朝靄の出会い
何かが近くにいるような気がして、シイカは夢から覚めた。すんすんと鼻を鳴らすような音が聞こえる。重い瞼をゆっくり持ち上げたシイカのすぐ目の前に、大きな顔があった。
「うわわわわわわっ!!!」
シイカはすごくびっくりしすぎて、思わず大声を上げた。向こうもそれにびっくりして、後ろに飛び退く。今日は晴れていたので、朝日が謎の人物を照らす。
その人物の姿を見て、シイカは自分の目を疑った。
「えっ…、嘘…」
地面に四つん這いになってこちらを見る人物は、村の話に伝わる怪物そのままだった。普通の人の2、3倍はあろうかという体の大きさ。体中が純白の長い毛で覆われ、さらに同じような感じでふさふさした巨大なしっぽが生えている。真っ白い体毛と同じく、白く長い髪。その髪に見え隠れする顔は少年のもので、結構な美形。シイカをじっと見つめる目はアメジストの色。その瞳の中心で、黒い瞳孔が縦に細く裂けていた。
怪物はゆっくりとシイカに近づいてきた。思わずシイカは身を固くする。足ががくがくと震えた。怖くてどうしようもなかった。
美形の怪物は鼻を近づけて、シイカの傷の臭いを嗅いだ。巨大な顔がすぐ近くに迫る。怪物は傷を眺めた後、怯えるシイカの顔をじーっと見つめてきた。シイカはつかの間怖いのも忘れて、相手の目を見つめ返す。鮮やかなアメジストの瞳が静かにこちらに向けられていた。
やがて、化け物はシイカから目を離した。大きく口をあける。ズラリと並んだ牙が見えた。
ーーこれで私は終わるのかな。
シイカはそう思った。ぎゅっと目を閉じて、その瞬間を待つ。
でも、その時はいつまで待ってもやってこなかった。
「…あれ…?」
ジャキンという音が聞こえて、シイカは目を開けた。
怪物が咬み切ったのは、シイカの頭ではなく、彼女の手をつなぐ鎖だった。
「え…」
怪物はかがみこむと、今度は足に付けられた鎖をくわえる。鎖が切れる音がして、両足が自由になった。
彼は呆然とするシイカに寄ってくると、低く小さな唸り声をあげて、そっと、そっと頭で触れた。初めは何が起こったのか分からず放心していたシイカは、彼がもう一度唸って頭をこすりつけたので我に返った。
シイカは自分に触れている大きな頭に触れてみたくなった。思い切って、おずおずと触れてみる。一瞬彼の全身がぴくっと動くが、さっきよりももっとすり寄ってきた。
不思議な気分だったが、もう怖くはなかった。シイカは甘えるようにすり寄る彼を、ずっとずっと優しく撫でていた。
朝靄の中での、奇妙な出会いだった。
プチっと果物をもぎ、怪物はそれを丸呑みにした。シイカもカリカリと果物をかじる。
次々に果物を食べる彼を眺める。日差しを浴びて、彼の雪のように真っ白い毛が輝く。長くて美しい毛並みは、光によって虹のように色を変える。それを見ていたシイカの口が、自然にこんな言葉を紡いでいた。
「ユキノフ」
ん?といった感じで怪物が振り返った。アメジストの目が問いかけている風に見えた。
「ユキノフ」と、シイカは繰り返した。
「それが、今日から君の名前ね。決定。オッケー?」
何言ってるんだろう、と思った。こんなのが人の言葉を理解するわけないのに「オッケー?」なんて。そもそもどっからこんな名前を思いついたんだろ。う~ん…。
真っ白な獣はしばらく何か考えているように唸っていた。そして、満足げな表情になった。その顔は、どこか嬉しそうにも見えた。どうやら、シイカの言っていることが分かっているのかもしれない。
「君…、人の言葉わかるの?」
言葉?とでも言いたげにユキノフは首をかしげた。言葉って、何?そんな様子だ。
でもそれはシイカの気のせいかもしれないので、シイカは適当に笑って手をひらひら振った。
「何でもないよ。動物が人の言葉なんてわかるはずないもんね」
まあ、君が動物と呼べるかは別として。
