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おまえはもういらない

作者: となかい




 世にあるものにはすべて魔力がかよっている。人間、植物、動物、大地、空、すべてに魔力は含まれ、それによって生き、動いているとされる。そのすべての源である魔力がなんなのかを解き明かすのがわたしの仕事、わたしの生きるすべて。「わたし」という存在がこの世に生まれ落ちたその瞬間に理解することだ。

 



目を覚ますと世界は暗い。外から少しだけ届いた光が、真夜中よりもわずかに部屋を明るくしている。日はのぼったばかりだ。あくびをするとくちから白い気泡があふれて、天井までゆらゆらしながらあがっていった。

体を起こして伸びをする。眠気はない。両手を合わせて力をこめると、指のあいだから光がもれた。そっと手を開くと、ひらべったい、楕円形の水の塊がやわらかい光をこぼしている。今日はすこし力みすぎたみたいだ。

口をつけて息を吹き込むと、ぽつ、と息が水を割る音がして楕円の内側に空気が入り込んだ。割れたところを親指で撫で、明かりがきれいな球体になったのを確認して、指先ではじくようにして上に放る。明かりはいつもより少し速くのぼっていき、天井に張り付いて部屋を照らした。歩くたびにふわふわとゆれる髪を手で押さえつける。この部屋で髪を梳いても意味がない。

いつもの服を着て、机に腰掛けて研究日記を手に取る。昨日はなぜ水媒体から熱が生まれるかを考えていた。日記はもうすぐ頁がなくなるところまで書き込んでしまって、開くのがすこし難しくなっている。そろそろ新しいのを見繕わないといけない。

 両手で日記を閉じたとき、ちょうど呼び鈴が鳴った。何度も何度もベルが揺れる、子供たちの音だ。

研究日記を水で包み、天井に張り付けた明かりをそっと引き寄せる。ゆらゆらとしながら手元まで降りてきた明かりは、しかしてのひらに乗ると同時にひび割れて砕けた。かけらが光の残滓をまとって手元を照らす。あとから空気を入れるとどうしてももろくなってしまう。宙に舞ったかけらを手で払うと、すぐに水に溶けて消えた。

部屋を出て階段を上がっていく。地上に近付くにつれ世界は明るくなってわたしを包んだ。周りを満たすのが水から空気に変わる。水面で屈折してわたしに届いていた日の光が、直接肌の表面を温めていく。

研究室までくると、空いた机に日記を置いて、手早く上着をまとって帽子をかぶった。部屋は何もかもが昨日のままだ。

丸い瓶のなかで研究の残骸が日の光を拡散している。なんとなしに触れてみると、昨日よりも熱が強まっている気がした。日に当てると温度があがるのだろうか。新しく浮かんだ疑問を頭に留め置いた。

玄関を開けると、強い風が吹いた。髪が引っ張られるようになびく。帽子を飛ばされそうになって思わず頭を押さえた。

荒れた水面を追いながら視線を伸ばすと、大人の男女が小舟にへばりついていた。この強い風のせいでたくさん呼び鈴を鳴らしてしまったようだ。小舟を水で支え、周りを囲うように壁を作ると、彼らの場所だけがしずかになった。

 水面に足をつけると揺れるそれの振動がこちらにまで伝わる。歩きづらい。足元の水だけを固め、帽子を押さえながら小走りに小舟に近付いた。わたしをじっと見ていたふたりは、わたしが水の壁の中に入ったのを見るとこわばっていた顔を緩めて笑った。

「魔女様。お気遣いありがとうございます」

「今日は風が強いですね。黄緑の魔女様が気を荒らしていらっしゃるのかしら」

そういって女は、わたしの髪に手を伸ばした。頬と髪のあいだに指を通し、軽く払ってから撫でるように触れる。手はわたしの上着のすそを軽くひっぱってから、女の膝の上に戻っていった。

 ふたりの要望は男の傷の修理だった。漁をしているときに網で腕をおおきく切ってしまったのだそうだ。男の右腕には緑の街から取り寄せてある薬草が包帯で固定されてあった。

わたしの視線が腕に移ったのに気付いた男が眉尻を下げる。女が彼の背中をさすった。

「早ければ十日ほどで治ると医者に言われたのですが、そんなに仕事を休むわけにはいきません。妻にも、子供たちにも必要以上の負担をかけてしまいます」

力なく船底に指をつける男の腕に触れる。手首を両手でもち、胸の高さまで上げると、わたしとは違う温度を持った肌がぴくりと動いた。

媒体がふわりと宙を舞って、わたしの手と彼の腕の傷口までを覆った。包帯と薬草がゆるんで水中に浮かぶ。わたしの手くらいの大きさの切り傷があらわになり、血が水中にじわりとにじむ。

包帯と薬草を取り出してそのあたりに放置して、触れた場所から体内に、細い糸を入れ込むような感覚で、すこしの魔力を流す。傷を修理するときはなかに魔力を流してやるのが一番早い。それと同時に、外から縫い合わせると傷はなくなる。

体のなかに魔力を傷口のまわりにためた。割れた皮膚と皮膚を合わせて結ぶように、媒体を細く細くとがらせて刺していく。内側から魔力を染み込ませる。両端からつながっていった肌は、一筋の痕を残してあふれていた血を止めた。腕を包んでいた水を捨て、新しいそれで痕を撫でる。あとはあてがわれた薬を飲めば元通りになる。

 男はなくなった傷口を指の腹で触れ、右手を開いたり閉じたり動かして具合を確かめる。不具合があればすぐに手直しするためだ。男の表情はみるみる緩み、わたしに向かって笑った。

「ありがとうございます。これで漁を続けることができます」

 手直しの必要はないらしい。女が体の力がぬけたように男に手を置き、傷口を撫でる。彼女もまた笑っていた。

 風がやむ気配はなかった。水で遮られたわたしたちの外で、水しぶきが飛び散り、丸太でつながった橋を波打たせる。いつもは干された服がなびいている建物と建物のあいだも、張られた紐がただ強い抵抗に耐えているのみだった。

 ふたりがしずかになって、外のありさまを不安そうに見た。

 つま先で水面をすくうように触れた。わたしの意思は魔力を流れ、頭で浮かべた光景そのままを水が形作っていく。だんだんと水位が下がって、代わりに風がどんどん弱まった。わたしたちの周りにあった壁をとりはらう。水面が揺れることはなかった。

 ふたりはなくなった風に目を見開いて、あたりを見渡した。それから街の外側に何かを、きっとさきほどまで自分たちの周りにあった水の壁をみつけて、いまの状況を理解したようだった。

