第七話 【白猿】
――ポタ――ポタ、と、規則正しく赤い雫が灰色の地面へと落ちていく。
赤い雫の出所は、地面へと踞る雪のような白髪の少年の身体からだった。
黒く矢じりのような細い杭。それが少年の身体を貫き、地面と少年を繋いでいる。
少年の身体を貫いている杭の数は数えきれない。
頭意外、上半身も下半身も漆黒の杭で埋め尽くされている。
「どう……してだぁ……」
痛みからだろう。息も絶え絶えに、浅い呼吸を繰り返す少年は顔を上げた。
正面、一メートル先に居る漆黒の女性が、恍惚とした表情で、痛みに苦しむ少年を見下ろしている。
「どうしてって……そんな事、ワタシに聞かれても困ります。――だって、ワタシもボク達も俺達もわたし達も、こうしなきゃ、落ち着かないって言うのですから」
投げ掛けた問いは、漆黒の女性のその姿のように、深淵への回答へと上塗りされる。
「意味……わかんねぇ……」
少年は、落胆とも軽蔑とも取れる溜め息を吐いた。
しかし、漆黒の女性は恍惚とした表情を崩さず、
「えぇ。えぇ。意味わかんなくていいのです。それが正常です。それが道理です。――貴方を本当は殺したくないけど、ワタシは殺さないといけないんです」
「だったらなんで――」
と、言いかけて少年は首を振る。
きつく口を結び、空のような水色の瞳を漆黒の女性へと向けた。
「要するにお前は、敵だって事でいいんだよなぁ」
「はい、そうです。貴方を殺す敵です。それとも貴方がワタシを殺してくれますか?」
杭で穿たれた少年は、現在の状況でも何処か躊躇いがあるようだった。しかし、その漆黒の女性の淡々とした物言いに、顔をしわくちゃに歪ませて眦を吊り上げる。そして――
「そうか……そうかよ! ――じゃぁ、どうせ死ぬんだったらよぉ……」
少年――ニクス・エルウェは立ち上がる。
身体に刺さった杭が肉を裂き、赤い命が止めどなく流れ出るが、それでも構わないと、
「最後は派手に暴れて死んでやらあ!!!」
雄叫びを上げながら、腰の後ろに納めているナイフを抜いた。
◇◆◇◆◇◆
「最後は派手に暴れて死んでやらあ!!!」
そう猛り、腰からナイフを利き手で抜いたニクスは、そのナイフを逆手に持ち替えて一歩踏み出した。そして、正面の敵――ツクヨへと躊躇なく突き立てる。
だが――
「……っ!」
ツクヨの足元、赤い泉から這い出た一本の黒い触手が、扇の形に広がりニクスのそれを阻む。
「そんなに、怒らないでください。あなたは笑っている方が似合うと、ワタシ、思うんです」
「お前が――――」
黒い扇の盾を展開するツクヨは、ニクスにナイフをぶつけられているというのに、何食わぬ顔で朗らかに嗤っている。
その態度が癪に触ったニクスは、まなじりを吊り上げて悪罵を飛ばそうとした。
だが、ツクヨの足元の赤の泉から、二本の触手が黒になって浮き上がるのを視認。
またあの攻撃――杭を飛ばしてくると判断したニクスは、悪罵を飛ばすのを取り止め、その脅威から逃れる為に膝を曲げて全力で後方へと飛ぶ。
実際、その判断は正しかった。
ニクスが後方へと飛ぶのと同時に、二本の触手から矢尻のような杭が放たれる。
それは、寸分違いなくニクスの身体へと吸い付くように迫った。
「っ! しゃらくせぇ!!」
迫る黒杭は二本。飛びながらニクスは一本を身を捻る事で回避し、残り一本はナイフを上へかちあげるように払い、弾く。
そうして、取り敢えずの脅威を凌いだニクスは、ツクヨとの距離を稼ぎつつ、灰色の地面へと着地した。
「やりますね。ニクスさん。でも、その身体で何処までやれますかね?」
「――チッ」
着地した事で起こった灰色の煙の奥からそんな声が耳朶に届き、ニクスは肯定の舌打ちをする。