シイカは果物に思い切りかぶりついた。果物の香りが口いっぱいに広がる。ユキノフもまた果物を一口で食べる。
そんなものでおなかいっぱいになるのかな、と思った。
「ユキノフ」
名前を呼んだら、またくるっと振り返って、「何?」という顔をする。その姿がかわいく見えて、シイカはくすくすと笑った。ユキノフ、ユキノフと口の中で何度も繰り返す。
結構いい名前だな、と思った。
「はい、今日もは~じま~るよ~~」
渡された紙を見て、王子はうんざりした。
「ええ~っ、またかよー」
「そんなこと言わないの。次に同じこと言ったら国王に報告しようかな~」
「…分かったよ。やるから」
王子はペンをとり、紙にさらさらと書き始めた。
「全くさあ、誰のおかげで日頃の脱走がバレてないと思ってるんだ」
「はいはい、いつもありがとうね~外交官さん」
レシミル国の外交官を務めるミクターチはため息をついた。歳はもうすぐ40。とある理由で、今目の前でだるそうに課題を解いているティファニー王子を国王から「かくまって」いる。何年も前からこうなので、いちいち敬語を使ったりしないし、向こうも全く気にしていない。流石に王の前では話は別だが。
「なあ、ミクト、どうして父さんは礼儀とかにうるさいんだろうな。母さんも細かいことでいろいろ言ってくるし」
紙に文字を書き込んでいきながら尋ねるティファニーに、ミクトは優しく微笑んでみせた。
「まあ、そのうちわかるよ。親の気持ちってやつだな」
「理解したくねえなぁ。…終わったぞ」
ティファニーは紙をひらひらした。城では絶対に勉強しない彼のために、いつもミクトが作っているのだ。
紙を受け取って採点を始めながら、突然ミクトがこんなことを言ってきた。
「なあティファニー」
「何?」
「ラルキニアの森に住んでる怪物の話って知ってる?」
「はあ?」
王子は彼に軽蔑の視線を向けた。
「知ってるも何もねえだろ。そんな有名すぎるおとぎ話…」
「実は本当にあるんだよ」
「は…?冗談だろ」
疑いの目でこちらを見るティファニーに、ミクトは指を振った。
「冗談じゃないよ。森の向こうの村から聞いたんだ。数年前から人が喰われるようになったから村で生け贄を出してるらしい」
ティファニーは驚愕した。そんな話、聞いたこともない。
「嘘だろ!どうして今まで知られてなかったんだ!?」
「向こうが隠してたんだ」
何で?と訊くティファニーに、「分からない」とミクトは首を振った。
「んでさ、この国の問題として君が放っとけることだと思う?」
「放っとけるわけねえだろ!今すぐにでも森に行って、その怪物をブチ殺してやりたいぜ!ったく、何で国に伝えなかったんだ。そんなことならすぐに片づけられるのによ」
靴で床を蹴り、怒ったように言うティファニーに、ミクトは「そうだろ」と頷いた。
「じゃあさ、行ってきたら?森に」
「え?」ティファニーは驚いて彼を見た。
「いいのかよ?その間父さん達は?多分行かせてくれねえぞ」
ミクトはちょっと考えるような仕草をしてからにこっと笑った。
「平気だよ。俺が何とか言っとくよ」
「でもそうしたらお前がヤバいんじゃねえの?」
「いいって。任せろ」
「おおっ、さすがミクト!頼りにしてるぜ!」
ティファニーは親指をぐっと立てた。
「んで、いつ出ればいい?」
「今」即答だった。
「は?今?何で?」
ミクトは部屋のドアを指して言った。
「早くしないと王様たちが探しに来ちゃうからね。行くんなら今のうちだぞ」
ティファニーは少しうつむき、やがて顔をあげて、きっぱりと言った。その目には、強い意志が宿っていた。
「ミクト、俺、行ってくる。そんで化け物を倒して帰ってくるよ」
ミクトは安心したような笑顔になって、少年の肩に手を置いた。
「がんばれよ。皆のためだからな」
「ああ」ティファニーも、力強い笑顔を見せた。
これが、全ての始まりだった。