婚約破棄されたオフィーリアは、死んだことにしました
私が川に落ちて死んだと聞いて、ハムレット王子はひどく悲しまれたそうだ。
葬儀では白い花を棺に供え、人目もはばからず涙を流されたという。その話を聞いたとき、私は少しだけ呆れ、それから、どうしようもなくおかしくなってしまった。生きているあいだは、泣くことさえ許してくださらなかったのに。
「何か面白いことでも?」
向かいの席に腰を下ろした青年が、怪訝そうに私を見た。美しく整った顔立ちに、夜の色を映したような黒髪、冬の湖を思わせる淡い灰色の瞳。エヴァレット公爵ルシアン様は、王国でも有数の名家の当主であり、王家の不正を調べる監察卿でもある。
「いいえ。ただ、亡くなったことになっている私が、こうして温かいお茶をいただいているのは、少し不思議だと思いまして」
「それなら、もう一杯いかがです? 死人はおかわりを遠慮する必要もないでしょう」
真面目な顔でそうおっしゃるので、私はとうとう笑ってしまった。
彼は私の茶器に新しいお茶を注ぎ、銀の盆に載せられた焼き菓子をこちらへ寄せた。それから、私がようやく落ち着いたのを確かめて、机の上に一通の封書を置いた。
「お兄上からです。無事にお着きになったそうですよ」
私はその封書を受け取り、胸に抱いた。
よかった。
これで、ようやく安心できる。
父が死に、婚約者に捨てられ、ついには自分自身まで死んだことになってしまったけれど、少なくとも兄だけは、あの王宮から遠ざけることができたのだから。
もっとも、これで終わりではなかった。
私を狂女と呼んだ方々には、まだ知っていただかなければならないことがある。
そして何より、私はもう、誰かのために死ぬつもりなどなかった。
*
事の始まりは、三週間ほど前に遡る。
その頃、私、オフィーリア・ポロニウスは、エルシノア王国のハムレット王子と婚約していた。
父ポロニウスは王宮の侍従長を務めており、私たちは王都にある屋敷で暮らしていた。父は毎朝そこから王宮へ出仕し、私は屋敷の庭で花を育てたり、植物についての本を読んだりして過ごすことが多かった。
ハムレット様は、亡き先王の一人息子である。聡明で、学問にも武芸にも秀でておられ、若い頃から王国の将来を担う方として期待されていた。私も幼い頃から彼を慕い、いつか隣に立てることを誇りに思っていた。
けれど、先王が突然亡くなられ、叔父君のクローディアス様が王位を継がれてから、すべてが変わってしまった。
ハムレット様は、先王が病で亡くなられたという説明を信じなかった。叔父君が王位を奪うために毒を盛ったのだと疑い、王宮の誰も信用しなくなり、夜ごと奇妙な独り言を呟くようになったのである。
私は心配だった。
あんなにも穏やかだった方が、いつも何かに怯えるように周囲を見回し、親しい者にさえ心を閉ざしてしまわれたのだから。
けれど、私が何度話しかけても、ハムレット様は冷たい目を向けるばかりだった。
『君も父上に言われて、私の様子を探っているのだろう』
そう言われたときは、胸が潰れるかと思った。
確かに、父は王宮から屋敷へ戻ると、私にハムレット様の様子を尋ねてくることがあった。父は王家に忠実な人間だったが、その忠誠心がときに行き過ぎることも、私は知っていた。
父は私を婚約者としてではなく、王子の心を探るための便利な存在として扱っていたのかもしれない。
それでも、私はハムレット様を裏切ったことなど一度もなかった。
けれど、彼は信じてくださらなかった。
そして、あの夜のことが起きた。
王妃様の居室で、ハムレット様が父を殺してしまったのだ。
王妃様と王子の口論を、壁掛けの裏に隠れて聞いていた父を、ハムレット様はクローディアス王の刺客だと思い込んだらしい。物音がした瞬間、剣を突き立てたのだという。
知らせを受けて王都の屋敷から駆けつけたときには、父はすでに冷たい床に横たわっていた。
ハムレット様は、血のついた剣を握ったまま立っていた。
『……オフィーリア』
彼は私を見て、苦しそうに顔を歪めた。
『すまない。だが、あそこに誰かが隠れているとは思わなかった。私を殺そうとした刺客だと思ったのだ』
私は何も言えなかった。
父のことを、立派な人間だったとは言えない。娘を政治の道具として使おうとしたことも、王宮の権力争いに深く関わっていたことも、知っている。
けれど、それでも父だった。