 男はほう、と息をついて、女は胸に手を当てて眉を下げた。

「すみません、魔女様。お気を使わせてしまって」

「なにからなにまでありがとうございます。これ、どうぞ召し上がってください」

 女が船底から持ち手のついた籠を取り出した。水仕事ですこし荒れた肌がわたしの腕にそっと触れる。甲を向けていた手を裏返して、四つ並んだ指に籠の持ち手を握らせた。

 必要ない。女に付き返そうとしたが、上から手を重ねられ、逆に強く握らされる。そのうえにさらに男が手を乗せた。

「うちの子供が手伝ってくれたんです」

「お口にあいますように」

女はそう言って私のぼうしを撫で、ゆったりと手を振った。男がすっかり動くようになった腕で櫂をつかむ。水の壁で一時的に静かになった水面のうえを、小舟は危なげなく進んでいった。

持たされた籠を見る。布を持ち上げてみれば、パンにハムや、野菜や、調味料が挟まれたものが詰まっていた。食べなくったって死なないのに。魔女が死ぬのは媒体に侵食されたときのみだというのは、魔女のいる街に住んでいるなら誰でも知っている。なのに彼らは、わたしが施しをしたあと、かならず何かを持ってくる。花飾りだったり、実験につかえそうな容器だったり、いまみたいなたべものだったりする。

椅子を作って座り、かごの中のひとつを指でつまんだ。茶色い部分は固く、けれど白い部分はふわふわやわらかい。口に入れてみると、ぱり、と乾いた音がして歯がパンの皮を破った。具のなかで一番早く舌に乗ったハムは、塩が多くてぴりぴりした。


家に帰って最後のひとつを食べていると、ばちばち、と激しくはじける音がした。同時に視界の端で黄色く光る。顔をあげると、窓の外で小さな稲妻が不規則に形を変えていた。わたしのまわりではまず見ない色、黄色の魔女の色だった。

食べ物を口の中に放り込み、実験していた手を止めて窓をすこしだけ開ける。わずかなすきまだったが、風はすばやくなかに入り込み、わたしの髪を激しくもてあそんだ。紙が飛び散る音が聞こえ、遠くで何かが割れた。稲妻が吸い込まれるように家に入ってくる。すぐに窓を閉めた。

すこし遠くに飛ばされていたらしい。ふらふらしながらわたしの前にやってきた稲妻はくるりと回って見せた。ばち、とひときわ大きくはじけて、一枚の紙になる。手紙だ。ときおり黄色い光を走らせながらひらひらと落ちる。直接触れないように媒体で受け止めた。いちど手で触れて、体の芯までしびれたことがある。

紙一面におおきく書かれた文字に目を通した。

『雨をください! 雷をあげる!』

簡潔でわかりやすい。手紙を筒状にしているあいだに、棚から大きな瓶をとりだした。黄色の魔女からもらうものを入れるためのものだ。棚のなかなかで黄色がはじけるのを見ながらふたを開け手紙を入れる。互いに作用しあってさらに明るくはじけた。

部屋の端にあけてある穴から水に潜った。すう、と吸い込まれる感覚がして、からだが水の温度に慣れて冷える。服にふくまれていた空気がごぼりと音を立てて出て行った。風で水面からだんだん青を深くしていく水底ははっきりと見える。風に左右されない水中はおだやかだ。屈折した日の光が揺れながら岩や砂に模様を作っていた。魚たちが心地よさそうに泳いでいる。

水から出てたちあがると、強い風が髪や服を強くなびかせた。自分の周りに大きく壁を作る。風が完全に断たれてから、つま先で媒体をすくって蹴り上げた。宙に浮いた水はしずく同士でつながりあい、わたしの身長を超える長さの三叉槍になる。掴む。柄の表面とわたしの手のひらとがひとつになったような心地がした。

三叉槍の、切先や柄にいたるまですべてに魔力を詰める。あの街にしっかり届いて、たくさん降るように。黄色の魔女は、街が洪水になるくらいの雨量がすきだ。だからほかの街よりもたくさん力を詰めないといけない。両手をそらに持ち上げて三叉槍を回す。はしまで魔力がいきわたるように、たくさん詰められるように回す。三叉槍は指の上をすべるようにして勢いを増していく。日の光がきらきらと三叉槍の表面を輝かせた。ときおりしずくが飛び散って、水面に小さな円を作る。

力がめいっぱいに詰まると、三叉槍がわたしの手を離れた。切っ先が向くのは黄色の街の方角、真っ黒な雲がいつも浮かんでいる空だ。右手をぐっと握りしめて持ち上げ、少し振りかぶる。同じように三叉槍も少し後ろにさがった。魔力が手にたまっていくのを感じる。目の前の壁だけを取り払った。風によって生まれる小さな波が足に伝わると同時に、一歩踏み出す。体重を前にかけ、力いっぱい腕を振り下ろした。魔力がするりと手から抜けていった。

槍が起こした風が真横から吹き付けた。分け目の変わった髪を戻しながら顔をあげると、三叉槍が狙ったところに向かって空をとんでいる。暴風などには干渉されない。目視できなくなるまで見送って、その場で水の大玉を作る。両手が届かないくらいの大きさにして、わたしのいる場所に浮かせる。わたしのあたまと並ぶくらいの高さだ。

ぴり、と少しだけ腕がしびれたような感じがした。三叉槍が黄色の街にたどり着いたのだ。遠くに見える黒い雲はみるみるうちに発達し、横に範囲を広げて緑の街や、黄緑の街や、赤の街にまでうすく手を伸ばす。ゆっくりと瞼を閉じると、最初の粒が黄色の街に落ちた。

お腹の底を揺らすような低い音が耳を打った。黄色の街にはあふれるほどの豪雨が、ほかの街には水を補給できる程度の小雨が降っているのを感じる。うまく調整できた。

黄色の街には、ガラスがたたき割られたような激しい音を立てながら、黒い雲からのびた帯がたくさん落ちている。そのうちの、ひときわ大きいひとつが雲から直接こちらに向かってきた。雷は時折するどく蛇行しながら投げた三叉槍よりもはやくわたしのところまでやってきて、準備していた大玉に突っ込んだ。玉はばちりと黄色を走らせながらも貫かれることなく雷を閉じ込める。

大玉の周りを一周して、すべて吸収しきったのを確認する。不用意に近付かないように気を付けながら、波を作って移動を始める。行先までの通り道すべてに壁を作るのを忘れない。雷を長く閉じ込めておくことは難しい。手早く保管庫まで行かなければ。波から波を渡り走っていると、大玉のなかではじける雷がうっすらと人型になり、なかに沿うようにして宙返りした。

