第六話 【あなたに贈った花言葉】
完全に空が黒に染まる。
しかし、真っ暗ではない。
月と星々、それに街灯と家の明かりが、舗装された石畳の道を照らしている。
気温はおそらく、十度を下回っているのは間違いないだろう。
道行く人々の吐く息が、白く煙のようになっているからだ。
もう暫くすれば、本格的に冬が到来し、街を雪化粧に染めるんだろうと。
そう思いながら、ニクスは隣にいるツクヨと供に街を歩く。
「寒くねぇか?」
「はい。大丈夫です」
ジャケットのポッケに両手を突っ込みながらニクスが問いかけると、ツクヨは事も無げにそう答えた。
その答えを聞いて、安心の吐息を溢し、ニクスはさて、どうしようかと悩む。
無論、次に行く場所は決まっている。
宿泊区に行って、飯を食う。だ。
今、ニクスが悩んでいるのは、そう――――
「いつ渡したらいいんだコレ……」
買ったはいいが、しかし渡すタイミングが掴めなくて、現在もポッケの中で冬眠している飾り物だ。
夕飯を食べた後がいいのか。それとも今か。
ストーンズの店を出てから延々と、ニクスはこの事で頭を悩ませていた。
そのせいで、口数も少なくなってしまったし、再び手を繋ぐタイミングも見失ってしまった。
このままでは不味いと、警報が頭の中で鳴っている気がする。何が不味いのか明確なものはないが、なんとなくだ。
「だーっ! もう!」
苛立たしさに思わず声が出て、ニクスは左手で自身の髪をワシャワシャとかきむしった。
本来、自分はこうして悩むのが得意ではない。当たってその時対処が、自身の有り方だ。
悩むぐらいならもう渡しちまえ。
ニクスはそう決心し、ツクヨの前へとうせんぼうするかのように躍りでる。
「? ……どうかなさいましたか?」
「これは……その、あの。――プ、プレゼントだ!」
「――――え? ワタシに……ですか?」
そうして、ニクスは右ポッケに温めていたプレゼントを突き出すようにツクヨへと差し出す。
差し出されたツクヨは、ニクスにその意図はなんなのか訴えるかのような、唖然とした眼差し。つまり、困惑の表情を浮かばせていた。
「そう、だけど……」
その表情と視線を受け、ニクスはモゴモゴとどもってしまう。思っていた反応と違うと。
ニクスの想像では、跳び跳ねて喜ぶまではいかないが、それでも顔を綻ばせてくれるくらいの感情を貰えると思っていた。
しかし、ツクヨは痛むような、悲しむような、複雑な感情を浮かべていて。
受けとりを渋られたプレゼント。その綺麗にラッピングされたリボンが、ニクスの心を表すかのように寒風に揺られる。
それでも、もう出してしまったからには引けない。
ニクスは再度、未だぼぅとプレゼントを見ているツクヨに、
「似合うと思って買ったんだ。よかったら、受け取ってくれないか?」
「…………はい。ありがとうございます」
ハッと顔を上げたツクヨは、のそり、のそりと時間をかけて細く長い指を伸ばし、そのプレゼントを受け取った。そして、
「開けてもいいんでしょうか?」
おずおずとそう聞いてくる。ニクスは「勿論だぜ」と返答する。が、そのニクスの声にいつもの張りはない。
緩慢な仕草で、ツクヨはリボンを解いていく。そして開封され、当然、まろびでる品はガランサスの花の飾り物。
いったいどんな反応をするのだろうか。ニクスは固唾を飲んでその成り行きを見守る。
「これは……。もしかして出会ったときの――」
どうやら、ツクヨもその花がなんなのか気づいたらしい。
彼女はその飾り物を眺めて、ほうっと息を吐くと、黒い瞳を細めた。
「……美しいですね。――本当に、こんな高価そうな物を頂いてよろしいのでしょうか?」
「おう、勿論だぜ!」
贈った飾り物から視線を外さないまま、ツクヨはそう言う。
表情は夜だからか良くは見えない。故に、声色でしか良かったのかダメだったのか。その是非を判別できない。
その判断基準である声色も、今まで会話してきたトーンと一緒で。
ニクスは背中がうずうずと痒くて、どうしようもなかった。
彼女の一挙手一投足が気になって、逸る気持ちが抑えきれない。
――――これが、恋なのだろうか。
だったら、なんて辛くて、儚いのだろう。
と、ニクスが俯きかけた時。ツクヨの唇が薄く開く。そして、紡がれる声。それは闇夜を切り裂く一条の光――否、暝神ルナが大地に落としたといわれる、月の雫のような清らかさを含んだものだった。