幼い頃、庭園で花の名前を教えてくれた人だった。私が植物を育てることを好むと知ると、珍しい種を買ってきてくれたこともある。
その父が、もう二度と帰ってこない。
『……ハムレット様』
私は、震える声で尋ねた。
『父は、なぜ殺されなければならなかったのですか』
彼は苦しそうに目を伏せた。
『私にも、守らなければならないものがある』
それが、答えだった。
私はそのとき、初めて理解した。
この方の心には、もう復讐しかないのだと。
そして、復讐のためなら、ほかの誰が傷ついても仕方がないと考えるようになってしまわれたのだと。
*
父の葬儀も終わらないうちに、ハムレット様は私との婚約を破棄された。
王宮から呼び出され、貴族たちが集まる広間へ出向いたときのことだった。
「オフィーリア。君との婚約は、今日限りで解消する」
私は、目を見開いた。
「……どうして、ですか」
「君の父上は、私を陥れようとしていた。君もその企みに関わっていたのではないかという疑いがある」
周囲がざわめいた。
私は信じられなかった。
父を殺したのは、ハムレット様ではないか。それなのに、今度は私が父とともに王子を陥れようとしたことにされるというのか。
「そのようなことは、ございません」
「ならば、これ以上私に近づくな。君の泣き言に付き合っている暇はない」
彼は私を見下ろし、ひどく冷たい声で言った。
「君は少し、気が触れているのではないか。父親の死を受け入れられず、ありもしないことを口にするようになっている」
その瞬間、周囲の視線が変わった。
哀れみと、好奇心と、わずかな恐れ。
父を失って取り乱した娘。
王子に捨てられた狂女。
私は何も言えず、ただ頭を下げて広間を出た。
その夜、王都の屋敷へ戻ると、泣いた。
父を失った悲しみと、好きだった人に捨てられた悲しみと、自分が何もできなかったことへの悔しさが、胸の中で絡み合っていた。
こんなにも苦しいのなら、もう何も考えたくない。
そんなことさえ思った。
けれど、翌朝。
私は、屋敷にある父の書斎で遺品を整理しているうちに、父が遺した植物図鑑の中に、一枚の紙が挟まっているのを見つけた。
それは、王室の温室で育てられている薬草の管理記録だった。
見慣れた父の筆跡で、いくつもの植物の名前が並んでいる。その中に、一つだけ赤い線で囲まれたものがあった。
『夜雫草』
王国の北方に生える、珍しい毒草だった。
適切に扱えば薬になるが、濃い抽出液を大量に服用すれば、心臓の働きを止めてしまうことがある。しかも、その症状は、もともと心臓を患っていた人間が突然亡くなった場合とよく似ているという。
先王は、長らく心臓を患っておられた。
そして亡くなられる数日前、王室温室から夜雫草が運び出されていた。
その記録の下には、クローディアス様の側近の名前が記されていた。
「……まさか」
私は、しばらく動けなかった。
父は、知っていたのだろうか。
先王が毒殺された可能性を。
そして、その証拠を、誰にも見つからないよう植物図鑑の中に隠していたのだろうか。
私は、震える手で頁をめくった。
そこには、さらにいくつもの記録があった。薬草を運び出した日時、担当者の名前、王宮へ届けられた薬湯の記録。
父がなぜこんなものを持っていたのかはわからない。真実を暴こうとしていたのか、それとも、自分の身を守るための切り札として隠していたのか。
けれど、一つだけはっきりしていた。
この記録が本物なら、先王の死には何かが隠されている。
私は、父の書斎に残された資料をもう一度調べ始めた。
そして、そこで思いがけない名前を見つけた。
『エヴァレット公爵ルシアン』
王国の監察卿を務める人物で、王家からも独立した調査権限を持つ、数少ない貴族の一人だった。
父は以前、北方の薬草流通に関する調査で、彼と書簡を交わしていたらしい。しかも、その調査資料の一部は、植物の知識を持つ私が作成したものだった。
私はしばらく考え、それから一通の手紙を書いた。
このまま屋敷にいれば、きっと何も変わらない。
父が死に、婚約を破棄され、狂女と呼ばれたまま、いずれは人々の記憶から消えてしまうだろう。
けれど、本当にそれでよいのだろうか。
私は、まだ生きている。
考えることも、選ぶことも、誰かに伝えることもできる。
父のために悲しみ、ハムレット様を憎み、それでもなお、この国で何が起きたのかを知りたいと思っている。