『雨ありがとー!』

今回の雨量も、黄色の魔女を満足させられたらしい。




 呼び鈴が鳴った。数は控えめだが元気のいい音だ。礼儀正しい子供だろうか。それとも若々しい大人かもしれない。頭に思いついていたことをすべて日記に書き留めてから上着をと帽子を身に付ける。帽子のせいで押さえつけられた前髪が目に入ってしまって、額との隙間に手を差し込んで横に流した。

今日の水面はとくべつ静かだった。風がないせいだ。しんとして、けれど冷たくはない。自由に泳ぐ魚たちを遮らずに見せる真平な水面に、子供の乗る船だけがゆがみを与えていた。ほんの少しの波で日をはね返してきらきらと輝く。わたしのところまでは届かない。

 船に揺られ、うまく体制を整えられないでいた子供がこちらを見た。

「こんにちは、透明の魔女様!」

 わたしをその丸い瞳に入れたその彼は、みるみるうちに顔をほころばせて笑った。この街の人間でないことは明らかだった。足をしっかりと覆う靴、指先までをつつむ袖、つねに水とともにあるこの街の人間の服装じゃない。なにより、わざわざわたしを色の名前で呼ぶのは、ほかに身近な魔女がいるという証拠だった。

一歩踏み出すと、わたしの足は何の抵抗もなく、まるで水面のほうから吸い付くように受け止められた。ゆらりと足元の水が一瞬揺れる、穏やかに泳ぐ魚たちがわたしをみる。水面が私の一部になったように感じる。船のそばまで来たわたしを見た子供は、日に当たりすぎた葉の色の瞳を見開いて、数回瞬きをして見せた。

「不思議な髪の色だね、白っぽい水色から、だんだん透き通ってる」

魔女の髪色が人間とは違うのは当然だ。驚くようなことではないのに、あまりにも子供がわたしの髪を見つめるものだから、視界にちらつく毛先を指でつまんでみた。見やすいようにひっぱるが、髪は見慣れた色でなんの新鮮みもなかった。

上着から出た肌がだんだんと熱を持ち始めていた。腕をおろして用件を訊ねる。すると子供ははっとした様子で目を開くと、いそいそと身だしなみを整えだした。おかしいところがないかを確認し、背筋を伸ばし、指先を伸ばした両腕を体の側面に合わせる。頬はすこし上気して、瞳がうるんできらきらとかがやいて見えた。

「緑の街から来ました、トクサといいます! とっ、透明の魔女様にお、かれましてっわっ?! ああああ!!」

子供はおおきく息を吸い込んで、けれど喉の詰まった声で格式ばったあいさつを述べようとした。だが、不安定な船の上で足をそろえたのがきっと一番いけなかった。

しずかにしていた風が突然強く吹き、水面が大きく波打った。ぴたりと足を閉じたままの子供は揺れる小舟の上で重心がおぼつかず、そのまま後ろにひっくり返った。水しぶきが上がり、飛んできたしずくがわたしの服や肌や髪にしみこんでいく。

すこし船内に水が入っただけで済んだ小舟がゆらゆらと揺れて小さな波を作った。そのふちに衣服に包まれた手がかかり、体を持ち上げようとして、失敗した。下手だ。こんどこそ小舟は大量に水の侵入を許してしずむ。

まずそれをもとの状態に戻して水を抜いた。媒体で子供をうかせ、椅子を作り座らせる。ほかの街の人間はあまり泳ぐことができないと、いつか緑の魔女から聞いたことがあった。これなら誤って溺れることもないだろう。

子供はきょろきょろしながら自分の状況を把握して、すごい、と高い声を上げた。ちょいちょいとひじかけを指でつついてみたり、かと思えば手をつっこんで閉じる開くをくりかえしたり、濡れた服に驚いたりと忙しい。どんなかたちをしようと水は水だ。

じっと見上げていると視線が合った。ぱかっと口を開けてあやまったあと、表情をひきしめる。つまりつつではあったが先ほど言いかけた台詞を言い終え、それから、大きな声を出した。

「ぼくを弟子にしてください!」

 弟子。子供の顔がななめに傾いていった。帽子が少しずれて視界を遮る。わたしの顔が傾いていたらしい。つばをひっぱり元の位置になおす。真剣な顔をした子供がわたしのことばを待っていた。

わざわざここまで来なくても、街にいる魔女に弟子入りしたらいいのに。なぜここに来たのかを問うと、彼は小さく声を漏らしたあと、荷物の中から大事そうになにかを取り出した。見覚えがある。

「ヒスイ様からのお手紙です」

彼の幼い手にあったのは緑色の封筒だった。わたしはあれを知っている。紙のようにみえるが、触り心地は若葉のように柔らかで、木の幹のようにつよい。あんなに丁寧に扱わなくとも破れることなんてないだろう。ヒスイということばも、知っている。わたしが生まれたとき、うすらと笑みを浮かべながらやってきた緑の魔女がもつ名前だ。彼女は人間だったころの名前を好んで使っている。

手紙を受け取る必要はなかった。わたしが手紙の存在をみとめてすぐに子供の手から離れて目の前までやってきたからだ。手紙はみずから封を開き、中から手で握れるほどの黒い塊をだした。種だ。それはわたしの掌の上にころりと転がると、わたしの魔力を吸ってみるみるうちに芽を出し根を張り、やがて人の形をした小さな幹となった。頭部のくちらしき部分がぱくぱくと動く。

『お久しぶり、ご機嫌いかが?

とつぜん私の街の子供がきて驚いた? その子ね、私の弟子なの。緑の媒体はだいたい扱えるようになったから、ほかの魔術を覚えてほしくて、あなたのところに行ってもらったのよ。驚いてもらえたかしら。なにも知らせなかったけれど、引き受けてくれるわよね? やさしいあなたのことだから、きっとうまくやってくれることを願っています。

そういえば、このあいだは雨をありがとう。媒体たちがとっても喜んでたわ。黄色の魔女からの依頼だったのかしら、雷がけっこう鳴っていたわね。とってもうれしそうに鳴るものだから、ついつい笑っちゃった。ねえ、あなたはきちんと家にいた? あなたは雷に弱いんだから、ちゃんと隠れていないとだめよ。

トクサは素直でドジで可愛いの。きっと、可愛いあなたと仲良くなれると思うわ。よろしくね。またお話ししましょう』

 彼女が目の前にいるような勢いで(しゃべり口は穏やかなのだけれど)話した人型の幹は、時を巻き戻すようにして種に戻った。ころりと掌を転がる種を見、そしていまだ緊張した顔でわたしを見つめる子供を見る。彼は両手を膝におき、のどを上下させたあと、勢いよく頭を下げた。薄茶色の髪がゆれる。

