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ベッカライウグイス⑦ リスさんのパン教室

リスさんの家で迎えた初めての朝、私はリビングでギョッとした。

昨日もギョッとした気がする……。

ルームシェアが始まったベッカライウグイスに、

パン教室の話が舞い込みます。

新しいキャラが、なにやら活動を始めます(^^)/

 初めての場所で迎える朝の目覚めは、幻想を連れてくる。

 さくらさんがしつらえたこの部屋は、日本画に似た顔料をそっと掃いたように、やや不透明な表情が温かい。カーテンの、薄い紗の黄色から緑のグラデーションが、まるで森の呼吸を連れてくるようで、目蓋にそっと吹きかけられる。日だまりの中で揺れる、薄荷の葉が、ひと束どこかに混じっている清涼感が、私の息を満たす。

 十分な深呼吸をして、私は布団から起き上がると、両手を伸ばした。


 洗面所への引き戸を開け、電灯を灯すと、深い海の底のきらめきがタイルから放たれる。ブラケットは、磨りガラスの中に小さな海が煙のように渦巻いて、形を失った明かりを閉じ込めている。

 なんて綺麗。

 私は、さくらさんに尊敬の念を抱いた。

 

 身支度を済ませると、紗のカーテンを開ける。

 グスベリのトリムが揺れ、オーガンジーのカーテンが現われる。二枚のカーテンはどちらも明かりがすべて透けて見えるほど薄いが、早起きの仕事にはぴったりだと思う。

 私は、窓を開け、昨夜リスさんから借りた布団を、クローゼットに片付けた。



 今日と明日は、ベッカライウグイスの定休日である。


 私は、借りているマンションの部屋から、荷物を少しずつ運ぶ予定だった。みっちゃんが車を出すと言い張ったが、丁重に辞退した。布団はリスさんが「よかったら使ってください」と貸してもらったし、それほど運ぶ荷物が多くはなかったからである。

 結局、私は本格的な引っ越しに踏み切ることはできなかった。それには、私なりの理由があったためで、シューさんが滞在する間、私もリスさんのお家に間借をし、何日かに一度、マンションの部屋を見に行きたいというのが、希望だった。

 それでは、私が賃貸料を支払い続けることになるため、リスさんはお給料にその分を上乗せをすると主張した。ならばリスさんの負担が増してしまう。私たちは、労使交渉の場を設け、リスさんのお家に滞在させてもらう間の食費と光熱費を免除してもらうことで案件は解決された。リスさんにしてみると、ベッカライウグイスに掛かる経費として、それらは認められるそうなので、彼女は、やはり私ばかりがマイナスなのではないか、と心配した。しかし私は、賃貸料以外の、生活のために掛かっていた費用をまるごと、雇用主のリスさんに受け持ってもらえるので、とてもありがたい旨を話し、リスさんはなんとなくほっとしたようだった。


 

 リスさんは、夕べ、休日も早くから目が覚めてしまう、その分就寝時間が異様に早いと話していた。私も似たような感じだった。それは、パン屋さんの宿命なのだ。

 部屋に掛けられている木製の時計は、7時を回った。

 そろそろいいかな。

 私は、自室をそろりと出て、リビングへ向かった。

 リスさんの家の内装は、ベッカライウグイスによく似ていた。ドアの材質、壁の色に、私はお店と同じ安心感を抱いた。


 「リスさん?おはようございます」

 慣れないお客さんのように、私は声を掛けながらリビングのドアを押し開けた。

 そこで、目が合った。

 雑誌を広げ、リビングのソファに、どっかりと腰を下ろす、立派な体格の人物。

 目庇まびさしのような眉の下から覗く、青い目と。

 私の挨拶に、その人物は大きな動作で顔を上げた。

 「おはようございまーす!」

 髭が、ない。

 髪が、短い!

 もじゃもじゃしていない!

