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冤罪追放令嬢、義兄の結界は逃げ道ゼロの溺愛でした  作者: 風谷 華


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22/22

最終話 森のプロポーズ

公爵家の門は、いつも通り整然としていた。

剪定された蔦、磨かれた敷石、噴水の水音――感情が入り込む余白がない。


それでも、今朝は少し違って見えた。

冬の終わりの光が、石の角をほんのわずかに鈍らせていたからかもしれない。あるいは、クロエの中で、何かが“終わった”からかもしれない。


「……本当に行くのか」


隣で、セドリックが淡々と確認する。

淡々としているのに、声の底に硬いものがある。結界を張る前の、あの癖みたいな警戒。


クロエは頷いた。


「うん。今日、行く」


「危険は消えていない」


「分かってる」

「でも、もう一度あの森に行ってみたいの」


分かっている。だからこそ、行く。

あの夜――森に捨てられて、土と葉と冷気に包まれて、世界の輪郭が溶けていった場所へ。


クロエの足元を、黒い影が横切る。

ジオが、尻尾を一度だけ揺らし、玄関の先へ進んだ。


「……ジオが先導するのか」


セドリックが眉を寄せる。

その顔に、ほんの僅かな戸惑いが混じるのが、クロエはおかしかった。


「いつも、こう」


「ジオはいつもクロエを導いてるんだな」




「護衛は?」


「いらない。……お兄様がいるから」


言ってから、自分の胸が跳ねた。

言えるようになったことが、少し嬉しかった。


セドリックは、瞬き一つ分だけ沈黙して、短く頷いた。


「なら、行こう」


外套の重みが肩に落ちる。

それは檻の重さではない。寒さを防ぐための、現実的な布の重みだ。

クロエは玄関を出て、門をくぐる。整いすぎた世界から一歩だけ外へ。


——森の匂いが、まだ遠いのに鼻の奥に蘇る。


道中、セドリックは必要以上に言葉を発しなかった。

その沈黙は、昔の冷たさとは違う。

昔は“壁”だった。今は“待つ”沈黙だ。


クロエはふと思い出す。

子どもの頃、廊下でセドリックの背中を追った日々。

「お兄様」と呼べば、振り返ってくれると思っていた。

笑ってくれると思っていた。


でもセドリックは、いつも僅かに距離を取った。

目を逸らした。

冷たくした。

正しさの仮面を被って、触れさせないようにした。


——辛かった。

あれは、檻だった。

結界よりも、ずっと見えない檻。


森の境界が見えてくる。

空気の温度が、すっと変わる。

土の湿り気が濃くなり、枯れ葉の匂いが混ざる。


ジオが振り向かずに歩いていく。

迷いのない背中。

クロエの胸の奥で、言葉にならない“意味”が立ち上がる。


(ここまで)