ならば、その気持ちを、誰かに奪わせる必要はないはずだった。
*
ルシアン様から返事が届いたのは、三日後のことだった。
『お話を伺いたい。できれば、人目につかない場所で』
手紙には、王都の西区にある聖アンナ施療院の薬草園を訪ねてほしいと記されていた。そこは私も以前から何度か足を運んでいた場所で、薬草の手入れを手伝ったこともあった。
出かける前に、私は屋敷の庭園に出た。
その日、庭では春の花が咲き始めていた。ローズマリー、三色すみれ、ヘンルーダ、そして小さな白い雛菊。私はそれらを摘み、花束にまとめた。
ローズマリーは、記憶のため。
三色すみれは、思索のため。
ヘンルーダは、悔恨のため。
父が幼い頃に教えてくれた花の意味を、一つずつ思い出しながら。
庭を歩いていると、侍女たちがひそひそと囁いているのが聞こえた。
「あの方、また花を摘んでいらっしゃるわ」
「お気の毒に。お父様を亡くされてから、すっかり……」
私は聞こえないふりをした。
花を摘んでいるだけで、狂っていると思われるのなら、それでも構わない。今は、誰にも警戒されないことのほうが都合がよかった。
花束を抱えて施療院へ向かうと、薬草園の奥で、一人の青年が待っていた。
黒髪に、淡い灰色の瞳。端正な顔立ちには、静かな知性と、どこか近寄りがたい気品があった。
「オフィーリア・ポロニウス嬢ですね」
「はい」
「ルシアン・エヴァレットです。あなたのお父上とは、以前から仕事で関わりがありました」
彼は私を見つめ、少しだけ表情を和らげた。
「ご不幸のこと、お悔やみ申し上げます」
その言葉を聞いた瞬間、私は胸が詰まった。
父が亡くなってから、王宮では多くの人が私を避けるようになっていた。父の死に触れようとせず、気遣うふりをしながらも、どこか厄介者を見るような目を向けてくる。
けれど、この人は違った。
父が亡くなったことを、きちんと悲しい出来事として受け止めてくれた。
「……ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
それから、持っていた花束を差し出した。
「こちらを、お受け取りいただけますか」
ルシアン様は、少し驚いたように目を瞬かせた。
「花束を?」
「はい。ただ、普通の花束ではございません」
私は、小さく微笑んだ。
「父が遺したものを、隠してあります」
ルシアン様の表情が変わった。
彼は花束を受け取り、周囲を見回したあと、静かに頷いた。
「……なるほど。詳しいお話は、場所を変えて伺いましょう」
そのとき、私は初めて思った。
もしかしたら。
まだ、間に合うのかもしれない。
父が亡くなった理由を知ることも。
ハムレット様が復讐に囚われてしまった理由を知ることも。
そして、私自身の未来を、取り戻すことも。
*
ルシアン様に案内されたのは、施療院の奥にある古い温室だった。
普段は薬草の苗を育てるために使われている場所だというが、人の出入りは少なく、硝子の屋根から差し込む午後の日差しが、ひっそりと茂る草花を照らしている。奥には小さな池があり、その水面には白い睡蓮が浮かんでいた。
ルシアン様は私から受け取った花束を机の上に置くと、茎を束ねていたリボンを慎重にほどいた。その裏には、細く折り畳んだ薄紙が縫い込まれていた。父の帳簿から書き写した薬草の搬出記録である。
「……これは」
彼の顔から、穏やかな表情が消えた。
「先王陛下が亡くなられた前夜、王室温室から夜雫草が運び出されています。私は植物の管理を手伝ったことがありますので、この記録に書かれた量が、通常の薬としては不自然なほど多いことがわかります」
「原本は?」
「父の遺した植物図鑑の中にあります。持ち出せればよかったのですが、私を見張っている者もいるようですので」
ルシアン様は頷き、しばらくその紙を見つめていた。
「あなたのお父上は、この記録をいつから持っておられたのでしょう」
「わかりません。ただ、最後の頁には、亡くなられる数日前の日付が記されていました。父は、何かを調べようとしていたのかもしれません」
「あるいは、何かを隠していたのかもしれませんね」
私は顔を上げた。
彼は、少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「失礼。ですが、正確に調べるためには、どちらの可能性も考えなければなりません」
