれているのも、大切にして貰っているのも分かっていた。ずっと昔から。
「兄さん……」
何処か、きっと些細だけれど重要な、何かが壊れた妹に、掛けられる言葉も浮かばない日々。
どうにもならない現実を急に突き付けられて知ったのは、自分が如何に無力かで。
どれほど果刹という存在を、自分が、周りが、皆が必要としていたか。
果刹の前では散々流し、鬱陶しがられた涙も何故か、他者の前では枯れてしまった。
残った兄としての面子だとか、プライドだとか、そんな事を考える余裕もなく。
気付いたら泣き方を忘れていた。
涙腺というのが何処にあるのか、まるで分からなくなっていた。
贅沢なほど。
そう言っても過言ではないほどに、兄だけで充分過ぎたのだ。
ちゃちな鬱憤を吐き出す相手も、子供染みた泣き言を漏らす相手も、兄だけで。
一番身近で厳しい教師。
彼が何でも受け止めて、きっと指導してくれたから。だから、
戻らないあの夜も。
「おれ、未だ何にも言ってねぇぞ? 兄さん、未だ何もさぁ!聞いてくれてないじゃんか……!」
彼だけに伝えようとしていた、あの時聞いて欲しかった、些細な事はもう忘れた。
果刹の言う通りに其れは、下らないことだったのだろう。
果刹は、間違わない。
狂信染みた感情だったが、其れも一輝の本音だった。
彼の後に従って行けば、望ましい道を歩いて行けると思っていた。
だが、自分の頭では、果刹は到底理解出来ない。
間違ってはいない筈なのに、彼の判断は何時も正しいと思いたいのに、瞼の裏に貼り付いて消えない最期の景色。
真っ赤な果刹と握られたナイフ。
如何して。―――――もう、答えは返らない。
其れでも、問う。無口な文字に何度でも。
そして気付かない振りをする。
相手を責めるように吐き出して、惜しみなく、次々と捨てた言葉を拾い集めれば、叶う事の無い願いに還り着く事を。
「ちっとも帰って来ないじゃんかよ! おれ、ずっと」
待ってんのにさ。
+ + + +
哀しみで造られた供花に、水が一滴弾かれた。
涙ではない其の雫は、空から零れ落ちたもの。
天は一瞬強く光って、遠くに轟音を響かせる。
「……雨だね」
前振りは刹那、突然に、叩き付けるように降り出した雨。
容赦ない其れに打たれながら、けれど久時は空を仰いだ。
不自然なほど明るい空に、一輝は眩げに目を細めて―――――、「本当だ」と呟き微笑う。