「よろしくおねがいします!」

 彼が頭を下げる理由がよくわからない。けれど、彼がわたしの弟子になり、わたしが彼に術を授けるのは変わりなかった。そこがはっきりしているなら、わたしの行動は決まっている。緑の魔女からの依頼を受けたことを伝えれば、子供はぱっと顔をあげ、笑顔で礼を述べた。ほかの魔女からの依頼をこなすのは当然のことだ。わたしはまだなにもしていないのに。人間は、よくわからない。

家までの道を媒体で作り、そのうえに子供をおろしてからそういえば、と思いついた。依頼を受けたはいいけれど、教える方法がまったくわからない。わたしは弟子を取ったことがなかった。弟子の存在は知っている。魔女の弟子、魔法使いというのは魔術が使える魔女以外のもののことだ。体を動かすための少ない魔力を使って、わたしたちよりも小規模な術を行う。

緑の魔女のもとでどういうふうに学んでいたかを聞くと、子供は首をひねって唸り、指折り数えた。

「ええと、ヒスイ様のお家に住まわせてもらって、研究のお手伝いをしたり、術式を教えてもらったり、魔術を使って簡単な行動をしたり、媒体や街の友達とあそんだりしてました」

 じゃあそのとおりにしよう。媒体を動かし、家のそばにかためる。わたしの部屋と同じくらいの大きさがあればいいだろうか。自分の部屋をあたまに想像する。床、壁、窓と屋根を構成する。床がしっかりしたら、寝床と、本棚と、机を配置して全面に白く色を付ける。通路を作ってわたしの家とを廊下でつなげれば完成だ。家のなかに入りきちんと研究室と小屋が行き来できることを確認する。外に出て今日からここで住むように言うと、子供はぽかんと小屋を見上げ、ゆっくりとわたしに視線を移し、また小屋に戻した。

「と、透明の魔女様は、ぜんぶ媒体でやっちゃうんだね……」

 魔女なのだから当然だ。そう答えると間抜けな顔でええ?と首を傾げられた。緑の魔女はそうではなかったのだろうか。認識にずれがある。問うてみようとして、やめた。そうか。こういうこともやらせたほうがいいのか。いままではすべて自分でやってきたけれど、考えを改めなければならない。子供が言いたかったのはそういうことだろう。ほしいものがあったら自分で作るように言うと、そうするには魔力が足りないと訴えられた。なにかさせるには、まずはなにができるのかをまとめることから始めなければいけなさそうだ。





目を覚ますと、世界は暗い。窓からはうっすらと光が差し込んで、部屋はほんのりと照らしている。体を起こすと髪がふわりとゆれた。手を組んでぐっと前方に伸ばす。口の端からもれた気泡が頬や目じりをそってのぼっていった。

 両手を合わせて、すぐに解いた。今日は少し違った作り方をしてみよう。右手の、ひとさし指に力を集める。文字を書くときのことを頭に思い浮かべ、指の通ったあとに線ができる様子を意識する。小さな水流が出来たのを確認して、円を描いた。形が崩れないように、続けて少しずつひねりをくわえながら指を動かしていく。線となった水流がつながりあい、淡い光を放ちながら少しいびつな球を作った。なかに光源をいれるのをすっかりわすれていた。

 球を伴いながら研究日記を手に取った。ふわふわ浮く前髪を触る。淡い光を近づけて手元を照らしながら、裏表紙から三枚めくった。きのうは、どんなことがあったんだったか。文字に目を滑らせるまえに、わたしの街では見ない、緑色の封筒がふわりと浮いた。植物でできているそれで、弟子を取ることになった日を思い出した。

「透明の魔女様ー! 朝だよー!」

 上から声がする。呼び鈴をつけるのはやめた。あの子がいらないと言ったからだ。返事を催促することばを聞きながら、手紙ごと日記を閉じた。わたし以外の声が家から聞こえてくるのは、いまだになれない。

「おはよう! はやくごはん食べよう」

 研究室まであがると、トクサと目が合った。彼はにぱっとわらって席を進める。研究室のど真ん中にさいきん置かれた二人掛けの食卓には、パンとベーコン、べつの皿にサラダが盛られてあった。すすめられるままに席に座ると、向かい側に腰掛けたトクサが手を合わせる。わたしも真似をして、目を伏せた。

「いただきます!」

 同じ言葉を口の中で転がす。これも、まだ慣れない。

トクサは、すぐに街になじんだ。彼の存在が知れたのは、彼が来たその日に家に子供がたずねてきたからだ。気に入っているおもちゃの腕が取れてしまったのだという。外に出ると一緒にトクサがついてきて、そこからわたしに弟子ができたことが広まった。トクサはよく笑い、よく話し、よく動くので街の子供たちと気が合うのだろう。大人たちもまた彼を受け入れているようすだった。

 パンをかみちぎった。口を動かして飲み込む作業を繰り返すと、サラダに塩を振りかけていたトクサがほほえんだ。わたしに食事をするように言ったのは彼だ。あまりにも食べろとうるさいので言うとおりにしている。家にはあの一日だけで、トクサの部屋と台所と食卓が増えた。料理をするのはすべてトクサで、そのおかげで水媒体を使った熱の発生はもうできるようになった。

 コップや皿をひっくり返しそうになりながら食事をすすめていたトクサが、ふと思いついたように声を出した。

「透明の魔女様には名前はないの?」

 なまえ?

「名前。僕はトクサって名前でしょ。緑の魔女様はヒスイってお名前がある。じゃあ透明の魔女様は?」

トクサの手に力がこもった。表情がすこしゆがんでいる。どうしたんだろう。じっと見つめてみたけれど、彼がなにを考えているかはわからなかった。あたりまえだ。

わたしの名前は「透明の魔女」だ。ほかのなにものでもない。問いに答えると、トクサは眉尻をと口端を下げた。

「それは透明の街にいる魔女、って意味。なまえじゃないよ」

ベーコンを二つ折りにして口に入れる。塩辛い脂が舌の上で広がり、顎を上下に動かすと簡単に身が裂けて細かくなって、味が薄くなる。

真剣になるトクサがよくわからない。透明の街にいる魔女はいま、わたししかいない。同じ色の名前をもつ魔女が同時代にふたり存在するのはあり得ない。世界で常に一人しかいない存在を表す言葉なのだから名前でいいではないかと思う。名前なんて、呼びかけられれば十分意味をなしているじゃないか。

だが、それではトクサは気に食わないらしい。しばらくわたしの顔をじっと見つめる。身を乗り出しているせいで皿の端っこが体に押されて、パンがつるつると滑る。パンが皿から滑り落ちたころに大きくうなずいた。

「よし、きめた。今日から透明の魔女様のお名前は“アサギ”で決まり!」

 トクサのことばはいつも唐突だ。今日はそれなりにつながりはあったけれど、それでもわたしは驚かされる。何度かまばたきをしてトクサを見上げると、彼はわたしが訊ねたかったことを察したのか、自分の瞳を指さした。