「……はい。わかっています」
父は、決して清廉潔白な人ではなかった。
権力を好み、王家に取り入ることに熱心で、娘である私の婚約すら、家の利益のために利用していたところがある。もしかすると、先王の死についても、何かを知りながら口を閉ざしていたのかもしれない。
それでも、真実を知りたかった。
たとえ、それが父にとって不名誉なものであっても。
「すべて、調べていただきたいのです」
私は、ルシアン様をまっすぐに見つめた。
「父が何をしていたのかも、先王陛下がなぜ亡くなられたのかも。それから……」
そこで、一度言葉を切った。
「ハムレット様が、父を殺してしまったことについても」
ルシアン様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに頷いた。
「承知しました。ただし、これから先は危険が伴います。あなたがこの件から手を引きたいとおっしゃるなら、私はそれを尊重します」
「……いいえ」
私は首を振った。
「もう、誰かに決めてもらうのは嫌なのです。父がどうするべきだと言ったから、婚約者がこうしてほしいと望んだから、そんな理由で自分の人生を決めるのは、もうやめたいのです」
ルシアン様は、少し驚いたように私を見つめた。
それから、ふっと微笑んだ。
「では、あなたご自身の意志として、お引き受けしましょう」
その言葉を聞いたとき、私は不思議なほど安心した。
この方は、私に何かを押しつけようとはなさらない。
私が何を考え、何を望んでいるのか、きちんと聞いてくださる。
それだけのことが、今の私には何よりもありがたかった。
*
それから数日間、私はルシアン様とともに、父の遺した記録を調べた。
王室の薬草の管理記録と、先王陛下が亡くなられた前後の診療記録。ルシアン様は監察卿として独自の調査を進め、私は屋敷に残された資料を整理しながら、植物の知識を使って、書類に記されている薬草の種類や用途を確認した。
やがて、一つの事実が浮かび上がってきた。
先王陛下が亡くなられた夜、いつもとは異なる薬湯が用意されていたのである。
その調製を命じたのは、当時まだ王弟だったクローディアス様の側近であり、王室の薬師には、通常の処方とは異なる配合が指示されていた。薬師は不審に思いながらも逆らえず、使われた薬草の残りと調製記録を、密かに保管していたという。
ルシアン様がその薬師から証言を得たことで、父の帳簿に記された内容の一部が裏づけられた。
ただ、それだけでは十分ではなかった。
王を告発するには、さらに確かな証拠が必要だった。
そして、私たちが調査を続けていることに、クローディアス王も気づき始めていた。
ある夕方、王都の屋敷に、王宮から使者が訪れた。
『ポロニウス家の令嬢オフィーリアは、父の死による心労が激しく、静養を要するため、郊外の修道院へ移るように』
それが、国王の命令だった。
私は使者の顔を見つめた。
修道院へ行けば、王宮から離れられる。
ハムレット様にも会わずに済むし、誰にも狂女だと囁かれず、静かに暮らせるかもしれない。
けれど、なぜ今なのだろう。
父の死から何週間も経っているというのに。
私は、ルシアン様に相談した。
彼は命令書を読み終えると、静かに顔を上げた。
「……この修道院へ向かうには、北の川を渡らなければなりませんね」
「はい」
「少し、調べてみましょう」
その日の夜、ルシアン様は王都の屋敷へ会いに来られた。
いつも落ち着いている彼が、珍しく険しい顔をしていた。
「オフィーリア。よく聞いてください」
初めて名前だけで呼ばれ、私は思わず顔を上げた。
「修道院へ向かう馬車には、国王の密命を受けた者が乗ることになっています。彼らには、あなたを無事に送り届けるつもりがないようです」
私は、しばらく何も言えなかった。
やがて、理解した。
川。
修道院へ向かう馬車。
父を失い、婚約を破棄され、気が触れたと噂されている娘。
そんな娘が川に落ちて亡くなったとしても、人々は疑わないだろう。
むしろ、悲しい結末だったと納得するかもしれない。
「……私を、殺すつもりなのですね」
ルシアン様は、静かに頷いた。
不思議なことに、私は泣かなかった。
ただ、胸の奥が、ひどく冷たくなった。
どうして。
私は、何も悪いことをしていないのに。
