箱入りの恋
「じゃあ、またね」
飛び切り可愛い笑顔を僕に向けて智子はくるりと背を向けた。
「あ」と声が漏れる。もう? と頭の中で問いかける。
まだ日も暮れかけた午後5時過ぎ。26歳くらいの普通のカップルなら、まだまだデートは中盤を迎えた頃で、そろそろ夕飯をどこで食べようかとか、そのあとはどうしようかなどと、夜のデートプランを組み始めるころなのに、僕たちにはそれができなかった。そもそも夜のデートというものをしたことがないのだから、プランを考えること自体が無駄な努力に終わってしまうのだ。
今日こそは何とかキスをする。朝、気合を入れて家を出た時にはそう決めていたのに、いつものように彼女に会って、可愛い笑顔を見た瞬間にそんな事どっかに飛んで行ってしまって、結局智子とのデートを楽しんでしまう。そして、決まって最後に別れるときに思い出すんだ。あれ、もう? もうそんな時間だったんだって。
今その手をつかんだらどうなるだろう? 待ってって手をつかんでぐいっと引き寄せるんだ。そして彼女のくちびるに僕のくちびるを重ねる。
そう想像して頭を振る。そんなことをしたら僕は彼女と会えなくなってしまう。付き合い始めてもう2年になるけど、キスをしたのなんてホント数えるくらいしかない。いや、実際にいつ、どこで、どんな状況で、どうやってキスをしたのかはっきりと覚えている。それくらい彼女とのキスはハードルが高い。なぜなら、智子は厳格な家庭で育った、まさに「箱入り」なのだから。
*
待ち合わせ場所にはいつも15分前についてしまう。午前9時45分。腕時計をちらりと見て、辺りを見渡す。まだ智子が来ていないことを確認してほっと胸をなでおろした。
告白したころにはたくさんあった自由な時間も、お互いに社会人となると少なくなり、僕たちのデートは週末限定となった。仕事帰りに少しだけでも会ったらいいのに、と同僚などからは言われるのだけど、それは僕には望むことができなかった。何故なら彼女のルールその一に「門限の厳守」があったからだ。
今どき門限? なんて思うかもしれない。しかし彼女の家柄を知るものであれば誰もがそんな今どきあり得ないルールを納得するだろう。なにせ、彼女は日本を代表する大企業の社長令嬢なのだから。
それでもまだ学生だった頃は自由な時間が多かったこともあって、毎日会うことができたおかげで門限なんか大した問題じゃなく、寂しくなることはなかった。少しでも時間を過ぎるとあの人たちが否応なく彼女を連れて行ってしまうのは、やはりどこか切なかったのだけど。
それが彼女のルールその二「ボディガードによる監視の励行」だ。総資産数千億を超える両親を持つと、常に犯罪の影が彼女の周りをちらつく。万が一の事態を起こさないために、智子の周囲には常に数人のボディガードが付いて回っていた。職務に忠実で融通の利かない人たちだ。彼らがいることで安心感はあるのかもしれないが、恋人としての僕の立場は尊重されることはない。
もちろんデートの時でも例外なく、彼らは必ずどこかで見ているのだ。
10時ジャスト。いつものように彼女は黒塗りのベンツに乗ってやってくる。運転席と助手席にはそれぞれ屈強な男が乗っていて、一見して堅気のようには見えないが、彼らは智子のボディガードだ。運転手の男が僕を見つけ、車を寄せる。その間も助手席の男は辺りに目を配り、周囲に怪しい人物がいないかチェックしている。
スモークガラスの重そうなドアが開き、後部座席から可愛らしい服を着た、智子が出てくるのかと思いきや女性のボディガードが降りてきた。てっきり智子が出てくるものだと思っていた僕は、自分よりも頭一つ背の高い女が出てきたことで若干腰が引けてしまった。
女のボディガードは上から僕を見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。その目はまるで「こんな貧乏くさくて貧相な男がお嬢様の彼氏とは信じられない」とでも言っているようで、僕は見返すこともできず俯いてしまう。
