第8話 越えぬ一線
夜は深い。
帝都の灯りが、遠くに滲んでいる。
高楼の執務室には、二人だけ。
カイゼルの指はまだ、リュシエンヌの手首を掴んでいる。
強くはない。
だが、離す気もない。
「乱せ、と申しましたが」
彼女はかすかに笑う。
「本当に乱されるとは思っておりませんでした」
「私は警告した」
低い声。
「盤を壊すこともできると」
距離が、さらに縮まる。
彼の吐息が頬に触れる。
理性が、薄くなる。
「今、壊すか」
その問いは静かだ。
だが本気だ。
リュシエンヌの心臓が強く打つ。
これは試しではない。
選択。
皇帝がここで理を捨てれば、
彼女の計画は一瞬で崩れる。
だが——
それを、恐れていない自分がいる。
「……壊せば」
彼女は囁く。
「帝国の利益を損ないます」
合理の盾。
だが声が、わずかに熱い。
カイゼルは彼女の頬に指先を滑らせる。
優しく。
危うく。
「今は、皇帝ではない」
銀の瞳が近い。
「一人の男だ」
その言葉は重い。
彼は本気で、理を外そうとしている。
リュシエンヌの思考が、一瞬だけ空白になる。
計算が追いつかない。
「……後悔なさいます」
「しない」
即答。
指先が彼女の顎を持ち上げる。
唇と唇の距離が、あとわずか。
心音が重なる。
触れれば、盤は変わる。
計画は、対等ではなくなる。
彼女は息を吸う。
そして。
その胸元に、そっと手を当てる。
押し返すわけではない。
ただ、止める。
「カイゼル」
名を呼ぶ。
柔らかく。
「共犯でございましょう」
その一言が、理を戻す。
沈黙。
数秒。
彼の瞳に、葛藤が走る。
そして、ゆっくりと指が離れる。
「……狡い女だ」
低く呟く。
「理で止めるか」
「理でなければ、止められません」
彼女の胸も、まだ高鳴っている。
だが崩れない。
崩さない。
カイゼルは一歩引く。
呼吸を整える。
「次に越えるときは」
低い声。
「理では止まらぬ」
宣告のような言葉。
リュシエンヌの唇がわずかに震える。
恐れではない。
期待でもない。
——熱。
盤はまだ保たれている。
だが、境界線は薄くなった。
その頃。
王子は焦燥に駆られ、
帝国滞在を延長していた。
三人の距離は、
もう後戻りできない場所へ近づいている。