父が亡くなったことを悲しみ、婚約を破棄されたことを嘆き、それでも生きていこうとしているだけなのに。
どうして、そんな私が死ななければならないのだろう。
ルシアン様は、私の顔を見つめていた。
「私の屋敷へ避難してください。監察府の権限で、身柄を保護することもできます」
私は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりと首を振った。
「……逃げるだけでは、いけないと思うのです」
「オフィーリア」
「私がここからいなくなれば、今度は兄が疑われるかもしれません。兄は父の死を知って、すでに王都へ戻ろうとしています。ハムレット様を恨んでいるでしょうし、クローディアス王に利用されてしまうかもしれません」
ルシアン様は黙って聞いていた。
「私は、兄まで失いたくありません。それに、私を殺そうとした者が何の罪にも問われず、そのまま王位にいるなんて、納得できません」
彼は、しばらく考えた。
「……では、どうなさりたいのですか」
私は、彼を見つめた。
「私が死んだことに、していただけませんか」
ルシアン様は目を見開いた。
「……どういうことでしょうか」
「クローディアス王は、私が死んだと思えば、もう警戒しないでしょう。そのあいだに、必要な証拠を揃えるのです」
口にしてから、ずいぶん大胆なことを言ったものだと思った。
けれど、ほかに方法が思いつかなかった。
「もちろん、兄には知らせます。私が生きていることを。兄を危険な決闘へ向かわせるつもりはありません」
ルシアン様は長いあいだ黙っていた。
やがて、深く息をついた。
「……あなたは、思っていたよりもずっと強い方ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。ただし、川に入るような危険な真似はさせません。あなたを守れなければ、この計画に意味はありませんから」
彼は、そう言って微笑んだ。
「その条件でよろしければ、私も協力しましょう」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
彼は、少しだけ困ったように笑った。
「どうか、無事でいてください。それが、何よりのお願いです」
その言葉を聞いたとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
*
計画は、思っていた以上に上手く進んだ。
修道院へ向かう馬車は、予定どおり王都の屋敷を出発した。けれど、川にかかる橋へ到着する前に、監察府の者たちが密かに動き、私を殺すために送り込まれた護衛たちを拘束したのである。
捕らえられた護衛の一人は、国王からの密命を認め、証言することを条件に身の安全を保証された。そして、監察府の指示どおり、王宮へ報告を送った。
『オフィーリア・ポロニウスは、川へ転落し、行方不明となりました』
人々は、すぐに噂し始めた。
父の死を悲しみ、婚約者に捨てられた哀れな娘。
気が触れた末に、川へ身を投げたのだと。
私の名誉を傷つけた噂は、死後もなお、私の意思とは関係なく広まっていった。
けれど、それでよかった。
今は、そう思わせておく必要があった。
私はルシアン様の別邸に身を隠し、彼の協力を得ながら、残された証拠を調べ続けた。
兄レアティーズには密かに手紙を送り、王都へ戻る前に監察府の保護を受けてもらった。兄は最初、私が本当に生きていることを信じられなかったらしいが、幼い頃に二人だけで決めた秘密の言葉を読んで、ようやく納得してくれたという。
そして、ついに。
私たちは、クローディアス王が先王の死に関わっていたことを示す、複数の証拠を揃えることができた。
王室温室の原本の帳簿。
薬師の証言。
保管されていた薬湯の残りと、その調製記録。
そして、王妃様が、先王の死の前夜にクローディアス様の側近が薬湯を運んでいたと証言してくださったのである。
王家の不正を審査する権限を持つ大審院は、ルシアン様の申立てを受け、正式な調査を開始することになった。
私が死んだことになってから、二週間後のことだった。
*
大審院が開かれた日、私は久しぶりに王宮へ戻った。
広間には、国の重臣たちが集まっていた。
中央にはクローディアス王が座り、その傍らにハムレット様が立っている。
私は、ルシアン様とともに扉の前で足を止めた。