すると、空いたドアからちらりと細い足が見えた。同時にボディガードの後ろから聞きなれた可愛い声がする。
「お待たせ」
一週間ぶりに見た智子は、秋らしい色の服に身を包み、彼女の特徴でもある黒く輝く長い髪を、夏場とは違い後ろで一つにまとめて風になびかせていた。
「では、我々はこれで……」
女のボディガードは小さく頭を下げて智子に小さなポーチを手渡した。財布か何かが入っているわけではない。これも、彼女と付き合うようになって知ったことなのだけど、彼女は自分のバッグのほかに、いつも小さなポーチを持ち歩く。その中には護身用の催涙スプレーと小型の強力なスタンガンが常に入っているわけだが、一度お願いして中を見せてもらってぞっとした覚えがあるので、僕はなるべくそのポーチを見ないようにしている。
「5時15分にお迎えに上がります」
そう言い残して長身の女ボディガードはその大きな体を低いベンツの車体に押し込んだ。防弾ガラスの想いドアを閉めて、ゆっくりとベンツが走り出す。その後部ランプを目で追って智子は「じゃあ、行こっか」とはじけるような笑顔を見せた。
5時15分まで。デートの初めにタイムリミットを設定されることにも随分慣れてしまった。それでも真冬に比べたらまだ15分長いのだけど、一般の男からしてみたらそんな理不尽は我慢できないのかもしれない。恋人と過ごす時間に限りがある寂しさは僕にもわかる。でも、そんな事よりも僕は可愛い智子といられる時間がそれだけあることに喜びを感じてしまう。
それに、今日の僕は気合が入っていた。彼女と最後にキスをしたのが丁度半年前。智子の事は誰よりも好きだし、一緒にいられるだけで幸せを感じるのは嘘じゃないけど、さすがに半年も体のふれあいがないと、物足りなくなってくるのは仕方がない事で、今日こそは久しぶりに彼女とキスをするのだと、決めていた。
「今日はどうするの?」
気合を入れなおして、智子に笑いかける。ここ一番の笑顔で。
「あのね、見たい映画があるんだけど……いいかな?」
そんな僕の思いなんて知ってか知らずか、智子は可愛らしい顔で小首をかしげる。お嬢様故の優雅な所作なんて微塵もない、言ってみればどこにでもいる普通の女の子のようだ。
「どんな映画なの?」
「昨日公開になったばかりの恋愛映画だよ」
「そう。今から映画を見たら丁度お昼だね。食事は僕が決めてもいいかな?」
「うん。洋介に任せるね」
にっこりとほほ笑んで智子は自然と僕の腕に自分の腕を絡ませた。彼女と歩く時のお決まりの仕草だ。一度手を繋ごうとしたところ、たちどころに僕の携帯が鳴りだし監視していたボディガードから忠告を受けたことがあった。曰く「お嬢様のお手に触れるなど言語道断。お嬢様をエスコートするのなら貴様の腕を差し出すのが礼儀」とのこと。あまりに低くドスの利いた声で言われたものだから腕を切り落とすと言われたような気がして青ざめたけど、こうして腕を組むのがエチケットと言いたかったらしい。
智子が見たいと言っていた映画は、やはり公開二日目という事もあって大人気で、チケットカウンターには長蛇の列が出来上がっていた。上映時間を見ると次回上映は10時25分となっていて、この列を見る限り次の上映には間に合わないものと思われた。
「混んでるね。先に食事にする?」
どうせ次回上映に間に合わないのなら、とそう提案すると、智子は小さく首を振った。
「ううん。大丈夫だよ。高崎にお願いしておいたから」
そう言って智子は列を無視してスタスタとカウンターへと歩き出した。
高崎、とは先ほどの長身の女ボディガードの名前だったはずだけど……などと考えながら彼女の後をついていくと彼女はカウンターを素通りして中へと入ってしまった。慌てて後を追う。後ろで列を作っている人だかりの目が気になったけど振り返る勇気は僕にはなかった。
映画館の中に入ると最前列から最後列の一つ手前まで満員の観客で埋め尽くされている。この様子からも大人気映画なのだとわかるのだけど、最後列だけ誰も座っておらず、がらりと空いていた。その光景は異様とも取れるものだったけど、さすがに2年も智子と付き合っていると大体の事情を察することはできた。