クロエは、そこで足を止めた。


ここから先は、あの夜の続きだ。

命の輪郭が剥がれ落ちかけた場所。

息をしているのかすら分からなくなった場所。


セドリックがクロエの横で立ち止まる。


クロエは頷き、森へ一歩踏み込んだ。


土が柔らかい。

靴底が沈む。

葉擦れが耳に触れる。

空気の匂いが胸の奥に入り込み、体が「生きている」と反応する。


——森は音を伝えてくれる。


あの夜、森は音を吸収してくれた。

今は、音を届けてくれる。


ジオが、少し先の空き地へ向かう。

クロエはその後ろを追い、セドリックは半歩後ろを歩く。

追い越さない。

前に出ない。

それが彼なりの「隣にいる」だと、クロエは分かる。


空き地に出た瞬間、光が落ちた。

枝の隙間から、薄い陽が差し、地面に模様を描く。

そこは、クロエの記憶の中の“境界”と同じ場所だった。


——ここで、私は溶けかけた。


喉が詰まる。

泣きたいわけではない。

体が勝手に、あの夜の冷気を思い出すだけだ。


ジオが草の上に座った。

尻尾を一度、ゆっくり揺らす。


クロエの中で、意味がはっきり形になる。


『ここでいい』


セドリックが周囲を見回した。


「……妙だな」


その声に、警戒が混じる。

けれど、剣に手は伸びない。

“恐怖で支配する”癖を、彼が押し殺しているのが分かる。


「動物が……」


気づいたのだろう。

茂みの影に、鹿の気配。

枝の上に、鳥が止まっている。

少し離れた木の根元に、リスが顔を出したまま逃げない。

遠くの草むらが揺れ、狐か野犬の気配が一瞬だけ覗いて消える。


野生のはずなのに、逃げない。

見守るように、距離を取って集まっている。


セドリックには声が聞こえない。

ジオの言葉も、鳥の囁きも、鹿の慎重な呼吸も。

ただ、現象として“不自然なほどの静けさ”と“集まり”が見えるだけだ。


クロエには分かる。

彼らが、ここに“祝福”を持ってきたことが。


『あなた、戻ってきた』

『自分の足で』

『よく、やった』


声ではない。

けれど、確かに伝わる。


クロエは息を整えた。

この場所で、終わらせないために。


セドリックが、クロエの名前を呼ぶ。


「クロエ」


呼び方が柔らかい。


クロエが振り向くと、セドリックは一瞬だけ目を伏せた。

それは迷いを捨てるための動作みたいだった。


「……俺は、クロエを守るために、檻を作った」


クロエの胸が、ずきりと鳴る。

謝罪が欲しかったわけじゃない。

でも、言葉にされると、痛みが輪郭を持つ。


「檻を作れば、刃が届かないと思った」


セドリックの声は低い。

感情を抑えた声。

けれど抑えているぶん、嘘が混ざらない。


「実際、届かなくなった。

 ……ただ、その代わりに、君の息が苦しくなった」


クロエの喉が熱くなる。

あの離れの窓。

外に見える木々。

聞こえる風音。

行けない自然。

優しさの形をした監禁。


——苦しかった。

生きるために必要だったのに、自由が死んだ。


セドリックが一歩近づき、そこで止まった。

触れない距離。

踏み込みすぎない距離。


「俺が欲しかったのは、君の“生”だ。

 だが俺は、“生きるための自由”まで奪った」


その言葉の重さに、森の空気が静かに沈んだ気がした。


セドリックは、膝をついた。


土が外套を汚す。

屋敷では決して許されない、汚れ。

それが、クロエにはひどく誠実に見えた。


「クロエに、頼みたい」


「俺は、クロエの帰る場所になりたい」


セドリックの喉が震えた。

感情を押し殺した声が、ほんの少しだけ揺れた。


「クロエが望む距離で、隣にいる。

 クロエが怖いと言ったら止まる。

 クロエが離れたいと言ったら離れる。

 ……もし、クロエが選んでくれるなら」


セドリックは息を吸い、はっきり言った。


「俺は、クロエと生きたい」


クロエの胸の奥で、ずっと封じていたものが、音を立ててほどけた。


——お兄様のこと、本当はずっと好きだった。


最初から。

公爵家の冷たい廊下で、初めて彼が連れて来られた日から。


両親を事故で失って、世界の音が消えたような目をしていた少年。

公爵家の、整いすぎた世界に、ひとつだけ“欠け”として立っていた少年。


クロエはその欠けが、怖くて、放っておけなかった。


「……私ね」


クロエは自分の声が震えないよう、ゆっくり言葉を選んだ。


「お兄様のこと、ずっと好きだった」


セドリックの瞳が揺れる。

剣先がわずかにぶれるみたいに。


クロエは続ける。


「子どもの頃から。

 あなたが廊下を歩く背中を見るたび、勝手に嬉しかった。

 この家の中で、あなたの周りだけ、少しだけ温度がある気がして」


息が白くなる。

けれど胸は、熱い。


「でも、我慢してた」


クロエは苦笑した。


「だって私は公爵家の娘で、あなたはこの家の甥で。

 世界は噂で人を格付けして、壊すから。

 ……好きなんて言ったら、私だけじゃなくて、あなたまで壊されるって思った」


森の奥で、枝が一度鳴った。

鳥が短く鳴き、鹿が蹄を軽く鳴らした。

祝福の合図みたいに。



『言っていい』

『もう、言っていい』

『ああ、俺たちまで、緊張してきた』

『頑張れ!クロエ!』


クロエは目を逸らさず、言った。


「冷たくされて、辛かった」


その一言で、胸の奥の痛みが、やっと呼吸を始める。


「嫌われたんだって思った。

 いらないなら最初から優しくしないでって、何度も思った。

 ……でも、それでも、嫌いになれなかった」