「……緊張していますか」
彼が、小さな声で尋ねた。
「はい。とても」
正直に答えると、ルシアン様は少し微笑んだ。
「大丈夫です。あなたは、これまで十分に準備してきました」
その言葉に、私は頷いた。
扉が開かれる。
私が広間へ足を踏み入れた瞬間、周囲がざわめいた。
「……オフィーリア?」
ハムレット様が、信じられないというように目を見開いた。
私は、静かに一礼した。
「お久しぶりでございます、殿下」
「君は……死んだのでは……」
「そのように聞いておられたのですね」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「ですが、ご覧のとおり、私は生きております」
クローディアス王の顔色が変わった。
「馬鹿な……!」
その小さな呟きを、私は聞き逃さなかった。
ルシアン様が前へ進み、王国の大審院へ正式な告発状を提出した。
そこから先は、長い時間をかけて揃えた証拠が、私たちに代わって語ってくれた。
先王の死の前夜に運び出された毒草。
薬師に命じられた不自然な調製。
父が残した帳簿。
そして、私を殺そうとした護衛の証言。
クローディアス王は、最初はすべてを否定した。
けれど、証拠が一つずつ示されるにつれ、その声は次第に弱くなっていった。
やがて王妃様が立ち上がり、先王の死について自分が見聞きしたことを証言すると、広間は静まり返った。
長い審理の末、クローディアス王による先王殺害の企てが認定され、王権は停止された。彼は監察府の管理下に置かれ、王位は王国の評議会によって正式に剥奪されることになった。
そして、ハムレット様にも、父を殺した責任が問われた。
彼はその事実を否定しなかった。
けれど、父を誤って殺してしまったことと、その後に私を狂女と呼び、婚約を破棄し、自らの罪を隠そうとしたことは、別の問題だった。
大審院は、ハムレット様の王位継承権を停止し、父の死について正式な裁きを受けるまで、王宮の外で監督下に置くことを決めた。
すべてが終わったとき、私はようやく息をついた。
ハムレット様が、私を見つめていた。
「……オフィーリア」
その声には、かつての優しさが少しだけ戻っていた。
「すまなかった」
私は、何も言わなかった。
「君を、守るべきだった。君の父上を殺してしまったことも、君を傷つけたことも、すべて……」
彼は、言葉を詰まらせた。
「私は、間違っていた」
その姿を見て、私は少しだけ悲しくなった。
幼い頃から、ずっと好きだった人だった。
優しくて、聡明で、誰よりも立派な王になるのだと信じていた。
けれど、彼は復讐に囚われ、周囲の人々を傷つけてしまった。
そして、そのことに気づいたときには、もう多くのものが失われていた。
「……殿下」
私は、静かに口を開いた。
「私、あなたのことが好きでした」
ハムレット様が顔を上げた。
「ずっと、好きでした。ですから、あなたが苦しんでいらっしゃるとき、何かできることはないかと考えていました。でも……」
私は、一度だけ息を吸った。
「父が亡くなったとき、私も悲しかったのです。あなたと同じように、大切な人を失って、苦しかったのです」
彼は、何も言わなかった。
「なのに、あなたは私に、悲しむことさえ許してくださいませんでした」
もう涙がこぼれることはなかった。
「私は、もうあなたのために生きることはできません」
ハムレット様の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「……オフィーリア」
私は、深く頭を下げた。
「どうか、お元気で」
それだけ告げて、背を向けた。
もう、振り返らなかった。
*
王宮を出たとき、空には春の雲が浮かんでいた。
私は、しばらくその景色を眺めていた。
何もかも、終わった。
父の死についても、先王の死についても、ようやく真実が明らかになった。
兄は無事に王都を離れ、領地へ戻ることになっている。父の遺した仕事を引き継ぐつもりはないそうで、以前から学びたがっていた法学を、改めて勉強するのだと手紙に書いてあった。
私も、これからどう生きていくのかを考えなければならない。
婚約はなくなった。
父もいない。
王宮に戻る理由も、もうない。
けれど、不思議なことに、心は晴れやかだった。
何も決まっていない未来が、こんなにも自由に思える日が来るとは思わなかった。