「もしかして、買い占めたの?」
最後列真ん中の席に座りながら小声で話しかける。
「だって、そうでもしないと高崎が許してくれなかったんだもん」
彼女は申し訳なさそうに小さく身をかがめながら隣に座った。
「あの列を見るとやっぱり申し訳なくなるけど、こうしないと警備が行き届かないって高崎がきかなくて……」
そう言って俯く智子をしりめに館内の照明が落ちスクリーンに映像が映し出された。
映画が始まると、それまでわずかに聞こえていた囁き声も消え、しんと静まり返る。観客たちは皆一様に目を輝かせてこれから始まる物語に心を躍らせている。でも僕はと言えば、真っ暗な空間に映し出されるスクリーンの明かりが智子の顔だけ綺麗に照らしていて思わず見とれてしまっていた。まるでこの広い館内に僕たちだけしかいないような気がして、無意識に手が伸びる。
智子は映画に集中して僕の手に気付いていない。このまま智子の手を取ろうかどうしようか、悩んでいる間にも手は無意識にゆっくりと伸びていき、智子の手に降れそうになった。その瞬間ぞくりと背筋に悪寒が走った。はっと我に返るとジャケットの胸ポケットでマナーモードの携帯が震えている。……そうだった。今この瞬間にも僕たちは二人きりではないのだ。どこにいるかはわからないけどどこかでボディガードが僕たちをじっと見ている。そのことを思い出してそっと手を膝の上に戻す。すると携帯の震えがぴたりと止んだ。
手を繋ぎたい、けどできない。智子の顔を見ようかと思ってもどこで彼らが見張っているかわからないと思うとそれもできない。悶々としたまま画面を見つめるしかなく、当然そんな状態で物語が頭に入るわけもない。訳も分からないまま流れるようなスピードで映画はどんどん進んでいき、気付けば物語は終盤に差し掛かっていた。
途端、それまで水を打ったように静かだった館内にさざ波のような音が響き始めた。それがあちこちで鼻をすする音だと気づくと、隣で智子も涙しているのだと気づいた。スクリーンの明かりで頬をつたう涙がキラキラと光る。濡れた瞳がゆらゆらと揺れる。
「キレイだ……」無意識にこぼれる。
「うん……すごくきれいだね」
画面にくぎ付けのまま智子はそう答えた。
画面には美しい川のほとりで物語の主人公たちがキスをしている。彼女はその光景が綺麗だと涙している。違うんだ。僕が見ているのは画面じゃなくて智子なんだ。そう言いたいのをぐっと堪えて「そうだね」と答えた。
画面を見る。あの二人のように僕たちもキス出来たらどんなにいいだろう。長い、長いキスを交わす主人公たちを少し羨ましく思いながら、そんな思いがぼんやりと頭に浮かんだ。
映画を見終わった後の智子は、いい映画を見た後の余韻や高揚感からか、いつもよりもテンションも高く、僕に可愛い笑顔をたくさん見せてくれた。食事の最中も先ほどの映画のシーンでどこが良かったとか、どこで感動したかとか、熱心に話しながら彼女は笑顔をはじけさせ、いろいろなお店を回り、買い物をしているにも彼女の笑顔は常に僕をときめかせた。
智子と一緒にいられるだけで嘘みたいに早く時間は流れ、空が暗くなってくるとまるで狐に化かされたかのような錯覚に陥った。慌てて腕時計を見る。気が付くと5時を過ぎていた。
「暗くなってきたね……」
心なしか寂しげに沈んでいく太陽の方角を見つめながら智子は小さくつぶやいた。
「あ、うん……」
さっきまであんなに楽しそうに笑っていた智子の顔に寂しさが滲んだことに、僕の胸がズキンと痛むのを感じてなんて答えていいのか分からず返事が曖昧になってしまう。
「早いなぁ」
「早いねぇ」
門限間近になるといつも突然突き付けられた事実を受け入れられなくて、茫然としてしまう。智子と一緒にいる時間が楽しければ楽しいほど、深く途方に暮れてしまう。
「やだなぁ、そろそろ時間なんだね」
「門限は、ちゃんと守らなくちゃね」
彼女のルールは絶対だ。僕なんかがいくら抗ったところで覆るわけがなく、門限間近の僕は強がることしかできない。ホントは門限なんてくそ食らえだ! って叫びたいのを必死に抑える。