「緑の街では、子供の瞳の色で名前を付けることが多いんだ。緑の街では透明の魔女様の瞳の色を浅葱色って呼んでる、だからアサギ」

 ということはトクサの瞳の色はとくさいろ、なのだろうか。食事の手を止めてすこし濁った緑色を見つめる。光にあたるとほんの少し色を薄め、影では濃くなり、細められるとにじむ。数々の場面で色を変える緑は、ころころと表情の変わるトクサにぴったりだ。

「魔女様はこんどからアサギって名乗るんだよ。言ってみて?」

トクサは口を大きく二度ひらいて、最後に引き伸ばした。それを真似して声に出す。あ、さ、ぎ。ひとつずつ丁寧に出した音は、舌の上で軽く転がって、のどに飛び込んできた。すとんと胃に落ちる。あさぎ、アサギ、アサギ。胃に落ちた単語はぼんやりとひろがって、すこし暖かかった。

「ふふ、アサギちゃん」

声が高い。顔をあげると、トクサは目を細めて笑った。トクサはよくこの顔をする。このまえ、腕を修理した男と同じ表情だ。なんで笑うんだろう。訊ねると、彼はわたしとは逆の向きに首を傾けた。

「反応してくれたのがうれしいんだ。気に入ってくれたみたいでよかった」

 トクサはさらに笑みを深くしてパンにかぶりついた。笑って、目を細めていたらうれしいのか。食べて、と催促されてサラダを口に入れた。ほんの少し苦い。わたしが口を動かすのを見て、トクサは「うれしい」顔をした。これがうれしいときの顔、なら、このまえ来たふたりも、子供たちも、みんなうれしかったのか。街にいったときに笑うのも、うれしかったからなのか。人間の表情が感情を表すなんて初めて知った。

 ひとりひとりのうれしい顔を思い出した。歯が欠けていたり、顔じゅうしわだらけであったり、洟が垂れていたり、ひとつひとつ違うけれどみんな笑っている。施しをうけるのは、うれしいんだ。望みが満たされるとうれしいらしい。

パンをかじる。口のなかがもそもそした。コップに入った水をあおる。食べるときは、水分を取るのがいいのだそうだ。トクサが来てするようになった習慣のなかで、わたしは飲むのがなによりすきだ。食べ物を飲み込んだときは体の中を通っていく感覚がするけれど、水は口に入れた瞬間に消える。じわりと口内にしみ込む。からだじゅうが潤う。それがとっても気持ちいい。ふだん自分があやつっているものを体内にいれるのは、すこし変な印象があるけれど。

つぎにトクサのうれしい顔を思い浮かべた。日の当たった葉の色の目を器用に細めて、口をゆがめて笑うすがたが、あたまのなかにも目の前にもある。けれど浮かんだのは笑顔ばっかりじゃなかった。トクサの表情はころころと変わる。

笑顔以外の表情はたくさんあったが、どの顔がどういう気持ちを表しているのかがさっぱりわからなかった。笑うとうれしいなら、目を見開いたときは? きゅっと顔をしかめたときは? ……うれしいときって、どんな心地がするんだろう。全く想像がつかない。

もしわたしに人間たちとおなじように感情があらわれるとして、望みをかなえたとき、魔力を解明したとき、わたしはいったいどんな感覚を覚えるんだろう。


わたしはトクサと一緒によく街へ行くようになった。買い物をしたり、トクサがみんなと話しているのを聞いたり、トクサに泳ぎや術を教えたりする。施しをする回数も増えた。

人間たちはトクサを見つけるとうれしい顔をして近づいてきて、わたし達に挨拶をする。おはようございます。アサギ様、お散歩ですか。今日もいい天気ですねえ。名前を呼ばれたときは不思議だった。どうやら、わたしが知らないうちにトクサが触れ回ったらしい。そのときのわたしの様子を見たトクサの瞳は弓なりになって、うれしいかおとは少し違うふうに笑っていた。なんとなく胸のあたりがちりちりとして、媒体でトクサの袖をひっぱると、彼は目を見開いて手足をバタバタさせてから水に落ちた。溺れる前に持ち上げると、息をついた後わたしに頭を下げる。

「ごめん、そんなに怒らないで」

……わたしは別に怒ってない。たぶん、怒ってない。

「アサギ様、ありがとう!」

 まちなかで施しをしたあと、子供がわたしをみてうれしい顔をした。ポケットのなかに手を入れて何かをつかむ。握りこぶしをつきだして、反対の手でわたしの手をとった。これあげるね! 掌に転がったのは紙に包まれた飴玉だった。この街で作られている嗜好品だ。扇型に広がった端っこを引っ張ると中身が見える。わたしの肌の色が見えるくらいに透明で、けれど気泡のせいですこし白っぽく見えた。

 指でつまんで口に入れる。硬い音を立てて歯にぶつかった。じわりと甘い。トクサのまねをして子供の頭に手を置いてお礼を言うと、子供はおどろく顔をして、ぱっと頬を赤く染めた。

「アサギちゃん、おいしい顔してる」

 トクサがわたしの顔を見て笑った。これはうれしい顔じゃない。たのしい顔だった。どんな表情だろうと水面で自分のすがたを見てみても、いつもとなにも変わりない。わたしは人間たちみたいに表情が変わらないのに、なぜかみんなはわたしがどんな顔をしているかわかるのだ。両手で頬の肉を押し上げると、視界がつぶれて、わたしの顔もつぶれた。





 目を覚ますと、世界は暗い。窓からさしてくる光はなくて、部屋は真夜中のような冷たい闇をもっていた。体を起こして伸びをすると、口の端からごぽごぽと気泡があふれていった。

 両手を軽く合わせて力を込めると、指のあいだからやわらかな光が漏れた。そっと開くと、光が閉じ込められた水の球体がころりとてのひらを転がる。今日はうまく丸まった。指で押し上げるように放ると、気泡のようにゆれながら天井に張り付いてまばゆく光る。すこし明るくし過ぎてしまったみたいだ。

 明るくなった部屋を髪を触りながら横切る。研究日記を開いて眠る前にやっていたことを確認する。昨日はなぜ魔力が体を動かすのかについて考えていたけれど、手がかりさえつかめなかった。どのように作用して魔力が体を動かしているのかがわかれば、わたしの研究は大きく前に進むのに。

 なにか手がかりがないかと、ひとつまえの日記までさかのぼって目を通す。明かりの研究、熱の研究、いちから斜めに読んでいって、もうすぐおわるというところで、緑の封筒が顔を出した。あの子がこの家に来たときに持ってきた緑の魔女からの手紙だった。あの日のことを思い出すといつもすこしふわふわする。もう一度読もうとして、手が止まった。そういえば、今日はあの子が呼びかけてこない。

