第1話 涙の理由
王立舞踏会の夜は、甘い香りに満ちていた。
金色の燭台が揺れ、
絹のドレスが擦れる音が重なり、
笑い声が天井画へと吸い込まれていく。
その中央に、リュシエンヌ・ヴァレリアは立っていた。
公爵家の長女。
第一王子の婚約者。
本来であれば、今夜は祝福の日。
未来の王妃として、正式に認められるはずの夜だった。
「リュシエンヌ・ヴァレリア」
突然、楽団の音が止まる。
階段の上から、第一王子レオンハルトが彼女を見下ろしていた。
その目には、怒りと失望が宿っている。
「貴様との婚約を、ここに破棄する」
ざわめきが走る。
扇が落ち、杯が揺れる。
リュシエンヌは一瞬だけ目を伏せ、
そしてゆっくりと顔を上げた。
「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
声は震えている。
完璧に。
「貴様は王家の名を利用し、商会と癒着し、国庫を私物化している! さらに隣国との密書も発見された!」
非難の声が上がる。
「裏切り者だ」
「なんという女だ」
レオンハルトの隣には、白いドレスの令嬢が立っていた。
新たな婚約者候補。
哀れみの視線を向けている。
リュシエンヌは、唇を噛む。
瞳に涙が滲む。
「……そのようなこと、ございません」
かすかに揺れる声。
完璧な被告人。
「証言も揃っている!」
侍女が前へ押し出される。
震える体。
下げられた視線。
「すべて、事実でございます……」
広間にため息が広がる。
終わった。
そう誰もが思った。
リュシエンヌは、肩を落とす。
細い指が、ドレスの裾を握る。
「……わかりました」
涙が一筋、頬を伝う。
「婚約破棄を、お受けいたします」
勝ち誇った空気が広がる。
レオンハルトは高らかに宣言する。
「王国は、正義を選ぶ!」
歓声。
拍手。
リュシエンヌは一礼する。
「どうか、王国が末永く安泰でありますように」
静かな祈り。
そのまま、ゆっくりと踵を返す。
誰も気づかない。
その瞬間。
涙が、止まったことに。
表情が、凪いだことに。
扉が閉まる。
廊下の静寂。
リュシエンヌはハンカチで頬を拭う。
そこに、涙はもうない。
「……第一段階、終了」
小さく、呟く。
窓の外では、夜風が城壁を撫でている。
王国の歯車は、もう動き始めている。
断罪は、終わった。
いや。
始まったのだ。
そして彼女は、静かに微笑んだ。