彼女の言う通り、満身創痍とは言わないまでも健全な状態とも言い難い。
随分と風通しのよくなった自身の身体は重傷だ。
頭がクラクラするほどの痛みを訴える穴からは、絶え間なく血がしたたり、随時灰色の地面へと落ちている。
とくに左腕が酷かった。長さ十五センチ程の杭が六本、列を成して尚も突き刺さっている。
最初の一撃のとき、心臓をカバーする為に咄嗟に使ったのだが、握ろうとしてもビクともしない。――もう使い物にはならそうだ。
「へっ! 利き手がありゃぁ、お前を倒すのには充分だ!」
空元気も元気。
虚勢を張ってニクスは自らを鼓舞し、ナイフを握っている右腕を肩の高さまで上げた。
すると、合わせるかのように、灰色の煙が晴れた。
目前、およそ六メートル先に廃墟を背景に漆黒の女性が佇む。そこだけ切り取れば、単なる駄作の絵画だが。
それを空色に写すニクスは、その絵を単なる駄作と簡単に切って捨てる事などできない。
身体の痛みとは根底の違う、ズキズキと痛む心臓に、ニクスは僅かに目尻を下げて奥歯を噛みしめる。
「ふふ。ニクスさんは、本当にお優しくて――――でも、とても弱い方なのですね」
「くっ! ……会ったばかりのお前に何がわかんだよ!」
「分かりますよ。こう見えてワタシ、長生きしてますからね。今も威勢はいいですが、その心には戸惑いが見えます。――――ただ、良いんですか?」
朗らかに微笑み、ツクヨは手に持っていた黒い花を胸の谷間へと押し込む。
と、半歩ほど右足を前に出し、右腕を肩の高さまであげて、その手の平を激高しているニクスへと向けた。
「先程も言いましたが、ワタシは貴方を殺す敵です。躊躇するのは結構ですが、そんなんじゃ、すぐに死んでしまいますよ?」
明らかな宣戦布告。そのツクヨの意に従うかように赤い泉が蠢き、中に泳ぐ腕が現世へと次々と這い出てくる。
臨戦体制を取った触手の数は都合十二本。先端を尖らせ、息を荒げるニクスへと照準を合わせた。
「そう、かよ……」
何故、ツクヨは急に豹変し、此方に敵意を向けてきたのかのだろうか。不明だ。考えても答えはでそうにもない。
此方の信を蔑ろにした彼女。それに対し、感情が昂り一度は牙を向けたニクスだったのだが、
「そう……かよ」
今、自身の中に渦巻く感情は、彼女をまだ信じたいというバカな想いで。
しかし、それが間違いだとも当然、ニクスは理解している。
だから――。
スッと空色を細め、ニクスは全ての思考を遮断する。
そして、教えの通りに自身の生存本能に全てをかけて、身体を前へと倒し――踏み込んだ。
その刹那、快音が広場だった廃墟に木霊する。
「中々どうして……速いものです。少し驚きました」
およそ六メートルの距離を一歩の踏み込みで縮めただけでなく、ナイフを突き立ててきたニクスに、ツクヨは賞賛を贈る。
無論、二枚の扇の盾がその牙をガードしたので、彼女の身体に傷はない。
「――――」
その賞賛を視線だけで受けとったニクスは、無言で次の行動へと移る。
身を屈め、左に重心を移動させたニクスは、一歩踏み出してツクヨの右斜め背後へと目にも留まらぬ速度で回り込む。
と、間髪入れずツクヨの細い胴に向かって銀の線を引いた。
だが、それも彼女の纏う触手にガードされ、ニクスの一閃は届かない。
しかし、正面に二本、右背後に二本、使える触手の数は確実に減っている。
残るは八本の触手。このスピードを保ちながら攻撃していけば、おそらく届くはずだ。
なんせ、触手の動く速度はニクスの動きより、遥かに遅いのだから。
「でも、昔の人は言いました。数こそが戦いの上で有利だと。要するに甘いということですね」
「っ――――」