 なんとも、つぶらなブルーの瞳が、こちらを振り返って見ている。

 私は、しばし立ち尽くした。


 「おはようございます。大丈夫でしたか?」

 リスさんが、キッチンから顔を出した。


 私は、リスさんに駆け寄った。

 「あの、シューさんですよね?」

 リスさんは、笑った。

 「そうですよ」

 シューさんは、私の気持ちを察知したのか、大きな声で言った。

 「あす、しごとですからね!」

 彼は、自分の指ではさみの形をつくり、髪をチョキチョキして見せた。

 それにしても、美しい虹彩の色である。


 「ほんと、はじめからああしてやってきてくれたら、私もすぐに分かったんだけど……、なにしろすごい格好で来たものね。みっちゃんも慌てるはずだわ」

 昨夜、仕事が終わったあと、リスさんと私はスーパーへ買い出しに出掛けた。帰宅すると、既にシューさんの靴が並べてあったので、帰ってきているものだとばかり思った。しかし、夕食時になってもシューさんは現われなかった。リスさんが声を掛けに行ったが、「疲れているから眠りたい」という理由で、リビング横の客間で休んだままだったのである。

 それは、疲れたのではなく、もしかして、床屋さんの安井さんによって眠りに(いざな)われたのではなかろうか、と私は思った。安井さん……すごい。

 

 シューさんは、ベッカライウグイスに嵐を巻き起こしたのち、早々に床屋さんへ案内された。

 だが、そのとき、彼には日本の美容室へ行ってみたい、という願望があったので、切ってもらったのは前髪だけだったのである。それだけでも、十分な効果はあった。

 床屋さんの安井さん曰く「ヒグマがくまさんに変わった……」のだから。


 効果はそれだけにとどまらなかったようだ。

 そこで、シューさんは日本の手厚い、国家資格である理容師さんの技を堪能することになった。

 素晴らしいシャンプー、素晴らしい蒸しタオル、素晴らしいマッサージ!!

 シューさんは、床屋さんを出るときに、「早いうちに、また来よう」と決めたのだという。床屋さんで実際に味わったホスピタリティは、美容室への夢を完全に凌駕したらしい。


 安井さんは、小柄で実直そうな理髪師さんである。時折、外の植物の手入れをしていたり、ベッカライウグイスへ昼食のパンを買いにやってくる。それにしても、再びやってきたシューさんに対して、安井さんの、少し後じさりつつ、申し訳なくも驚く様子が目に浮かぶ。


 「日本のひげそり、スバラシイ!!タポッ、タポッ」

 シューさんは、多分、髭を剃るときのクリームを塗りつける様子を再現し、うっとりとした。

 つるりとした肌のそばかすが、少年のような表情に相応しく見える。

 「キモチイイ~」


 「さ、ごはんにしますよ」

 リスさんは、キッチンから淹れたてのコーヒーと、サンドイッチをテーブルへ運んだ。シューさんの顔が、ぱあっと輝いた。



 大きなテーブルは六人掛けだ。

 厚いオールドパインに、どっしりとした轆轤足のテーブルである。天板には、傷がいくつも見える。

 ここに、みっちゃん、さくらさん、弘子さん、そしてリスさんのお父さんと母さん、みんなが座り、わいわいと食事をしていたのか、と私は想像した。

 懐かしい時間は、確かにあったのに、どこへ行ってしまうのだろう。


 「いだだきますー!」

 シューさんは大きな声で言うと、具材のたくさん入ったサンドイッチに手を伸ばした。丸々とした大きな手の中に収められたサンドイッチは、とても小さく見えた。

 「いただきます」

 リスさんと私も、手を合わせてからサンドイッチに手を伸ばした。そんな私たちの様子に、シューさんは一度お皿にサンドイッチを戻すと、倣って手を合わせた。

 「いただきます」


 「シューさん、日本語がお上手ですね?」

 私は、日本の風習にも素直に馴染む人柄に、やや好感を持って尋ねた。

 「ぼく、日本の大学へ留学しました。一年。ドイツの大学でも、日本語のクラスをとってた、ので、日本語とくいですヨ。それで、日本のクライアントをおおくひきうけています」

 なるほど、と私は頷いた。

 「あ、赤ちゃんが生まれたばかりって、聞きました」

 昨夜の夕食は、自然、シューさんの説明会だった。

 シューさんは、ドイツに住む、リスさんの友人の「月子さん」という女性と結婚し、今年の初めに女の子が生まれたのだった。

 「かわいいですヨ~」

 そう言うと、シューさんはソファに置いてきたスマートフォンを取りに行き、再び、どっかりと大きな腰を下ろすと、金色めいた毛むくじゃらの大きな手に隠れて見えないスマートフォンを指先でぽちぽち押した。

 「じゃーん。みーてくださーい」

 すぐさま赤ちゃんモデルに起用されそうな、かわいらしい赤ちゃんの写真を、つぎつぎに私に見せた。シューさんと同じ目の色である。髪の色も、シューさんの色を淡くしたようで、色白の愛らしい輪郭を彩っている。