クロエは息を吐く。

吐いた息が白くほどけて、森に溶ける。


「好きだった。ずっと。

 だから我慢してた。

 我慢して、傷ついて、それでも……あなたのことを、好きだったの」


セドリックの喉が動いた。

言葉を探している。

けれど、言い訳は出てこない。


彼は、ただ言った。


「……すまない」


それは軽い謝罪じゃない。

生涯かけて背負うと決めた人間の声だった。


クロエは首を振った。


「謝ってほしいわけじゃない」


違う。

欲しいのは、二度と同じ形で傷つかないための“境界線”だ。


「約束して」


クロエは言う。

泣かない。怒鳴らない。

自分の輪郭を、言葉で作る。


「もう、“守る”の名前で私を閉じ込めないで。

 怖いって言ったら、止まって。

 私が選ぶのを待って」


セドリックは即答した。


「……誓う」


その言葉は、王太子の“誓約支配”とは正反対だった。

縛る誓いではない。

逃げ道を残す誓い。

対等になるための誓い。


クロエは、ほんの少し笑った。


「じゃあ……受け入れる」


セドリックの目が見開かれる。

信じられないものを見るように。


「本当に?」


「本当に」


クロエは頷いた。


「私は相変わらず臆病なの。

 でも、怖いままでも……セドリックと生きたい」


言い切った瞬間、森がざわめいた。


鳥が一斉に飛び立つ。

枝が揺れ、葉が鳴り、風が抜ける。

鹿が一歩だけ前に出て、静かにこちらを見た。

リスが木の根元を走り、狐の影が遠くで尾を揺らす。


誰も近づかない。

けれど確かに、“見届けている”。


祝福だ。

派手な光も、王城の拍手もいらない。

森の生き物たちが、ただ『よくやった』と言っている。


セドリックは周囲を見回し、戸惑ったように呟く。


「……何だ、これは」


「みんなが祝福してくれてるみたい」


ジオが、すっと二人の間に座った。

黒い背中が、ちょうど“境界線”みたいに置かれる。


クロエはその意味が分かって、喉の奥が熱くなる。


『絶対に、クロエを幸せにしろ』


ジオは一秒だけ二人を見上げ――次の瞬間、興味なさそうに草の上へ移動して丸くなった。

許可を出したみたいに。


クロエは、セドリックに手を伸ばす。

触れる直前で、昔の癖が邪魔をして止まる。

触れたら、また檻に戻る気がする。


でもセドリックが先に手を差し出した。

クロエの前に、そっと。


クロエは、その手をしっかりと握った。


指先が温かい。

温かいのに、熱で押し潰してこない。

それが、何より安心だった。


セドリックが、低く言った。


「……屋敷へ帰ろう」


クロエは頷く。


「うん。帰ろう」


森の“境界”を越えて、今度は自分の足で戻る。

誰かに回収されるのではなく。

檻に押し込まれるのでもなく。


帰り道、動物たちは少しずつ散っていった。

鳥は枝へ戻り、鹿は森の奥へ消え、リスは木の上へ駆け上がる。

最後まで残ったのは、ジオだった。


黒猫ジオは前を歩き、時々だけ振り向く。

クロエだけが分かる小さな確認。


『おめでとう、クロエ』


公爵家の門が見えてくる。

相変わらず整いすぎた石畳が並び、剪定された蔦は青々とし、噴水の水音がキラキラと輝いていた。


けれど、もう“余白がない”とは思わなかった。

余白は、自分で作れる。

自分の輪郭を守る境界線を、言葉で、選択で、積み重ねていけばいい。


玄関前でセドリックが立ち止まる。

懐から、小さな鍵を取り出した。


「離れの鍵だ」


クロエの胸が、きゅっと縮む。

檻の象徴。

息が苦しくなった場所。


セドリックは言った。


「……返す。

 あれは、俺が握っていいものじゃない」


クロエは鍵を受け取った。

冷たい金属が、手のひらに乗る。


そしてクロエは、その鍵を握りしめたまま言った。


「これはね」


セドリックを見る。

逃げない。逸らさない。


「檻の鍵じゃない。

 私が“帰る”って決めたときに使う、家の鍵にする」


セドリックの目が、僅かに揺れた。

その揺れは、救われた人間の揺れだった。


「……いいのか」


「いい」


クロエは頷く。


「条件、忘れないでね」


セドリックは小さく息を吐き、初めてほんのわずかに笑った。


「ああ。忘れない」


足元でジオが「にゃ」と鳴いた。

ただの猫の声。

でもクロエには、ちゃんと意味が分かる。


『契約成立』


クロエは笑って、ジオの頭を撫でた。

セドリックはそれを見て、少しだけ不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。


門の向こう、朝の光が差し込む。

整いすぎた世界の中に、今度はちゃんと温度がある。


クロエは思う。


——囲いは、支配にもなる。

でも、“帰れる場所”にもできる。


それを決めるのは、誰かのギフトでも、世論でもない。

自分の選択だ。


クロエは鍵を握ったまま、セドリックの手をもう一度確かめるように握り直した。


「帰ろう、お兄様」


その呼び方に、セドリックの肩が僅かに揺れた。

けれど彼は、逃げなかった。

逸らさなかった。


「……ただいま、クロエ」


森の祝福は、もう背中にある。

だから、ここから先は――二人で作っていけばいい。


朝の光が、噴水の水面に揺れた。

その揺れは、虚飾の光ではなく。


生きる、と決めた人間の光だった。




 完

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