そう、ツクヨが呟いた直後、残る八本の触手がニクスを捕まえにかかる。
それをすんでのところで躱し、追撃を恐れたニクスの本能が距離を取る選択肢を取った。
ナイフを持ったままの片手で、二、三度バク転。その直線上の灰色に、八本の杭が植え付けられる。
「これも避けますか。ニクスさんって、もしかすると、探索者の中でも強い方なんですか?」
「――――」
「つれないですね。デート中は恋心を抱く少年のように可愛らしかったのに。――――でも、いい眼です。そうこなくては、この子達も満足できない事でしょうから」
最初は朗らかに。しかし後半は口端を上げて恍惚と。
黒の触手は、ツクヨのその言葉に賛同するかのように、鎌首をもたげて中空でその矛先を揺らす。
――――その様はまるで、黒き蛇を従えた魔性の女そのもので。禍々しく、神々しい。
常人なら誰もが息を殺し、その美しくも暗い混沌へと呑まれるだろう。
だが、それを写す空色の少年、ニクスは違った。
「――――」
なんの感慨もない無表情だ。
事実、ニクスの心に怒りも悲しみもない。そこにあるのは、静かな敵意のみ。
風が吹き、雪のような白い髪が揺れる。
ニクスは、ゆらりとナイフを正面へと突き出した。
「オレの事殺すんだろ? だったら、だらだら喋ってないで早く来いよ」
「ふふ。そうでしたね。喋ってくれないのでつい、意地悪したくなっちゃいました」
「御託はいいからよ。来ないんだったらこっちから行くぜ」
惑わすような口調で紡ぐツクヨとは対称的に、ニクスは抑揚のない口調でそう啖呵を切る。
と、その言葉通りニクスは、前傾姿勢を取り、もう一度接近しようと試みようとした。だが、
「せっかちさんですね。――とはいえ、先程のアプローチを受け続けるのは、一人の女としてはありがたいのですが、少々苛烈すぎるので――」
言いながら、ツクヨは両手を前へ突き出し、それに呼応する十二体の蛇が身体を撓ませる。
「ニクスさん。貴方を近づけさせない事に決めました」
瞬間、漆黒の蛇の口から十二の矢が一斉に放たれる。その速度は先程よりも速く、鋭い。
「――くっ」
前傾姿勢を取っていた事と、想定していた杭の速度が違った事で、ニクスの回避が僅かに遅れる。
それでも、最初に迫ってきた二本の杭をなんとか防ぐ。が、杭の威力に身体が耐えられず、ニクスは仰け反ってしまった。
それに加え、
「二本ずつ――タイミングも変えてるのか」
どうやら、杭は二本ずつ直線となって自身へと放たれているようだった。続けざまに杭を捌いた右手が、ジンと痺れて熱を発している。
ただ、現状は自身の体制も手の痺れも考慮してくれない。
二本づつ来ているとなれば、あと五回これを防がなければ、自分は終わるか、良くて瀕死。
「――――」
凶杭が刻一刻と迫ってくるのを、自身の視界に捉え、ニクスは覚悟を決めた。
必ず防ぎきると。
そして、必ず自身が勝ち、尚もこの燻る想いを彼女へと伝える。それまでは――
「絶対死なねぇ!」
そう吐き捨て、再びニクスは思考を止めて、本能のみに従った。
その直後。
都合、九本の杭がニクスを穿つべく立て続けに放たれた。
廃墟に轟音と快音が連続して九回鳴り響き、灰色の砂塵が濛々と立ち上る。
そうして、遅れて放たれていた最後の一本が砂塵の中へと突入した。すると――――。
砂塵の発生源、その中央で赤が舞った。
◇◆◇◆◇◆
――――本当に良く避ける。
目前、十メートル以上先に居る少年に、ツクヨは内心でそう感心した。
絶え間なく黒杭を飛ばしているが、彼はそれを避け続け、まだ息をしている。
でも、もうそれも長くは続かないとも推測していた。
なぜなら――