「洋介、あのね……」
何かを言いかけた智子の言葉を、バッグの中の携帯が大きな音で遮る。開きかけた口をゆっくりと閉じて、智子はバッグから携帯を取り出して耳に当てる。そしてゆっくりと背を向けた。
うん、うんと頷く智子の小さな背中で、一つにまとめた髪が左右にひらひらと揺れるのを、僕はぼぅっと眺めた。その電話はこの楽しい時間の終わりを告げる電話だと知っているから、僕は寂しさがあふれそうになるのを堪えるしかない。
短い通話を終えた智子は携帯をバッグにしまい、振り返ると先ほどまでの寂しそうな顔とはうって変わって、また可愛い笑顔に戻っていた。
「洋介。お時間です」
「え?」
にっこりとほほ笑む智子の後ろに、まるで突然現れたかのように黒塗りのベンツが音もなく停車する。
「あ」と声が漏れる
「じゃあ、またね」
飛び切り可愛い笑顔を僕に向けて智子はくるりと背を向けた。
え? もう? と心の中で問いかける。差し出しかけた腕は空を切り、行き場をなくしたまま宙を漂った。
さっき何を言いかけたの? と問いかけたかったが、後部のドアが開き、長身の女ボディガードが姿を現すと言葉は喉を通って出ることができずに、僕は空気を飲み込んだ。
差し出した手の先で智子の長い髪が左右に揺れながらゆっくりと遠ざかっていく。これが映画であればスローモーションにでもなるのだろうけど、現実にはそんな事あるわけもなく、一歩一歩確実に智子は僕の手の届かないところへ行ってしまう。
あの車に乗ってしまったら、また一週間智子に会えなくなってしまう。今日は絶対キスするんだって、そう決めていたのにまた何もできないまま彼女は僕の手の届かないところへ行ってしまう。
今その手をつかんだらどうなるだろう? 待ってって手をつかんでぐいっと引き寄せるんだ。そして彼女のくちびるに僕のくちびるを重ねる。
離れていく智子の手を掴みかけて、その先にいるボディガードの鋭い眼光が目に入った。背筋に寒気が走る。もしそんなことをしたら、殺されないまでも、もう二度と智子には会えなくなってしまうかもしれない。そう考えるとどうしても智子の手を掴むことができなかった。
やっぱり、今日もキスはできなかった。
長身の女ボディガードと言葉を交わす智子を遠目から見守りながら、どうしてもっと早く彼女と触れ合わなかったのか、どうしてこの気持ちを正直に言わなかったのかなどと後悔が次々とわいてくる。太陽はもうどっぷりと沈み、暮れなずんでいた空はあのベンツのように真っ黒に塗りたくられていた。智子の姿が見えづらいのは日が落ちたからだろうか、それとも寂しさのせいだろうか。そんなことを考えていると、智子がこちらを見たような気がした。
すると、なぜか智子を乗せずに車は走り出し、女ボディガードを置いて智子が戻ってきた。「洋介」と僕を呼びながら小走りに近づいてくる。たまらず僕も駆け出した。
「智子、なんで……」
「洋介、あのね?」
ちらりと後ろを確認して、智子は顔を近づける。
「智子、門限……」
「あと5分」
「え?」
目の前にまで迫った智子の顔。その後ろでボディガードがゆっくりと背を向けた。
その瞬間、くちびるに柔らかな感触を感じて、僕は思わず目を丸くした。
「ちょ……」
ほんの少し触れた智子のくちびるはすぐに離れ、代わりにおでこがくっつく。
「あのね。ホントは今日洋介とキスしたかったの」
そう言って智子は僕の背中に手をまわした。
「あの映画で、二人がすごく素敵なキスをしてたよね。あの時、洋介とこんなキスができたらどんなにいいかなって思ったの」
「……僕だって。智子とずっとこうしたかった」
智子の背中に手をまわしてぎゅっと抱きしめる。小さな体は軽々と僕の胸にくっつき、柔らかな感触が腕に伝わる。こうするだけで恥ずかしいくらいに胸がときめいてしまう。それは、普段なかなか会えないし、会っていても触れることもままならない彼女のぬくもりを感じているからであり、智子の気持ちを全身で感じているからでもあった。