「オフィーリア」
声がして振り向くと、ルシアン様が立っていた。
いつもの穏やかな表情だったが、その目には、どこか安堵したような色が浮かんでいた。
「お疲れ様でした」
「……ありがとうございます」
彼は、私を見つめていた。
「これから、どうなさるおつもりですか」
私は、少し考えた。
「……まだ、決めていません。ただ、植物のことをもっと勉強したいと思っています」
「植物を?」
「はい。父は私にいろいろなことを教えてくれましたけれど、私はまだ、知らないことばかりです。いつか、自分で植物の図鑑を作ってみたいんです」
ルシアン様は、少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「それは、素晴らしいですね」
私は、思わず笑った。
「……本当に、そう思われますか」
「もちろんです。あなたが調べた植物の知識は、今回の事件でも大きな役割を果たしました。学問として続ける価値は、十分にあると思います」
彼は、少し考えるように視線を落とした。
「実は、私の領地には、王国でも有数の薬草園があるのです」
「……薬草園、ですか?」
「ええ。まだ整備が行き届いていないところもありますが、珍しい植物が多く、研究の余地もあるでしょう。もしご興味があれば、研究員としてお招きしたいと思っています」
私は、思わず身を乗り出した。
「本当ですか!」
ルシアン様は、声を立てて笑った。
「ええ。ただし、これは正式なお仕事としての提案です。条件や報酬については、きちんと書面にまとめますので、十分に検討してからお返事をいただければ」
その言葉を聞いて、胸が温かくなった。
この方は、いつもそうだった。
私の望みを聞き、私が自分で選べるようにしてくださる。
そして、その選択を尊重してくださる。
「……ありがとうございます」
私がそう言うと、ルシアン様は、少しだけ困ったように笑った。
「ただ……」
「はい?」
「もう一つ、個人的なお願いがあるのです」
その声が、いつもより少しだけ低く聞こえた。
「今度、私と一緒にお茶を飲んでいただけませんか」
私は、目を瞬かせた。
「……お茶、ですか?」
「ええ。仕事の話ではなく、ただ、あなたとお話をしたいと思いまして」
ルシアン様は、少しだけ頬を赤くしていた。
その姿を見た瞬間、私の胸が大きく跳ねた。
「……はい」
声が、少し震えた。
「喜んで」
彼は、心から嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、私は思った。
この人のことを、もっと知りたい。
研究の話だけではなく、好きな食べ物も、子どもの頃のことも、どんな景色を美しいと思うのかも。
そういうことを、少しずつ知っていきたい。
*
それから三か月後。
私は、エヴァレット公爵領の薬草園で働いていた。
広い庭園には、王都では見られない珍しい植物が数多く育てられており、毎日が驚きと発見の連続だった。薬草の栽培だけでなく、土壌の性質や水の流れによって植物の育ち方がどのように変わるのかを調べる仕事もあり、私は夢中になって研究を続けていた。
ルシアン様は、ときおり様子を見に来てくださった。
最初は研究の進み具合を尋ねるだけだったが、やがて二人で庭を散歩したり、図書室で本を読んだりするようになった。
彼は、思っていた以上に優しい人だった。
けれど、ただ優しいだけではなかった。
仕事に関しては厳しく、研究の内容についても遠慮なく質問してくる。私が曖昧な説明をすれば、納得できるまで問い返されるし、計算を間違えれば、きちんと指摘される。
それでも、私はそんな時間が好きだった。
誰かの顔色を窺いながら話すのではなく、自分の考えをそのまま口にできる。
間違っていれば、間違っていると教えてもらえる。
それが、こんなにも楽しいことだとは思わなかった。
ある日の午後、私は庭園の小さな池のほとりで、植物の観察記録をつけていた。
春の終わりを告げるように、白い花が水面に浮かんでいる。
その景色を眺めていると、背後から声がした。
「オフィーリア」
振り向くと、ルシアン様が立っていた。
今日は仕事を終えたばかりらしく、いつもの礼服ではなく、簡素な上着を身につけている。
「何を調べているのですか」
