10_オーロラ(姉妹の約束・発狂中の俺)
足音を消して歩かなければならないはずの廊下を走っていく。
それは本来、リンにとって許されざる行為のひとつで、やれば怒られるのは目に見えていた。それでも、リンにとっては一分一秒すら惜しかった。
延々と続くように思える廊下を走るなかで、リンの脳裏に昔の記憶がフラッシュバックする。
『ミン、ミンおるか――!』
『なぁに、ざこお姉ちゃん。また二胡うまく弾けなくて怒られちゃった?』
『違うわぃ! これを見てくれ、お客さんが忘れていった紙の本じゃ』
『ふーん、ちゅうせいし星? ぶらっくほーる? よく分かんなーい。アタシ興味なーい』
『妾はこの地球って星に行ってみたいんじゃ! ホッキョクという場所ではオーロラ、というやつが見れるらしい。なぁ、ミン……』
『……?』
コテンと首を傾げる妹に、リンは夢を伝える。
『いつか、お金を貯めたらここを出て、地球に行こう。一緒にオーロラを見にいこう』
『…………』
『うまくいけば、木星圏から旅客機を乗り継いで行けるやもしれん。どれだけのお金がかかるかは分からぬが、いつかは、きっと……』
『ダメだよ。お姉ちゃん』
『……え……』
『ここからは出られない。……分かってるでしょ。お姉ちゃんはざこだけど賢いから分かるはず。アタシたちは存在しないはずの人間。国籍もないのに、外の世界になんて出られるはずがない。だから――』
そこで回想は途切れた。
リンは歯を食いしばり、廊下を走っていく。
「おい、廊下を走るんじゃ…………って、ん⁉」
途中、ボーイッシュな髪型の先輩妓女がそれを咎めようとするが、走っているのが拉致されたはずの妓女見習いなことに気づき、硬直する。
見慣れた廊下を走り抜け、飛び込むようにしていつもの珠暖簾を潜る。その瞬間、いつもの四人がいるはずで――!
「ただいま、みんな!!」
「おわっ、亡霊か⁉」
「リンちゃん⁉」
「ですです⁉」
しかし、部屋の中には快活な獣人の女の子、下半身が魚の人魚、包帯を巻き病的に暗い印象の女の子しかおらず、肝心の双子の妹はいなかった。
「心配してたんだぞ、脱獄事件のとき拉致されたって……!」
「よく生きてましたね! てっきり亡くなったのかと……」
「ですです!」
「ミン……ミンはいないのか?」
リンの言葉に、三人は顔を見合わせると首を横に振った。
「ミンはいま出ていったところ。すれ違いになったんだろーな」
「そうか……」
「でも、待っていればすぐ戻ってきますよ!」
「ですです!」
「なら、今すぐ探してくる!」
「あっ、待ってリンちゃん! 遣り手のお姉さんが呼んでたよ。重要な話があるみたい……」
「あの、おばさんがのぅ?」
リンは受付にいた煙管を年がら年中吸っているお姉さんを思い出す。
遣り手というのは、妓楼全体の管理・監督者として、妓女見習いの教育全般の責任を負い、実務的な指導を取り仕切る現場のリーダーといったところか。
何か用があるのであれば、すぐにでも行った方がいいだろう。
「何の用じゃろうか……?」
***
「ぱぷあにゅーぎにあ!」
……シーン。
「うーぱーるーぱー! るんぱっぱ!」
……シィィ――――ン。
「アッ! おっぱい、おっぱい! おっぱいだ、おっぱい!!!!」
俺は貧民街の路上でまるでおしゃぶりをつけた赤ちゃんのように四肢を投げ出し、周りの住人がドン引きするなか、酔っ払いのように騒ぎまわっていた。
「ちんちん電車が参りまぁーす! ちんこまんこちんこまんこちんこまんこ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助!!」
「だ、大丈夫かい、あんた。何か悪い薬でもやってるんじゃ……」
「あひゃ、あひゃ! あヴあヴ、だヴ~~! あぴゃぴゃぴゃぴゃう! うぴゃ!!」
心配して声をかけてくる老婆を、俺は完全に無視する。
ちょっと構わないでくれ。俺はいまストレスゲージを解放中なんだ。巻き込まれると悲惨な事故が起きる。……あっ、前言撤回。やっぱこのひとに話聞いてもらおっと。
「聞いてくれよババア!」
「ひっ、……な、なんだい。金ならないよ」
「拉致されたさァ! 妓女見習いのガキを助けてさァ! わざわざこの星まで連れ戻してあげたのにさァ! そのお礼に絶世の巨乳美女とエッチさせてくれるってさァ! 言われたのにさァ! 気づいたらオカマにケツ穴掘られるところだったんだぞ!! 信じられるか、ババア!!」
「……それ、たぶん着く席を間違えただけなんじゃないかい?」
「えっ」
自分の中で沸騰していたキチゲがすっと最低ラインまで落ちる。
「あんた、その身なりってことは傭兵だろ? そりゃ、将来、上級遊女となって莫大な利益を生む妓女見習いを、わざわざ送り届けてくれた恩人にそんなひどいことするかね。しかも、傭兵は良い思いさせておけば高確率でリピーターになるのに……何かの手違いがあっただけだと思うけどね」
「…………」
「あたしはもう引退したけど、妓女やってたから分かるよ。もし、そんな杜撰な対応をする妓楼があれば、ひと月後には潰れてるだろうね」
言われてみれば、そうである。
俺はいわば恩人なのだ。それなのに、その恩人、しかもおっぱいをガン見して鼻血を出すという異性愛者アピールをしまくってた俺に、わざわざ嫌がらせのようにオカマを用意するだろうか?