「今日は智子とキスするんだって、ホントは会うたびに思ってた。でも、智子と一緒にいると楽しくて、嬉しくて、幸せで……キスのこと忘れちゃうんだ」
「言ってよ。できないときのほうが多いかもしれないけど、ホントはわたしもしたいんだから。いつだって洋介とキス、したいんだから」
吸い寄せられるように智子のくちびるへ僕のくちびるがくっつくと、それはお互いの気持ちを重ねて長い、長いキスとなった。
*
9時45分。腕時計で時間を確認して辺りを見渡す。まだ智子は来ていない。今日も待ち合わせの時間より15分早く着いた。ここから15分間、智子を待っているこの時間は久しぶりのデートに心を躍らせる貴重な時間だ。
今日は、智子とキスをする。朝出る際にそう決めていた。先週久しぶりに智子とキスをしたとき、お互い同じ気持ちだったことに気付くことができたのだから、これからはこの気持ちを正直に言おう。そうすればきっと智子も応えてくれる。そう思えた。
10時ジャスト。いつものように彼女は黒塗りのベンツに乗ってやってくる。運転席と助手席にはそれぞれ屈強な男が乗っている。彼らは今日も職務に忠実だ。運転手の男が僕を見つけ、車を寄せる。その間も助手席の男は辺りに目を配り、周囲に怪しい人物がいないかチェックしていた。
スモークガラスの重そうなドアが開き、長身の女ボディガードが降りてくる。そしてやはり上から僕を見下ろし、ふん、と鼻を鳴らした。その目はまるで「なぜお嬢様がこんな男と付き合っているのか訳が分からない」とでも言っているようで、僕は目を合わせることできず俯いてしまう。
「久しぶり」
それでも女ボディガードの後ろから聞きなれた可愛い声が聞こえると、その声を聴いただけで僕は嬉しくなってしまう。
「では、我々はこれで……」
女ボディガードは小さく頭を上げて、あのポーチを智子に手渡した。その際ちらりと僕を睨んだような気がして、慌てて目をそらす。
「じゃあ、行こっか」
遠ざかる車を目で追って、智子は僕にはじけるような笑顔を向ける。
「智子、今日は正直に言うよ」
僕はここ一番の笑顔で智子に笑いかけた。
「今日は、キスをしよう」
そう。僕と智子は同じ気持ちだ。正直に言えば応えてくれる。はずだった。
「あ、えっとね……」
しかし智子は何故かばつが悪そうに目をそらして「ゴメンね」と謝った。
「こないだ、高崎に怒られちゃった。松下家の御令嬢ともあろう方が路上でキスをするなど言語道断。だって」
「え?」
「だからね? しばらくはキス、禁止だって」
「え?」
「高崎、怒ると怖いから……我慢してね?」
「え?」
どこからともなくあの鋭い眼光を感じたような気がして僕は身を震わせた。今もきっとあの女ボディガードは僕たちを監視しているに違いない。ここで無理やりにでも彼女にキスをしようものなら、たちまちやってきて僕はなすすべもなく智子から引き離されてしまうだろう。抗うことはできない。なにせ智子は日本屈指のお嬢様で、僕はただの一般人なのだから。
「でもね、洋介とのデートは毎回すごく楽しみにしてるんだよ? 高崎もデートは禁止にしなかったから、だからね? デート、しよう?」
若干申し訳なさそうに智子は小首をかしげた。その仕草をされると僕は何も言えなくなってしまう。だって、こういう時の智子は誰よりも可愛いんだ。
「わかったよ」これは精いっぱいの強がりだ。智子はわかってくれるだろうか?
「清いデートをしよう。高崎さんが、僕を認めてくれるまで」
目いっぱいの笑顔でそう言って、いつかあの女ボディガードが僕を認めてくれる日が来るのだろうかと、内心で途方に暮れた。
「うん! ありがと」
でも、それも智子の可愛い笑顔を見ればすぐに飛んでなくなってしまう。どうしようもなく僕は、智子が好きなのだ。
「洋介、好きだよ」
そう言って智子は嬉しそうに腕を絡ませた。
「僕も、好きだよ」
今度彼女とキスをすることができるのはいつになるだろう。智子とのキスのハードルはまたとてつもなく高くなった。それでも、この笑顔の一番近くにいられるならそれも我慢できる。そう、僕なら我慢できるはずだ。そう言い聞かせて僕は智子にとびきりの笑顔を返した。