 なんとなしに、気分が悪くなった。

 日記と明かりをつれて部屋を出る。ここを急いで登ったのは初めてだ。ばちゃ、と大きな音を立てながら水面を割った。そのまま媒体の上に乗り、階段を滑るようにしてのぼる。窓からは水で屈折した月がゆらゆらと揺れて見えた。

 ドアを押し開けると、部屋はまっくらで、極端にしずかに思えた。夜なのだから当たりまえだけど、そうじゃない。いそいでいつものところに明かりを押し込み部屋全体を照らした。かきおきはない、なら家の中にいるはず。日記を机の上に放り投げて、あの子がよくいる場所を端から見ていく。まずはあの子の部屋、つぎに台所、つぎに居間、つぎに──……とそこまで見て回って、やっと媒体で探せばいいことに気が付いた。これでは、ただの人間じゃないか。

 すぐに媒体で家じゅうのものをひっくり返した。ベッドのした、収納棚のなか、街の子供が好んで隠れそうなところはすべてさがした。けれど、どこにも、あの子のすがたが見えない。びりびりと目の端が細かくしびれる。

いつもちょろちょろとわたしのそばを歩くあの子、目を器用に細め口をゆがめてわらうあの子、魔力を使っては媒体に振り回されてドジをするあの子がいなかった。呼びかけたって、返事がない。どんなときでも返ってくる、ちょっぴり舌足らずなことばがない。

下から這い上がってきたなにかが耳の周りではじけるような音がした。うるさい、首を振る。無駄に上下する胸をおさえながら息を吐ききった。落ち着け、落ち着け。考えろ。眠るまえはなにをして、あの子はどこにいたっけ。

目を閉じると、あの子がにこにこしながら手を振ったようすが浮かんだ。妙に楽しそうだった。あの子はいつも楽しそうだ。だから、何も気にしないで部屋にはいった。わからない。つつ、と背中に冷たいものが伝っていくような感覚がして、自然とからだが震えた。足元がどろどろとくずれるような、水に変わっていくような。考えがまとまらないのに妙に頭は冷たくさえて、いま、わたしがすべきことを探していた。

ぎし、と屋根がきしんだ。慣れない重みに悲鳴を上げたような、そんな音だ。わたしの力でできたこの家は、強い風や大雨にさらされたってびくともしないのに。すぐさま外に出て屋根に上る。そこには、あおむけになってまぶたを閉じるあの子がいた。あのこが、いた。

すがたを認めると足の力が抜けて、その場に座り込んだ。苦しかった胸のつっかえが取れて呼吸が楽になる。よかった。ほう、と息をついて視線を落とすと、わたしは服を強く握りしめていた。そんなことをした覚えがない。手を離そうとするが、うまく力が抜けなかった。自分のからだなのに制御できないなんて。えりが伸びるくらいにひっぱってもはずれず、空いた左手でむりやり指をのばすことでなんとかとることができた。

 もう一度立ち上がる気力は起きない。四つん這いになって彼のそばに行く。トクサは両手足を広げたまま動かない。無防備だった。もとの寝床にかえしてやらなければ。頬をたたいたり、名前を呼び掛けてみてもトクサは唸るばかりで目を開こうとしなかった。眉間にしわを寄せ、ゆっくりと首を振ったのちおとなしくなる。困った。わたしはどうやって人間のまぶたを開かせるのかを知らない。

 どうしようかと迷っているうちにあることに気が付いた。そういえば、人間が眠っているところをみるのは初めてだ。よく小さな失敗をする彼は、わたしのまえで居眠りをしたりしない。作った食事を、わたしよりさきに食べない。

 白いまぶたは閉じられて、たまにぴくりと動く。口は小さく開いてもごもごと動くときがあった。腕をにぎってみても、ちょっとした音を立てても覚醒する気配がない。こんな、鈍い感覚のまま夜を過ごすのか。わたしは眠っていても、媒体があるからいつでも周りがどんな状況にあるのか感じ取れる。人間すべてがこうなら、街全体に壁を張っておいたほうがいいかもしれない。

 トクサの全体をみながら、水が薄く持ち上がるようすを想像した。薄茶色の髪、水面が揺れる、短いまつげ、子供の腕くらいの薄さにする、細い首、音を立てないように壁を高くしていく、上下する胸、壁が建物の高さを、越え

 あ。ちいさい音が遠くで聞こえた。せっかく順調に高くしていた壁が音を立てて崩れる。水面が大きく揺れて、舟がかたむく。橋が水をかぶる。魚が驚いて街の中心に逃げる。そのすべてを感じ取った。あ、あ。また小さい音が聞こえる。胸はあいかわらず上下している。規則的に空気を取り込み、吐き出している。ぷつぷつと肌からなにかが噴き出した。あのなかには、臓器がたくさんはいっている。臓器は骨と肉に包まれていて、体中を血潮が巡っている。耳に手をやると、さっきから聞こえていた音がより大きくなった。あれは生きるためのうごきだ。魔力があるからじゃない。

 人間は、自分で生きているんだ。

 大きな粒が頬を伝った。不自然に吸った空気がのどを詰まらせて、つぶれて、醜い音を立てた。

「……う」

 からだが動いた。なかにきしむ骨があることを表すようにゆっくりと腕がもちあがり、わたしの視線をうばう。腕はしろいまぶたを乱暴にこすって、なかにある日に焼けた葉の色を明らかにした。頭が動き、首の肌をひきつらせる。

「……あ、あさぎちゃん。おはよう」

生きているトクサが、わたしをみてうれしい顔をした。顎にまで伝った粒が、彼の腕に落ちた。

その日から、わたしは魔術が使えなくなった。


4.5


 ぽたぽた。落ちていく。わたしの腕から、髪から、額から、のどから、足から、胴体から、しずくが落ちる。

 指の先から落ちた水滴が床に落ちて溶けた。離れていたものがひとつになるように、空いた穴を埋めるように、しずくはすっと吸い込まれていった。しみなんてできやしなかった。

「わあ、きれいだなあ」

 ふとそんな声がした。街の人間たちと、トクサといっしょに夕陽を見たときの言葉だった。黄色から赤に、赤から青に、青から黒に色を変えていく空。この世に生まれ落ちてから、何度もひとりで見た光景だった。毎日見ているものだろうに、人間たちはほう、と息を吐いてきれいだなあ、とトクサと同じ言葉を吐いた。

 わたしは空から視線を離して、夕日を見る人間たちを見た。それぞれに違う色の瞳が夕陽の色に染まっている。肌も服も赤い色をたたえている。きれい。小さくつぶやくと、トクサがわたしを見た。右目は赤色で、左目はいつもどおりだった。

