第9話 焦燥の一手
帝都滞在五日目。
王国使節団の宿舎は、重苦しい空気に包まれていた。
「帝国は動かぬ。譲歩もしない」
重臣が低く告げる。
「このままでは王国は……」
言葉を飲み込む。
レオンハルトは机を叩いた。
「ならば別の道を取る」
その目には、焦りと執着が混ざっている。
「リュシエンヌを説得する」
重臣が息を呑む。
「殿下、それは外交問題に」
「構わぬ」
即断。
「彼女は王国の人間だ」
その言葉は、未練に満ちている。
その夜。
帝国宮殿の回廊。
人気のない庭園へ続く道。
リュシエンヌは、ひとり歩いていた。
背後から足音。
「……待て」
振り向く。
レオンハルト。
王子の顔は、以前の自信に満ちたものではない。
疲労と焦燥が滲んでいる。
「このような形で申し訳ない」
声が低い。
だが必死だ。
「貴女が必要だ」
リュシエンヌは静かに見つめる。
「王国が、ではなく?」
一瞬、言葉が詰まる。
「……私が」
本音。
「私は、誤った」
一歩、近づく。
「貴女を信じるべきだった」
その手が、彼女の腕に触れる。
今度は明確に。
「戻ってくれ」
強く。
必死に。
「共に王国を立て直そう」
その声は、切実だ。
だが。
「殿下」
静かな声。
「それは、後悔でございます」
王子の手が震える。
「違う」
「違いません」
彼女の瞳は、揺れない。
「必要とされる場所を、わたくしは選びました」
そのとき。
重い足音が響く。
夜の闇から現れたのは、カイゼル。
無言で立つ。
だがその存在だけで空気が変わる。
「……夜の散歩にしては、騒がしいな」
低い声。
王子の手が、彼女の腕から離れない。
カイゼルの瞳が氷のように冷える。
「手を離せ」
命令。
王子は睨む。
「彼女は王国の人間だ」
「違う」
即答。
一歩、近づく。
「彼女は選んだ」
王子の拳が震える。
「リュシエンヌ、貴女は——」
その瞬間。
彼女が自ら、王子の手を外す。
ゆっくりと。
迷いなく。
「わたくしは帝国の統括官です」
決定的な言葉。
王子の顔色が変わる。
「……あの男を選ぶのか」
沈黙。
リュシエンヌは、カイゼルの方を見る。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、心が揺れる。
だが。
「わたくしが選んだのは」
静かな声。
「未来でございます」
王子の手が落ちる。
完全な拒絶。
そのとき。
カイゼルが彼女の肩に手を置く。
今度は、明確に。
公然と。
「貴国の王子よ」
冷たい声。
「次に無断で接触すれば、外交問題とみなす」
王子は言葉を失う。
彼は気づく。
もう取り戻せない。
焦燥の一手は、失敗した。
三人の距離は、はっきりと分かれた。
そして。
カイゼルの手が、わずかに強くなる。
理ではない。
感情。
夜風が重く流れる。
盤は、いよいよ終盤へ。




