大蛇と姫
人々が言葉を話すよりずっと昔から、一匹の大蛇がこの世にありました。
大蛇が地を這えば、跡には水が流れ川になり、生き物があふれます。
大蛇がとぐろを巻いて身を休めれば、日差しになろうと木々が茂ります。
やがて大蛇は信仰をあつめ、神としてその名を知らしめました。
しかし人が力をつけ、国を作る頃になると、大蛇は深い洞窟に隠れ住むようになりました。
大蛇をときどき訪ねてはへりくだり、わけのわからない事柄に「大蛇様、なにとぞ、許可すると」としつこく食い下がるのです。
いちいち頷くのにも疲れて、大蛇の住まいはより深く、暗い場所になってゆきました。
そして誰も大蛇を訪ねなくなると、穏やかで寂しい時間が何百年も続きました。
かつては光ふりそそぐ大地で暮らしていたものを、なぜこうなってしまったのだろう。
気がふさぎ、ため息をつくたびに鱗がくもり、やがては腐って剥がれ落ちてゆきます。
気が付いたときには、もう病は大蛇の全身をむしばんでいました。
初めての病と迫る死は、大蛇にとっても恐ろしいものでした。
苦しみに喘ぎながら、大蛇はひとつの思い付きをします。
ときに、若い娘を毎年呑んではながらえる怪物がいるという。
私もそれに倣って、娘の一人でも呑んでみようか。
では昔面識のあった者の末裔にしよう。随分世話をしたのだ、縁がないわけではあるまい。
そうして白羽の矢が立ったのが、ある王族でした。
「王の血を引く娘一人、献上せよ」
神話の時代に滅んだと思われていた大蛇からの託宣に、国中がざわめきます。
仲介者は青ざめて、「謀反の意はありません、嘘ではないのです」と何度も頭を垂れました。
嘘いつわりと思いたくとも、たしかに国の歴史書には大蛇との記録が残っているのです。
お告げを受けた大臣は、かつての神職の家系でした。
王には、娘が三人ありました。
一番上の姫君は、戦争ばかりする東の隣国に望まれています。姫を嫁がせなければ、いつ戦争になってもおかしくありません。
二番目の姫君は、豊かな緑ひろがる西の隣国に望まれています。姫を嫁がせれば、食料や資源の輸入事情がより良くなるでしょう。
末の姫君は、とても気立てのよい娘で、王に愛されていました。
しかし姫は盲目で、他国に嫁がせるには難しい。大蛇が姫を捧げよと望むのなら、国にとってこれ以上都合のいい娘はいませんでした。
王は泣く泣く、末の姫君を大蛇に献上すると決めたのです。
お付きの一行が、姫を洞窟の奥まで送り届けました。姫を置いて、一行とともに灯りも帰ってしまいます。
あたりは姫が普段過ごす世界と同じ、真っ暗闇になりました。
そこへ、より深くから大蛇が這って現れます。大蛇にとっても、この暗闇は気になりません。
久しぶりに生き物と対面して、大蛇は注意深くぐるりと眺めます。
――とって食らうつもりでいた大蛇は、一目で姫を気に入ってしまいました。
物音に気が付いた姫が、こわごわ声をあげます。
「大蛇様でしょうか。私は、王の娘です」
姫の怯えた声を聞いて、大蛇ははっとしました。
自分が食べられるのだと思っている姫は、小さく震えています。
大蛇は、とっさに嘘をつきました。
「いいえ、私は近くの国の王子です。お互い、大蛇の生贄にされてしまったようですね」
人の声を真似てみせると、姫は少しほっとした表情になります。
大蛇はそれが嬉しくて、つい王子のふりをしたまま、姫とおしゃべりを楽しみました。
すっかりいい気分になり、大蛇は今に至る経緯など忘れてしまっていたくらいです。
ところが、姫はふと暗い表情になります。
「楽しいお話をありがとうございます。もっと早くにお会いしたかった……」
そう、姫は大蛇の生贄としてこの洞窟へ連れてこられたのです。
このままずっと一緒に過ごすわけにはいきません。
大蛇は、もう一度嘘をつきました。
「私が大蛇を痛めつけます。その後ふたりで逃げましょう」
とまどう姫から少し離れて、大蛇は一芝居はじめます。