「アサギちゃんも赤いね」

 水面と同じ色してる。トクサの指がわたしの服に触れた。わたしはゆらゆらと揺れる水面を見た。わたしと同じ透明は人間たちと同じように表面だけ赤く染まっていた。




 呼び鈴が鳴った。トクサがはーい、と返事をして玄関へ走る。わたしはガラスの器を肌に這わせるようにして机に置いて、空いた手でペンを持った。腕からしたたるしずくが順調に器にたまる。

「アサギちゃん、アオがおもちゃ直してほしいんだって」

 ゆっくりと首を振ると、トクサと買いに行った日誌にしずくが垂れた。顔をおさえる。急いで腕を動かしたせいで、しずくを貯めていた器がひっくり返った。閉じた指のあいだから、またひとつしずくが落ちた。

 トクサが足音を立ててそばに来た気配がした。かさ、と花同士がこすれあう音がする。わたしの顔を覗き込む。眉尻を下げて少しだけ口を開けていた。その顔はさいきん覚えた。「心配」か「かなしい」顔だ。日誌を閉じてトクサに向き合う。大丈夫。わたしの声に、トクサはすこし視線をさまよわせてから、手に持っていた花束をわたしに持たせた。

「これ、街のみんなから。はやくよくなるといいねって言ってたよ」

 トクサが街へ行くたび、だれかがここへ来るたびにわたしはその言葉と花やたべものをもらう。トクサからわたしの状況を聞き出したのだろう。この街の人間はお人よしが多いから、施しができない状態のわたしを心配してくれる。

 トクサは街の子供たちにするようにわたしの頭を撫でた。

「アサギちゃんはここにいてね」

 すぐ帰ってくる、といって彼は出て行った。魔術が使えなくなったわたしの代わりに、街に施しをするのだ。彼はそれくらい、水媒体の扱いを心得つつあった。

 花弁を撫でてから、さきほど閉じた日誌に手をかける。わたしが魔女として生まれ落ちてからかかさず書いていた研究日誌だ。気がはやるのをおさえて文字に目を通す。時間がない。見落とすわけにはいかなかった。

トクサはたぶんわたしのことをなんらかの病気にかかったのだと思っているだろう。わたしにも原因はわからないけれど、これは知っている。魔術がつかえなくなった魔女はあぶない。わたしたちは研究をするのが存在理由なのに、ずっと魔力を貯めたままでいると媒体に侵食されて死んでしまう。魔女の死因は侵食か同類に殺されるかのふたつしかない。

術が使えなくなった日から毎日確認している瞳の色は、もうずいぶんと色が抜けてきている。トクサがつけてくれたわたしの名前がなくなり始めている。水面を見て自分のすがたを確認するたび、じっくり観察しようとしてからだから落ちたしずくが邪魔をするたびにのどよりもずっと奥底からなにかが込みあがってくるような気持ち悪さに襲われる。ずっと背筋がつめたく、気が落ち着かない。

 媒体に侵食され始めた状態からもとにもどった魔女はいないとされていた。当然だ。からだを治すにも魔女でい続けるにも魔術を使う必要がある。なぜ魔術が使えないのかと研究するにも魔術が必要だった。ほかの魔女に頼ろうにも、連絡手段がない。なにより、魔女はひとつの媒体しか扱えない。わたしを生かせるのはわたししかいない。

 トクサはさいきんうれしい顔をしてくれなかった。前は、わたしがトクサの言うことをきくたびに笑ってくれていたのに、今はぎゃくになにをしてもつらい顔をする。わたしが動くとしずくがおちるから、からだの不調を隠せないのだ。あんなに街のみんなとたのしい顔で話していたのに、わたしがこうなってからはすぐ家に帰ってくるようになってしまった。遊びに行かなくなってしまった。トクサは、もっところころ表情を変えているほうが似合うのに。

 トクサに笑ってほしくて、これまで書いてきたすべての研究日誌を見返した。どこかにてがかりが載っていないか、なにか少しでも、魔術が使えるようになる方法がないか、端から端までじっくり読み直していく。けれど、日誌に書いてあるのはどうして熱がうまれるのだとか、雷を閉じ込められるのかだとか、そんなつまらないことばかりだった。わたしは、これまでに一度もどうやって魔術が発生するのかを考えたことがなかった。

わたしはいままで何をしてきたんだろう。魔力について研究するのに、魔力の塊と言える自分自身のことを考えなくてどうするんだ! また日誌にしずくがおちた。胸が焦げるようだ。

媒体が扱われている感覚がした。トクサが、子供の願いをかなえている。魔術がつかえなくなってから、媒体の動きがまえよりも明確にわかるようになった。水に触れていれば、街にいるだれがどのあたりで何をしているのかまでを知ることができる。トクサがまっすぐ家に帰ってくるのもわかってしまう。

 トクサはうまくおもちゃを直せたようだった。トクサは媒体と仲良くなるのが上手かった。魔法使いは媒体とどれだけ交流をはかれるかで術の扱いの差が生まれる。どんくさいところもあるけれど、それを補って有り余るくらいに、魔法使い──

 ぼたり、と大きな粒が床に落ちた。それと比べ物にならないくらいにおおきなものが、水に落ちた。息が詰まる。子供が叫ぶ声が聞こえた。トクサだ。トクサが落ちた。血を、流している。浮かび上がる努力もできずに、異常な速さで沈んでいく。媒体がトクサの口から体内に入る。ひゅうう、気持ち悪い音を頭のどこかで聞いた。

 日誌を投げて玄関を出る。同時に激しく呼び鈴が鳴った。視線の先には二隻の小舟があって、片方に子供がのっていた。アオだ。彼がわたしのすがたを認めるよりも早く、わたしは水の中に飛び込んだ。

 ゆったりと泳いでいた魚たちがわたしを見る。肌が溶ける感覚がする。媒体がわたしの全身にトクサの居場所を押し付けてくる。ちょうど小舟が浮かんでいた真下あたりをトクサは沈んでいた。手足をがむしゃらに動かして彼のもとまで泳ぐ。こっちへこいと何度念じても、引き揚げろと望んでも、媒体が応えることはなかった。

トクサは頭から血を流していた。傷口を手で押さえるが気休めにしかならない。腕をつかみ、体を抱き上げて足を動かす。つま先の感覚がない。開けた口から大きな気泡が漏れた。