「左腕は肘から下が欠損。右目は……掠ったのでしょうか。赤い血が流れていますね。いえ……それとも、当たっているのでしょうか。ともあれ、どちらにせよ視界は狭まっているようですね」
右目は塞がり、左腕からおびただしい血が流れているというのに、少年は良く動く。機敏だ。
飛んでは跳ねて、器用に自身の放つ黒杭をなおも退けている。
だが、その動きは最初よりも精細を欠いていて、此方に近づける暇はないだろう。
「それか……そうして油断させるのが彼の目的なのでしょうか」
そんな考えがふと浮かぶが、ツクヨは直ぐに、首をゆるゆると横に振り否定する。
「いいえ、それはないでしょう。彼は――ニクスさんは純粋です。そんな考えには至らないでしょう。ワタシと違って卑怯者ではないですからね」
デートの際に向けられた溌剌とした笑顔。それと、青臭かったけれどもエスコートしようという心使い。
それを思いだしたツクヨは、自傷気味に呟くと彼とのデートを想い返した。
短い、本当につかの間の時間だった。
でも、彼とデートしていた時は、本来の目的も自分の在り方さえも忘れていて。素敵な思い出でだった。
普通の人間の女の子になれた気がした。
――でも、何故そんな事、今更想い出してしまったのだろうか。
「それはきっと…………汚れを知らない貴方が羨ましかったのでしょう」
そう結論を出し、ツクヨは必死に避けるニクスのその背後を覗くように見た。
「――――そろそろ、決着が付きそうですね」
静かに囁くその姿は、どこか泣いているようだった。
◇◆◇◆◇
「――――はぁ、はぁ、はぁ」
自身の乱れた呼吸が、肩を激しく上下させる。
その度に血を激しく滴らせる左腕が、涙がでそうなほどの痛みを訴えてきて煩わしい。
それに加えて、視界も頗る悪い。右目側がまったく見えない。
利き眼の右が潰されたことによる若干のズレ。それに対応するのに神経を使って、頭もガンガンと音が鳴っている。
「いや、それはただ単に、血を流しすぎたせいだな。――けど、満身創痍には違いねぇ」
そう自問自答を終え、ニクスは肘から下が無くなってしまった自身の左腕を一瞥。
引きちぎられたような荒々しい傷口。治療したとしても、おそらくもう一生使えることはないだろう。
「油断してた訳じゃねぇーんだけどな」
放たれた杭、体制を崩しながらも九本目まではギリギリ対応していた。
無論、犠牲はなかったわけじゃない。
その時に右目を失った。ただ、それは掠っただけで傷は浅く重傷ではない。
だが、遅れてきた十本目。それを躱すのは到底無理だった。
「緩急だけじゃなくて、曲げれるなんてさすがに卑怯だろ」
遅れてきた最後の一本は、なんと視界を失った右側からカーブしてきたのだ。
躱すのは不可能と判断し、なんとか左腕を犠牲にすることでその難を逃れたが。
しかし、それからは劣勢を強いられた。
絶え間なく続く杭の雨。それによって、ニクスはツクヨへと近づけないでいる。
「こんな時に弾女がいりゃーな。――――っと」
そんな泣き言を言っていると、杭がまた飛んで来た。ニクスはそれを難なく躱す。
慣れもあるが、距離が離れたおかげで随分と避けやすくはなった。
しかし、接近戦でしか自身は有効打を与えられない。このままではジリ瀕である。
ただ、考えがまったくもって無い訳でもなかった。
「詠唱も、術名も無し。未知の魔法……か? いや、どっちにしてもいづれ限界がくるはずだ」
自身の無の状態が長く続かないように、ツクヨもそう長くは続かない筈だ。
現に、杭の数こそそのままだが、速度と鋭さはだんだんと落ちていっている。
「このまま、どっちかが枯れるまで耐久戦といこうじゃぁーねぇか! ――――っ!?」
と、意気込みを吐き出した途端。ニクスの背に固い感触。