 リスさんは、黙って頷いている。すでに見せられたのだろう。

 シューさんは、明るい人柄らしく、ユーモアたっぷりなジェスチャーで、写真の中の赤ちゃんをかわいがった。

 「パパと同じ目の色ですね」

 「オォ!メノイロ!」

 シューさんは、感動したように瞳を閉じた。そして、やにわに青い瞳を開く。

 「目の色は、ぼくと同じです。でも、大人になっても同じとはかぎりません。目の色は、じんしゅこんごうの歴史ですから。Blauäugige Menschen sind naiv.ですよー」

 いたずらっぽく言ったドイツ語の意味は分からなかったが、なんとなくシューさん自身のことをいっているのではないだろうか、と思った。


 朝食を終えた私たちは、その後それぞれのすべきことに励んだ。

 リスさんは、工場に入り、焼き菓子を作り、私は3度、マンションとリスさんの家を往復し、やはり自分の布団を運ぶことは諦めた。シューさんも、本屋さんへ出掛けたり街をぶらぶら歩きたいと言い、我々が集ったのは食事時だけだったが、シューさんがザワークラフトを作ってくれたり、私が煮物を作ったりと、揃うと楽しい時間を共にした。

 そして、翌日の朝、パリッとしたスーツ姿でリビングに現われたシューさんに、私は驚いた。あまりにもダンディーだったからである。スーツの着こなしがとても上手なシューさんであった。




 さて、ベッカライウグイスの近くには、二つ小学校があった。

 リスさんは、そのうちの一つの小学校の卒業生である。

 リスさんが言うには、小学校は自分が在籍していたときからずっと建て替えられていないし、自分が作った卒業制作もまだ飾られているだろうし、よくグラウンドの前を通るが、友達とあれこれおしゃべりをしながら道草をしたことが昨日のように思える、そうだ。


 そんな、リスさんが卒業した小学校から、その夕刻、ベッカライウグイスへ電話がかかってきた。


 「はい、ベッカライウグイスです」


 パン屋さんに電話がかかってくるのは、今の時代珍しい。

 ベッカライウグイスは、パンのスライスこそ手作業だが、予約やお問い合わせの7割方はインターネットを利用して受け付けていた。ちなみに、残り3割は、ほぼ店頭での応対で完了している。だから、私は、ベッカライウグイスに電話がかかってくる音を、はじめて聞いた。思わず、どこに電話があるのかきょろきょろしてしまった。


 リスさんは、レジの後ろのカウンターに備え付けられている受話器を取った。

 「……いつもお世話になっております。……はい、……はい、……え?」


 その日、ベッカライウグイスで午後のおやつを食べた後、のんびりとコーヒーを飲みながら、みずほさんの帰りを待っていたみっちゃんと、従業員の私は、思わず顔を見合わせてリスさんの表情を伺った。


 リスさんは、少しだけ眉根を寄せていた。

 「ええ、実は、そうなんです……。まぁ、そうなんですか?……はい、……」

 リスさんは、カウンターの壁に掛けられているカレンダーを見ていた。

 「はい……。あの、家の事情なんですけれど、人員が少なくてですね、お店を閉めて行くわけにもいかなくて……」

 なんだろう、リスさんは、どこかに呼び出されているのだろうかと私は首を傾げた。

 「はい。申し訳ありません。…………はい。……失礼いたします」

 リスさんは、受話器をそっと置いた。


 「難しい予約?」

 みっちゃんは、リスさんに聞いた。

 「ううん、予約じゃなくて、パン教室の依頼だったの」

 私は、リスさんがパン教室の先生をしている姿がすぐに目に浮かんだ。似合っている。とてもリスさんに合っている、と思った。

 「また自治体?」

 みっちゃんの口ぶりで、こういう依頼が多いらしいと分かる。しかも、自治体ということは、町内会や区、市からの依頼があるのだろう。

 リスさんは、小さな顎に指を当てながら言った。

 「それが、今回は○○小学校からで……」

 それも、リスさんが卒業した小学校からなのだという。

 私は、尋ねた。

 「パン教室の依頼って、たくさんあるんですか?」

 リスさんは、頷いた。

 「町内会からの依頼は、なかなか断れなくて、ほら、食品店って町内の皆さんから買ってもらえて維持できるわけじゃない。だから、一年に一度、お店を閉めて町内会のパン教室は依頼を受けていたの」