 水面から顔を出すと、子供が手を伸ばしていた。トクサの服をつかんでもらい、わたしは足を下から押して船に上げる。

 力任せに小舟に乗り込む。トクサ、トクサと呼びかけている子供と一緒になって頬をたたいた。トクサの顔色は青白く、いつかの夜に上下していた胸はすこしだって動かない。いつもはころころと変わる表情も叩かれるままになって、小さく空いた口からは体内に入った水がぽたぽたと垂れている。水が入っているから呼吸ができないのだ。人間は、呼吸をしないと死ぬ。死んでしまえば、魔術では二度と直せない。

どくり、と胸が大きくなって、ぶわりと汗が噴き出した。トクサのからだがはじけ飛ぶさまが頭をよぎる。気持ち悪いくらい手が震えた。体内に入れようとした魔力が体をめぐる。はやく治療をしなければとおもう。同時にわたしが触れたせいでいのちを失う彼が安易に想像できてしまう。でも、このままでは。ごくりとつばを飲み込んだとき、ぼろぼろと涙をこぼす子供が目に入った。死なないで、と声をかけている。わたしも、トクサに死なないでほしい。ぼうっとしているあいだに冷たくなっていくのは嫌だ。

 両手をたがいに強くつねってからトクサの胸に両手を押し当てた。彼の肺を満たす媒体を感じる。これを外に出せれば、トクサは息ができる。また動きだせるはずだ。ぽたたた、と連続して額から、髪からしずくが落ち、両腕からはつたってトクサの上に落ちた。

掌から魔力を流し込んでなかの媒体に干渉する。でていけ。水は動かない。でていけ。まだそこにある。でていけ。ずっとおのれのからだのように動かしていたのに。でていけ。トクサの胸に爪を立てる。でていけ。わたしはこのほかに方法を知らない。

でていけ、でていけ、でていけ、でていけ! 

「でていけ!」

 大声で叫んだとき、媒体がぐるりと回転した。魔力が媒体に受け入れられた心地がする。でていけ。もう一度念じると、さきほどまでの頑固さがうそのようにすんなりと媒体が動き、トクサの口から帯状になって外に出て行った。魔術が、つかえた。

 名前を呼びながらもういちど頬をたたく。まだ胸は動かない。もう水はなくなったのに、呼吸はできるはずなのに。これ以上どうすればいいのかわからず、ひたすらに胸を押し続けた。通常の動きができるように、本来の動き方を教えるために。媒体で肺に空気を送り込みながら、ずっとそれを繰り返す。額の傷の手当も済ませる。

 彼の最後に見た表情は悲しい顔だった。わたしが見たいのはそれじゃない。わたしは、トクサの笑った顔が見たいんだ。うれしい顔でも、たのしい顔でも、なにか企んでる顔でもいい。おこった顔でもいい。悲しかったり、今みたいな何もないものでなければなんでもいい。なんでもいいから、ほら。

 びくり、とトクサのからだが大きく波打った。次いでほそいところに、空気が通る音がした。腕がびくびくと連続してふるえ、眉間にしわを寄せて苦しい顔で大きくせき込む。そうしてから息を吸い、吐いた。一度だけではない。なんどもなんども、胸が上下している。意識は飛んだままだけれど、彼は確かに呼吸をしていた。ああ、よかった。彼は生きてる──……

 ぱたたた、と硬いものに水がぶつかる音がした。

 はっとして自分の腕を見る。わたしの腕は、体は、絶えずしずくを生み出していた。これまでの比じゃない。常に体から雨が降っているようなそんな勢いで、わたしのからだは水を吐き出していた。子供が驚いた顔で私を見る。

もう魔術はつかえるようになったのに、どうして。視界の端で媒体が波打ったのが見えた。誰も動いていない、風も吹いていない、水面が揺れる要素なんてひとつもないのに、たった一部だけが奇妙に動く。そして、それは、わたしを見た。

 皮膚の表面だけに冷たい雷が走った。膝を立てて立ち上がり後ずさる。追いかけてくるとすぐにわかった。口がからっからに乾いて、でもぜったいに水は飲みたくない。いま媒体を体内にいれれば、わたしは。いまにも奇妙なうねりが襲い掛かってくるように揺れた。わたしはトクサを子供に任せてその場を逃げ出した。


 走って、走って、走って、走って! もっとはやく、もっと遠くに! 腕を振って、足を上げて、地面をける。子供たちみたいに大振りに、けれどもっと真剣に、早く。もっと遠くに逃げなければ、できるだけ、水のないところに。そうやって腕を振るたび、足を上げるたびにわたしの後ろでぽたりと音がする。わたしから零れ落ちたしずくが、地面を少しだけえぐる音がする。終わりが追いかけてくる。

 魔術を使えないのがこんなにももどかしいなんて、考えてもみなかった。走るのがこんなにも遅くて、つらくて、くるしいなんて初めて知った。こんな、最後に気付くなんて、思ってもみなかった。

 手が視界に入るたび、指が消えていく。しずくをまとって、ぽろぽろと雨のように地面に落ちてまだらを作る。首を絞められたような気分になった。耳元で何かがくすくす笑う。時折残念そうに息をつく。

 足がもつれて、すこしの浮遊感のあと思いっきり地面に顔を打ち付けた。痛みはない。体を支える腕がない。立ち上がる足の感覚も、ない。こけたのも初めてだ。どう立ち上がればいいのかわからなかった。視界がゆがんで、生暖かいものが頬を濡らした。うめき声が漏れる。地面に額をこすりつける。目からぽろぽろと落ちていく熱いものがわたしでできた小さな空間に模様を作った。

 逃げられない。わかっていた。どれだけ水のないところに行ったって無駄なんだ。ずず、と洟をすする。だってわたしは、水そのものなんだから。

のどに詰まってせき込んで、そんなことでさえ初めてだった。人間ならうまれたばかりの赤子だってわかることを、わたしは今、初めて知るのだ。地面に頬をつける。もう、頭を打ち付けることさえできない。胴がない。

それでもわたしは意識があった。人間でないからだ。生きていないからだ。最後の最後まで水で、ただの意識でしかない。くやしくて、いやで、唇をかんだ。思いっきり、噛みちぎってやる気持ちで歯を立てた。でも、血も出ない。感覚もない。もちろん噛みちぎれもしない。

強く目をつぶって、開いてを繰り返してにじむ視界をなんとか取り払った。一番近いのは土の色、でも眼球を動かすとなんとか空が見える。黄色から赤に、赤から青に、青から黒に色を変えていくきれいな空。あの子と見た空。街の子供たちが、大人たちが美しいと言った空。水が形を変えて登っていくところ。

右目の視界がゆがんで、次第に見えなくなった。視界が回る。左目もだんだんゆがんでいく。赤と、青と、黒が奇妙にうずまいていく。汚く濁る。

もっと見たかったのに。もっと、あの空を、この先を、見たかったのに。

「もっと、生きた






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