なんだ? と振り返れば、それは壊れかけたジャングルジムだった。
よくよく、周りを見渡せば景観も変わっていた。
平地が多かった殺風景な噴水の場所と違って、ここは雑多に遊具が転がっている。
どれも風化しているが、鉄棒やら登り棒など。子供だけでなく大人も一緒に楽しめそうなアスレチックや、大きな滑り台などが点在していて。
規模としては小さいが、おそらくここは遊園地めいた場所だったのだろう。
――――――と、正面、ザッと地面を擦る音が聞こえて。胡乱と周囲を見渡していたニクスは、意識と視線を正面へと戻した。
目前、漆黒の女性が月の隠れた世界を背景に佇んでいる。
二人の間の距離はおよそ五メートル。
蛇を足下に、ツクヨは行儀の良い店員みたいな仕草で、ニクスに向かって一礼をした。
「お久しぶりですね、ニクスさん。その後の具合と調子は如何ですか?」
「へっ。お陰様で、絶好調に決まってんだろ」
皮肉を皮肉で返すニクスに、ツクヨは朗らかな微笑みを浮かべながら細い指を一本立てる。
「先程のお声が聞こえたので、一つお教えしますが。ワタシが死なない限り、この子達が枯れる事はありません。つまり、無限に無制限に貴方はその脅威に晒されるという事です」
「ハッタリはきかねーよ。威力も速度も随分落ちてるのはわかってんだ」
「ふふ。本当に素直で可愛いですね。わざと、という考えには至らないのでしょうか。
――見て下さい、この場所を。物が散らばり、足場が悪い。誘導していたんですよ。……この場所にその怪我。貴方は今までのように動けないでしょう?
考えが浅く、青い。ニクスさん詰みです」
そう長々と語るツクヨに対し、ニクスは口端を上げて不適に笑う。
「いいや、んなこともないぜ」
「そうですか。――――なら、頑張って足掻いてください」
ピクリと瞼を一瞬ひくつかせたツクヨ。そのピンクの唇から零下の声を響かせる。途端、蛇が首をもたげ――――
「流石にそれは、見飽きたぜ!」
言って、ニクスはナイフの柄を口に咥えると、ジャングルジムに手を掛けた。
そして、頼りない棒に片足を乗せて前へ跳躍。
蛇が杭の形を造る前に、口に咥えていたナイフを右手に持ち替え、ツクヨへと大振りの一閃。
だが、その広範囲の一撃は届かない。三体の蛇が扇となってツクヨを守護した。
「――無駄ですよ。この子達はワタシの意思を汲んではくれますが、それとは別に行動もしますからね」
「わーってるよ! 確認だ確認! けどよ、ペラペラ喋りすぎだぜ!」
扇の盾を蹴って、背後に下がりながら猛るニクス。その正面を九本の杭が追った。
着地し、背後には聳え立つジャングルジム。全面には九本の放射状に広がる脅威。
「――――」
なるほど、考えたものだなとニクスは感嘆する。
背後にはこれ以上下がれず、杭は曲がるから左右に避けても意味をなさない。つまり、広範囲に飛ばしたそれは、確実に自分に届くだろうと。
「だけど、甘ぇ!」
ニクスは、一番最初に自身の元に到達した杭を、上体を限界まで反らしながら、背後にあるジャングルジムに向かって弾く。
そうすることで当然、背後にあった脆いジャングルジムは轟音を立て、残骸となる。
その残骸――破片は、ニクスの頭上へ雨のようになって降り注ぎ、下敷きになるのは必定。
だが、それこそがニクスの狙いでもあった。
反らした勢いを殺さずに、ニクスはその場でバク宙。次いで、膝をグンと曲げ破片の雨に向かって跳躍した。
「どぉりゃあああ!」
叫びながらその中を突き進み、破片を上手く避けつつ、その破片の上に乗って更に上へとニクスは飛翔する。
その様はまるで蛙のようで、しかしリスのように軽やか。
