一話
「名を捨てなさい。
尊い方にお仕えなさい。
汚れを置きなさい」
まるで、自分が汚いものになったかのようだった。
宝珠、いや、不思議な石の前に立つと、自分が誰なのかがわからなくなっていく。
過去が遠くなっていく。
ズキリ、と胸が痛んだ。
離れたかった。理不尽な家族からも、曖昧に笑う婚約者からも。
裏切られた自分からも。
光が収束すると、私の名前は失われていた。
神殿の奥、気配を感じた。
何か、いる。
緊張と、安心と、これが、神か。
私の唇からは、知らず息が漏れかけ、
自然と手を組んで祈りの姿勢を取った。
しばらく祈れば、心が静まるかと思ったのに、気配が沈黙すれば、胸の奥に、思い出してはいけないはずの名前が浮かんだ。
ああ、私は、囚われている。
「ルナが可哀想でしょう」
妹のルナが、婚約破棄された。
真っ赤な目で泣いているルナの頭を、私は静かに撫でていた。
なんと声をかければいいかわからなかった。
その時両親が言ったのだ。
「ユリウス様に頼みましょう。そうしたら安心だわ」
ユリウスは私の婚約者だった。
意味がわからなくて、いや、分かりたくなかった。
「エリシアはしっかりしているから、大丈夫よね」
その信頼は、どこから来るのだ。
不安に顔を歪めかけて、ルナの前だからと堪えた。
手は、震えていたと思う。
でも、それがきっといけなかった。
現れたユリウスは、曖昧な笑顔で承諾し、さっさと婚約を解消した。
「エリシアなら僕がいなくても大丈夫だよ」
無責任すぎる。
殴ってやればよかった。
傷ついた、のだと思う。
だって私は、呆然として、殴れなかったんだから。
何を持って“大丈夫”と言うのか。
私だって。
胸が空虚になり、ふっと現実に引き戻される。
いけない。
仕事を、しなくては。