 みっちゃんは、コーヒーを啜りながら言った。

 「リスさんのお母さんの時代からだから、もう4、50年になるよね」

 みっちゃんは、遠い歴史を振り返る目をしていた。

 「うちが人手不足なことを町内会の皆さんはご存じだから、年一回でも皆さん喜んでくださって、それがきっかけでお店に来てくださる人も毎年増えてるのよ」

 「パン教室、だいじですね」

 「そうね」

 「でも、○○小学校は、学区ですよね?ほとんど町内会と変わらないお得意様なのでは?」

 「……そうなのだけれど」

 リスさんは及び腰らしく、みっちゃんが言った。

 「あまりパン教室を引き受けすぎると、次はうちでも、ここでもっていう話になっちゃうんだよ」

 「そうなんですか」

 「小学校同士の連携って、親も教師もあるからね。情報が伝わるのは速いよ」

 「そうなると、○○小学校は引き受けられたのに、どうしてうちの小学校や自治体はダメなんですか、っていう話になって、逆にお客さんが離れていくケースもあるの」

 そうなんだ。

 私は、頷いた。感謝や宣伝と、宣伝を断ることの悪影響……。難しいものである。

 「それで、町内会以外は今まで引き受けたことはなかったの。母の代からね」

 りすさんとみっちゃんは、困ったように考えていた。



 そこへ、お店のドアが開かれた。

 カランコロン


 「こんにちは」

 パート帰りのみずほさんである。


 「お帰り」

 みっちゃんは、小さい声でみずほさんを迎えながら、どこかいそいそとしている。素敵なご夫婦である。

 いつもならば、みっちゃんは、自分の飲んでいたカップを持って、すぐに席を立ち上がるが、この日はそうしなかった。

 「あら?何かあった?」

 察しのいいみずほさんである。

 みっちゃんは頷き、リスさんが答えた。

 「実は、○○小学校からPTA交流会っていうので、パン教室の依頼があって……」

 あら、とみずほさんは明るい表情になった。

 「いいじゃない~」

 みずほさんの考えでは、いいことなんだ、と私は思った。捉え方、人それぞれである。

 そして、みずほさんは、周りの空気を読み取る。

 「あら、ダメなの?」


 しばし考えてから、みずほさんは再び言った。

 「いいじゃない、リスちゃん、行ってらっしゃいな」

 「リスちゃん、もっと行動範囲を広げないといけないのよ?一年中、お店、お店の毎日でしょう?何か、こう、他に興味のあることをやってみたりとか、お友達と旅行に行ったりとかもしないじゃない。だから、ちょっと小学校にいってみて、PTAに交じってみるのもいいんじゃないかしら、と思って。今のお母さんたち、中には若い人もいるから、リスちゃんと気の合うお友達ができるかもしれないわよ?」


 なるほど、みずほさんはポジティブである。

 そして、みずほさんの影響はリスさんに絶大である。

 「そう?…………みずほさんがそういうなら……」


 「引く手あまたなところが、困ってしまうんでしょう?パン教室の依頼はよくあって、リスちゃんが困っているって、虎男さんが言っていたから。それもそうよね。お店を閉めてあちこちのパン教室へ出張するのなら本末転倒だし、だから、もうここだけって決めてしまうのよ。そこは、はっきりと小学校の通信で周知してもらわないとね。卒業生だから、特別に、とくべつに、一度だけ引き受けてくれたって、書いてもらわないと」

 みずほさんは、特別なことを強調した。小学校の通信にまで考えが行き届くとは、さすがみずほさんである。

 確かに、町内会を回る回覧板には、学区内の小中学校からの学校便りが挟まれているのを見たことがある。学校と地域はそういう関係なのだな、と思う。


 リスさんは、みずほさんの意見を静かに傾聴していた。

 それから、少し考えていた。

 そして、決めたようだった。


 「うん、分かったわ。今回はそうしてみようと思う。町内会のパン教室って、ご高齢の方が多いから、ちょっと小学校へ行ってみたい気持ちになったわ。だって、懐かしいし」


 それから、そうよね、だって卒業してから一度も行っていないものね、とか、教室や職員室は変わらないだろうな、とか、参観日にはお母さんが一時間だけお店を休んできてくれた、とか、階段の壁描いた絵が貼り出されたとか、そんな思い出話が、リスさんからはじめて語られることになった。


 リスさんは、翌日、○○小学校へ電話をし、パン教室をお引き受けします、と宣言したのだった。



 パン教室の日は、すぐに訪れるわけではない。

 まず、こちらの希望どおり、学校通信にははっきりと「卒業生の」リスさんが「特別に一度だけお店を閉めて」PTA交流会のために、お教室を開くことを引き受けてくださった、との記述があった。しかも、大きな文字で。さらに、副校長先生は色々考えてくださったのか、リスさんがパン屋さんとしてどんな一日を送っていて忙しいのか、ということも併せて書いてくださった。