声をあげたり、自らの尾を打ち付けて、びたんびたんと音をさせました。
「さあ、いまのうちに!」
そうして大蛇は姫と洞窟を抜け出し、それから一緒に暮らそうと熱心に語りかけました。
姫の気持ちも少しずつ動き、やがて大蛇と姫は、夫婦にまでなってしまいました。
大蛇が望むと、森の奥に高い塔が現れました。人にはとても登れないつくりになっています。
姫の目が見えないのを暗闇のせいだと思っていた大蛇は、姫を光の入らない部屋に住まわせました。
「大蛇のやつ、私はともかく君をとても気に入ったらしい。今でも探しているようだ。暮らしづらいだろうが、我慢しておくれ」
「やはり私が生贄にならねば、災いが国を襲うのではないかしら」
「ああ、いや、災いを起こすような蛇ではない。あれで、この大地を愛しているんだから」
姫の心配はそのひとつだけでしたから、大蛇と姫の暮らしは無事始まります。
幸い、大蛇を蝕む病は恋のよろこびでみるみるうちに回復しました。
腐りよどんだ鱗は剥がれ落ち、何度か脱皮すると、体躯は光り輝く美しい白色になりました。
姫は、夫と手も握らないのを不思議に思うことこそありましたが、不満はひとつも言いませんでした。
大蛇は姫に必要だと思うものを全てそろえ、毎日愛をささやいてくれるのです。
果物や木の実、豆はいくらでもありました。姫の身なりをうつくしく飾り、髪も舌先で器用に編みました。
大蛇は、はじめはたしかに幸せでした。
しかし大蛇の姿も隠す闇の中では、姫に外の花を見せることもできません。
新しい服を着せてみたところで、姫が見ないのなら喜びも半減します。
なにより、大蛇が何百年も過ごした暗闇に姫を閉じ込めているようで、とてもつらくなりました。
姫はそれに文句も言わず、夜は布越しに大蛇の冷たいからだに寄り添います。
とうとう堪え切れず、大蛇は本当のことを話すことにしました。
ずっと暗がりにいた者に、太陽の光はつらいでしょう。明るい月夜の晩、大蛇は姫を外へ連れ出しました。
今はつぼみの花畑に姫をおろし、後ろからそろりと近づきます。
耳の良い姫は、すぐに音のした方へ振り向きました。
昼間よりましとはいえ、きっと月明かりで私の姿は頭から尾まで姫に見られてしまったに違いない。
洞窟で出会ったときのように、姫に怯えられてしまうだろう。
想像がおそろしくて、大蛇はなめらかな首を曲げ、深々と姫に頭を下げました。
「生贄を求めた大蛇は、私なのだ。今まで騙していてすまなかった」
今の大蛇にとって、姫に嫌われてしまうことは病や死よりもつらいことでした。
もし嫌と言われたなら、本当に全身の鱗が濁ってしまうかもしれません。
丸呑みできる程度の小柄な娘に、大蛇は頭を低くして許しを乞います。
やがて大蛇の頭上に、くすくすと愛らしい笑い声、それと優しい手が触れました。
「途中で気がついていました。だってあなた、ドアを開けてから部屋を出るまで、随分時間がかかるのですもの」
絵と文両方やるのが夢でした。
【蛇足】
それでも、明かりのある場所に出たのはこれが初めてなのです。
大蛇はまだ、姫が怖がらないことが信じられません。
なぜ怯えないのか尋ねると、姫は色の薄い瞳の前に指先を数度振りました。
「今まであなたは気づいていらっしゃらなかったようですが、私は生まれつき目が見えないのです」
言われて大蛇は合点して、深く頷きます。
「嘘をついたお詫びをしよう。これ以上、この姿を君に隠すことはしないよ」
神の力を持った大蛇が姫の額に口付けると、たちまち祝福がもたらされ、姫の身体の悪いところは全て治ってしまいました。一度閉じた目を、姫が再び開きます。
なにものも瞳に映したことのない姫は、初めて見た光のある世界に目が眩みました。自分の手や髪すらも、触れる感触だけの世界と比べて呆然とします。
ただ、目の前でとぐろを巻く大蛇の輝く鱗を見て「きれい」と涙をこぼしました。