無論、その背を追うように迫る八本の杭は健在。しかしながら、破片に行く手を阻まれて、追う速度も威力も減退して、その距離はどんどん突き放されている。
「うっし、これくらい距離が開ければ、時間もできるだろうし、あの杭も届かないだろ」
眼下にそれを見据え、更にもう一度破片を強く踏んで跳躍。
そうして、破片の雨の遥か上へと踊り出たニクスは、自身の胸に手を当て何事かを唱える。
「清廉なる水よ、我が声に集え――――」
そう、呟きながら足を右へと漕ぎ、方向転換する。一時の飛行を終えたニクスは、今度は風を纏い急転直下。
途中、勢いのなくなった八本の杭と対面し、その一つを踏んづけながら、口にナイフの柄を咥えると、
「んぶー!」
予め目的地と定めていた所――――鉄棒の頂上へと到達し、へばりついた。そして、左眼下のツクヨへと空色を向け「どうだ」と、したり顔でキメる。
まるで、野性動物のような動き――――剽悍な一連の動作を、ツクヨは唖と貌をもたげ眺めていた。が、そのニクスの顔を見て表情を引きもどし、
「素直に驚きました。……ニクスさん。貴方、本当に人ですか? 動物より動物的で、お猿さんみたいでしたよ」
「へっ。小さい時は、自然と瓦礫の建物が遊び場だったから、こーゆうのは得意なんだ。すげぇだろ」
鉄棒に自身の足を絡ませたニクス。
口に咥えていたナイフを腰に納めて、そう胸を張る。実に誇らしげだ。
仕事の時は、魔術を使用できるレイチェルの方が火力が高かったので、ニクスは常に壁になることを徹していた。
だが、本来の彼の戦いは方は違う。
持ち前の速度と柔軟さを生かした遊撃のが得意であり。
足場の悪いこの場所は、不利になるどころか、ニクスに力を貸してくれていた。
ともあれ、猿とは言い得て妙だ。と、ニクスは内心納得する。
弾女――レイチェルが学生時代に付けてきた渾名『白猿』。今では協会の殆どの仲間が自身をそう呼んでいる。
故に、お猿さんと言われてもカチンとくることはない。むしろ――
「誉めてくれてありがとーな。嬉すぎて、もっと披露したくなっちまうぜ」
言って、鉄棒に自身の足裏を合わせて、ニクスは前面へと轟と飛ぶ。
ニクスの脚力に耐えられなかったのだろう。元々脆かった鉄棒が弾け飛び、その音を聞いたツクヨが、緩慢な所作でニクスを視界に入れる。
途端、それまで揺られているだけだった黒蛇から、五発の杭が吐かれた。
杭とニクスの距離はどんどん狭まる。しかし、それを遮る物がある。塗装の剥げた雲梯だ。
その雲梯にニクスと杭は、ほぼ同刻で到達。
重い爆音が轟き、雲梯の真下に敷かれていた砂場が、周囲を砂色のベールで覆った。
そうして、破壊をしでかした蛇は、役目を終えたとばりにそっぽを向く。
――――ここまで、僅か三十秒にも満たない出来事。
おそらく、それを視界に入れるツクヨの認識は、現状に追い付いていない。
だから、気付けなかったのだろう。
棒立ちの彼女の背後から迫る、砂だらけの少年に。――――大振りの銀の線が引かれる。
「――――っ」
直後、ツクヨの背後に硬質な音。突如響いたそれに、目を見開いたツクヨを守護するのは黒蛇三体。
「とまぁ、これが通らないのは解ってる。これでいいんだよ。今はこれでな」
完全に彼女の視覚外からの一撃だと言うのに、黒蛇達は自身の攻撃を防いでみせた。
ただ、落胆も驚きもない。ニクスにあるのは納得と理解だった。
「ようやく、わかってきたぜ! その蛇の特性をな! ――それと、もうそっから一歩たりとも動かせないぜ!」
そう吠えながら、ニクスはツクヨの前面に回る。
此処が正念場。真っ向勝負だ。
空色を輝やせて、闇より深い黒を視界に入れながら、ニクスは銀の糸を走らせる。――――走らせ続けた。