 これで、他の依頼を引き受けられない理由が保たれたのである。



 さらに、パン教室は家庭科室で開かれることになったのだが、パンを作るために必要な調理器具の何があって何が足りないのかを、事前にチェックしなければならない。

 ある夕刻。あらかじめ学校と連絡をとって、家庭科室の見学を申し込んでいたリスさんと、助手の私は、小学校を訪れた。


 到着すると、職員玄関では副校長先生が、立って私たちを待っていてくれた。

 「こんにちは。ベッカライウグイスのリスさんですか?このたびは、お忙しいところお引き受けくださってありがとうございます」

 副校長先生は、そういってにこにこしながら頭を下げた。

 「いえ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 私たちは、学校のスリッパと靴箱を勧められ、それに従った。このときばかりは、私は、パン屋さんの従業員から助手に代わり、静まりかえった学校をスリッパで歩くのもどきどきした。


 子どもたちが下校した薄暮の小学校は、少し寂しかった。広い廊下やホールを通っても、誰も人がいないのだ。

 副校長先生は、PTAの交流行事、というものについて、説明しながら私たちを案内してくれた。

 家庭科室へ到達するまでの道のりは長く、ガラスケースに収まったトロフィーの数々や、子どもたちの作品で飾られたたくさんの教室や、そこだけ忙しそうなざわめきが漏れてくる職員室を、リスさんと私は物珍しそうに眺めながら楽しんだ。


 副校長先生が、

 「こちらなんですけど」

 と立ち止まって、家庭科室の戸を開けると、電気を点けてくれた。

 

 「うわぁ」

 リスさんが、声を上げた。

 「懐かしい~」

 

 ガラスの戸棚には、パン屋さんでも見かけない、大きなアルミのボウルが重ねられている。ステンレスのお鍋も、同じ物がいくつもある。食器に至っては、もう数も分からない。

 「私、ここでけんちん汁とかサンドイッチを作りました」

 副校長先生は、そんなリスさんの姿に優しく目を細めながら言った。

 「リスさん、卒業生ですもんね。第何回のなんですか?」

 リスさん、ここで首を傾げた。

 「……すみません。覚えていなくて」

 副校長先生は、微笑んだ。

 「そうなんですよね。いや、僕も自分が第何回の卒業生なのか、小中学校のことは思い出せなくて」

 「ふふふ。帰ったら、アルバムを見てみます」

 副校長先生は頷くと、ガラス戸棚の下の、木製の戸を開けて中を確認した。

そこには、これまたたくさんのグラム計りや計量カップ、薬缶、ミキサーも置かれている。抽斗を開けると、軽量スプーンや麺棒や温度計が山のように出てきた。

 「どうですかね?」

 副校長先生は、リスさんの表情を伺った。


 リスさんは、備品の数はどうみても余るほどあるが、肝心のパン作りには何が足りないのかを考えていた。窓の近くには、大きめのオーブンも並んでいる。

 「…………そうですね。使うものは、あらかたあるようです」

 それから、調理台の表面を手で触った。

 「こちらの調理台は、消毒したらそのままパンを捏ねて大丈夫ですかね?」

 副校長先生は、うーん、と考えると、まだ開けていない戸棚を調べ始めた。

 「あ、あったあった」

 リスさんと私は、それを覗き込んだ。

 見たこともないほど大きなまな板が、重ねられている。

 「去年、みんなでとん汁を作ったとき使ったなーって思ってね」

 リスさんは、頷いて腰を伸ばした。

 「ほとんどちゃんと揃っていますね」

 副校長先生は言い添えた。

 「どれも、古いんですけどね」

 リスさんは、言った。

 「かまいせん。……そうですね、当日の前に、私と三多さんでこちらの準備をしたいのですが、どのように……」

 「あ、言ってもらえたら、こちらで全部やりますよ。人員、多いですから。仕切りは、お父さんお母さんたちでやりますし、職員室でもはじめてのパン教室にもりあがっていて、先生たちも参加したいって、逆に希望者が多いくらいで……」

 リスさんと私は、ベッカライウグイスの仕事があるので、その辺りはお願いすることにした。

 そうして、リスさんと私は帰途についたわけだが、このパン教室を開いたことが、リスさんの将来にあまりにも大きく関わってくることになるのはこれからのお話であった。


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