八章 : 誰そ彼の願いに寄せる花 ... 前
“膝元”通りにひっそりと建つ、入り口が地下に沈む建物。
日が経つにつれ段々と遅れていく暁も、忘れられていく頃合いだが、人一人分の細いドアには未だ“CLOSED”と下げられている。
石造りの階段を下りて行き、まるで喫茶店かバーのような店内へ、閉店中にも関わらず入るのは少年だった。
施錠もされていないドアの、内側に下げられたベルが小気味良い音を立てる。
「未だ準備中なんですけど」。飛んでくる悪態染みた声を「うるせー」と一蹴して、一輝はカウンターに腰を下ろした。
寝起きのように乱れた頭に片手を当てて、愛想のない店主が姿を見せる。
一向に眠そうなその様子に、お前さ、と一輝の声にも溜息が混ざった。
「今何時だと思ってんだよ」
「んー? 良いトコ十時だろ。オレ今日すげー疲れてんの」
欠伸混じりの緩い声音に、「聞き飽きてんぞ」と呆れたような目を向ける。
着崩した白いYシャツの上からソムリエエプロンを身に付けると、彼の目も、漸く覚めたようだった。
手早くアイスコーヒーを作り、シロップを添えて一輝の目の前に出す。
「頼んでねぇし」
「奢りだ奢り。従兄弟の好。にしてもな……」
シロップを混ぜ終えたストローを外し、グラスに直接口を付けてコーヒーを飲む一輝の顔を、頬杖を吐いたままで見遣る。
何だよ、と眉を顰める彼に、喉の奥を鳴らして店主は笑った。
決して逞しいとは言えない身体に暗い光しか宿さぬ目。
知識はあるのに世界を見ない、其れゆえに作られた“人”は、皆がそれぞれ浮世から離れているようだった。
果刹、おそらく祈咲も、目立たなかったが昔から。
彼らと比べればこの二番目は、随分真っ当に“人”をしていると思ったのだが。
「オマエも似てきたな。兄貴に」
尤も彼にとっての兄は、義理の関係だと知っているが。
容姿が一向に似ない代わりに、雰囲気の方が近付いてきた。
上が、居なくなったからか。
自分を犠牲にしても後を守ると云う兄の顔。その犠牲ゆえに眼に宿った暗さ。
刹那浮かべた複雑そうな表情は、「そうかよ」という上辺の呟きに拭われる。其処も。
「アイツも『そうか』で終わらせんな。……で? 用件は?」
一輝の背後に広がるのは、丸テーブルと添えられた椅子。
カウンターから出た彼は、入り口と違うドアノブに手を掛けて尋ねる。
「どうせ上だよな」、そう付け足して。
+ + + +
白い半透明のセロファンと、銀灰、藍鼠の二色のリボン。
握った指先が重なるほどに細い花束を携えて、人混みの中足を速めた。
“兄貴に一番似合う花”。
先の店での注文は、悲哀を印象付けるこの時期に相応しい、群青を詰め込んだ物。
『節操無し』。あの店主に言った、兄の言葉が蘇った。
何にでも手を出した結果、店はあの通り。
そつなく続けているのだから、無駄に器用としか言わないが。
小さな建物の隅々までは、一輝も把握していない。
「……便利だけどな」
此処までの彼の扱いの為か、既に弱り始めた花に視線を落として、ぼやく。
人の流れに吸い込まれ、誰にも届かず消えた声、それは当り前で。
―――――此の、人混みの中じゃなくても。
自分の声は、何時も何処にも届かない。
何故か込み上げた笑いをそのまま表に出した。
近付いてくる目的地。
足取りは、気の天秤を表すように不定のリズムを強く、弱く、定めずに刻む。
行き交う人にぶつけられ、煽られ続けていた花は、その大通りを抜ける頃には疲れ色を濃くしていた。
覗き込めば、花びらさえ欠けている所もある。
口をもう一度下に向けて、更に、人の居ない方へ。
誰一人いなくなった先こそ、何時、どんな時であっても、一輝の目的地だった。
最後には、独りの場所へ帰ってくる。其れは家であり、兄の居る筈のこの地でもあって。
「兄さん……おれ。一輝」
薄く広がる石に向かって、ゆっくりと言葉を投げかける。
自分の家に未だ残っている、今は誰もいない一室の、ドア越しに話し掛けるように。
無論、目の前の石の扉が内側から開かれるなどということ。そのような夢想を望みはしない。
冷たい灰色の墓石は、何を前にしても其のまま、押し黙ったままだ。
滑り落とされる花束は、丁度持ち主の名前の上に。ぱさりと落ちて、広がった。