「水辺に生える植物です。川の近くでは、同じ種類でも少しずつ形が違うことがあるんです」
「なるほど。それは興味深い」
ルシアン様は、私の隣へ腰を下ろした。
しばらく二人で水面を眺めていたが、やがて彼が口を開いた。
「……オフィーリア」
「はい」
「一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか」
私は、彼を見つめた。
「何でしょう?」
ルシアン様は、少し考えるように目を伏せた。
それから、私の手をそっと取った。
「私は、あなたのことが好きです」
心臓が、大きく跳ねた。
彼は、まっすぐに私を見つめていた。
「最初は、あなたの勇気と知性に惹かれました。けれど、こうして一緒に過ごすうちに、もっと多くのことを知りました。植物の話をしているときの楽しそうな顔も、難しいことを考えているときの真剣な眼差しも、時折見せる、少し意地っ張りなところも」
私は、頬が熱くなるのを感じた。
「そういうあなたを、私はとても愛おしく思っています」
ルシアン様は、少しだけ微笑んだ。
「もし、あなたが望んでくださるのなら、これから先の人生を、ともに歩んでいきたいのです」
私は、しばらく何も言えなかった。
嬉しかった。
胸が苦しくなるほど、嬉しかった。
けれど、同時に怖くもあった。
「……私、研究を続けたいんです」
ようやく、それだけ言った。
「もちろんです」
「これからも、知らないことを調べたいですし、いつか本を出してみたいと思っています。公爵夫人としてのお務めがあるのなら、きっと大変でしょうし……」
ルシアン様は、静かに頷いた。
「確かに、公爵夫人にはそれなりの役割があります。ですが、あなたが研究をやめなければならない理由にはなりません」
彼は、私の手を握り直した。
「私が好きなのは、自分の好きなことを大切にしているあなたです。あなたの夢を奪ってまで、私の隣にいてほしいとは思いません」
その言葉に、涙が溢れそうになった。
「……本当に、よろしいのですか」
「ええ」
彼は、少しだけ笑った。
「それに、あなたの研究は私にとっても興味深いものですから。これから先、いろいろな話を聞かせていただきたいと思っています」
私は、思わず笑ってしまった。
この方らしい。
いつも私の話を、最後まで聞いてくださる。
知らないことを知りたいという気持ちを、私と同じように大切にしてくださる。
「……私も」
声が震えた。
「私も、ルシアン様と一緒にいたいです」
彼は、少し驚いたように目を見開いた。
それから、心から嬉しそうに微笑んだ。
「……よかった」
その声には、驚くほど率直な安堵が滲んでいた。
私は、胸が温かくなるのを感じた。
ルシアン様は、私の手をそっと持ち上げ、その甲に優しく口づけた。
水面には、白い花が静かに浮かんでいた。
かつて、私はこの川に沈むはずだった。
父を失い、婚約者に捨てられ、狂女と呼ばれたまま、誰にも理解されずに消えていくはずだった。
けれど、私は生きている。
自分の意志で考え、選び、歩いている。
そして今、私の隣には、私をそのまま愛してくれる人がいる。
私は、ルシアン様を見上げた。
「……ルシアン様」
「はい」
「私、これからもたくさんの花を育てたいです」
「ええ」
「それから、いろいろな場所へ行って、まだ見たことのない植物を見つけたいです」
「それも、楽しそうですね」
「でも……」
私は、少しだけ照れくさくなった。
「これからは、ルシアン様と一緒に見たいです」
彼は、しばらく私を見つめていた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……では、約束しましょう」
彼は、私の手を優しく握った。
「これから先、どんな景色を見つけても、できるだけ一緒に見に行きましょう」
私は頷いた。
春の風が、水面を揺らした。
白い花が、ゆっくりと流れていく。
かつて、私は誰かの物語の中でしか生きられなかった。
父の期待に応え、婚約者の望む女性になろうとして、自分自身の気持ちをいつも後回しにしていた。
けれど、もう違う。
私は、私の人生を生きていく。
誰かの悲劇に巻き込まれたまま、川に沈むつもりなどない。
だって、まだ知らないことが、こんなにもたくさんあるのだから。
そして、そのすべてを。
今度は、大切な人と一緒に見つけていきたいと思うのだ。