(……しないんじゃね? あれっ、俺ってひょっとして、童貞卒業するチャンスを逃した?)
どうしよう。
今ごろ、絶世の巨乳美女とやらは俺のいたソファー席の前で右往左往しているのではないだろうか。
ワンチャン、こっそり戻る――いや、しかし、鶏のような奇声を上げただけでなく、卓上の高そうな酒器やら皿やらを割りまくったのだ。どう考えても、あの店は出禁だろう。
「ざっこ~~、ざこお兄さん、街中で奇声あげちゃってきも~い。しかも、通路の真ん中で座ってるなんてマナー違反~! 規律も守れないざこざこお兄さんは、きっと情事もヘタくそだからそんな心配しなくていいよ~~!」
「……あ?」
そのとき、話を聞いてくれた老婆の陰から、メスガキみたいな喋り方をする女の子が姿を現す。
白黒の左右非対称の瞳、太極図のようなチャイナドレス、そして――
「てめ、なに挑発してんだリン……って、あれ?」
顔の造形はリンと瓜二つなのに、こちらを子バカにするような表情に、ショートヘアの髪型、そして何より白黒の太極図を――真ん中の髪の分け目を境に――リンとは左右対称にひっくり返したような髪色と瞳の色は、その少女がリンとは別人であることを表していた。
「お前……」
「アタシ? アタシはリ・ルーミン。ミンって呼んでね、お兄さんっ。……で、妓楼で嫌がらせされたんだって~~? 当然だよね~、だって童貞臭まる出しだも~ん。お兄さんみたいなざこの相手させられる子が可哀想~~!」
「……ああ?」
俺は静かにひたいに青筋を浮かび上がらせる。
「クソガキこら、なに挑発してんだ? そんなにぶん殴られてーのか?」
「やだ~、お兄さん暴力でしか反論できないんだ! お兄さんが童貞だから? それともお兄さんがざこざこだから~~?」
「ぐぬぬ……!」
一理ある。
こんなクソガキ……改め、メスガキに本気になっていては大人の威厳を保てない。しかし、む、むかつく。なんだこのリンを百倍クソガキにしたみたいなこいつ。……いや、待てよ? 苗字が李ってことは、もしや、こいつがリンの言っていた双子の――
「それじゃあね、ざこお兄さんっ。童貞捨てられるといいね! ま、お兄さんみたいなざこにはむりかもだけどね――――へぶぁっ……!」
直後、去ろうとしたミンと通路の向こうからやってきた軽トラックが正面衝突する。徐行よりも速いニ十キロくらいで走行していたこともあり、ミンの体がフロントガラスにめり込み、盛大にぶっとばされる。
運転手はおらず、建設現場の足場が荷台に積まれていたこともあり、無人運転のトラックはそのまま人を轢いたにもかかわらず去っていく。やたら錆びた軽トラだけど、あんな古い電気自動車よく動くな。というか……
「おいおい……轢き逃げしたぞ。しかもドロイド? が乗ってるだけの無人運転だし、なんで止まらないんだ?」
「あれはダイヤモンド社のトラックだから、この街の住人を轢いたくらいじゃ止まらないよ。ここじゃ、人命よりも時間通りに資材を運ぶことが優先されるからね」
「なんか、頭から血出してるけど大丈夫か、こいつ?」
俺はメディカル・ペンを打ってやりながら、一応、持っていた布で止血してやる。
ミンは白目を剥いて泡をふいているが、死んではいないだろう。
「こいつは悪運が強いんだよ。うちじゃ有名なクソガキのひとりさ」
「近くに病院はないか? そこまで運んでやらなきゃ」
「病院はこの街にはないよ。代わりに診療所代わりの教会があるだけさね」
「じゃ、そこに案内してくれ。トラックもそこまで速度出てなかったし、死にゃしないだろ」
俺は失神しているミンを背負うと、ババアに道案内してもらいながら教会へと向かうのだった。
ちなみに、このババアは紅楼の楼主です。
つまり、妓楼のオーナーです。実はすごいひとです。ワオ。