「折角なので、着けて頂けませんか?」
「え?」
弧を描くピンク色の唇。黒の瞳はきらきらと輝いていて。
今まで見たことのない彼女の表情に、ニクスは唖然と固まった。その結果、
「ニクスさんの好きな所に着けてください。――何処でもいいんですよ?」
ずいっと身を前へ寄せてきたツクヨに、ニクスは突然右手を持ち上げられ、その中に飾り物を握らされる。
自然、息のかかる距離にツクヨがいて――それどころか、彼女は胸を突き出してくるもんだから、ニクスは急速に自身の胸が高鳴っていくのを実感した。
「お耳、真っ赤ですね。可愛らしいです」
「――――」
紡がれた言葉に、文字通り赤面してニクスは悶絶する。
――――からかわれている。なんてのはさすがに解る。けれど、悪い気はしない。
悪い気はしないが、それを正直に態度で表すのもちっぽけな自身のプライドが邪魔をする。よって、
「ま、任せとけ!」
毅然と、そして紳士的に。
自身の胸を叩いて、気恥ずかしさに目を逸らすニクスだったが。
それさえも、ツクヨには見透かされているようで。
「押し倒すらなら、今ですよ?」
と、彼女はクスリと悪戯に笑う。
今までと違う妖艶な一面。それが、本来のツクヨの素なのだろうか定かではない。
けれど、今までの彼女の有り方よりも、何故だか此方の方がしっくりときた。
その不思議な感覚に圧倒され、息を飲んでいたニクスだったが、
「ばっきゃろー。そういうのは、もっとお互いを知ってからだろーが」
左手で頬をぽりぽりと掻きながら、完全に自分は手玉に取られていると自覚し、ニクスは降参と白旗をあげる。
負けるのは嫌いだ。
でも、この敗北感は嫌いになれそうにない。
ニクスは照れくさい気持ちをそっと投げ捨て、視線を飾り物を握らされた右手へと落とす。その手を二度三度確かめるように握り、ツクヨへと手を伸ばした。
そうして、その手を中空にさ迷わせ、何処につけるか迷うこと数秒。ニクスは胸元のリボンに着けることにした。
断じて胸を触りたかったとか、疚しい理由じゃない。そんな、大それたことを考える余裕など今はない。それだけは声を大に出して弁解したいところ。ともあれ――
「似合っていますか?」
胸元のリボン。その中央の結び目に新たに映えた白を見ながらツクヨは言ってくる。
それは正しく黒の花だった。着けられた白の飾り物は雌しべみたくなっていて、ワントーンで決めていた彼女を華やかにさせた。
「おう。似合ってるぜ。ピッタリだ!」
「――――そうですか。ピッタリ、ですか……。ニクスさん。ありがとうございます。とても、嬉しいです」
噛み締めるように、ツクヨは胸に咲いた黒の花を両手で優しく包み込む。
その姿に満更でもないのだろうと確信したニクスは、良い位置に着けたなと内心でガッツポーズを決める。
そして先程とは打って変わって、ニクスの気持ちは晴れ晴れとしたものとなった。
安堵の吐息を溢し、途端、時間も時間だからか、あるいは緊張から解放された為か、急に腹が減ってきた。
「んじゃ、飯でも――」
食いに行こうぜーと言いかけた時。
「…………っ!」
突然、ビクリと身体を跳ねさせたツクヨが、頭を抱えてその場に蹲った。
慌ててニクスも腰を落とし、彼女の肩に手を掛ける。
「おい! 大丈夫か?」
「――――えぇ。わかってます。そう…………でした。そうですよね」
何事かを呟くツクヨ。しかし、ニクスにはその呟きは小さすぎて聞き取れない。
「体調……悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。心配しないでください。少しだけ、立ち眩みしただけですから」
そう言ってツクヨは朗らかに、気が気でないニクスへと微笑みかけた。
確かに、その微笑みは一番最初に出会った時と同様のもので、ニクスを安心させてくれるものだった。
だが、今となってはどうだ。
さっきの笑みの方が彼女の素のように感じて、今の笑みは作り物めいた感覚さえある。
もしかしたら、ツクヨは体調が悪いのを我慢しているのかもしれない。
なんせ、慣れてない土地に彼女は来たばかりなのだ。自分も覚えがある。初めて、スノーパスに行き、人ゴミにまみれた時は、環境の変化からか二日間ほど体調を崩したものだ。
おそらくだが、きっとツクヨもそんな状態なのかもしれない。
なので、残念だが宿泊区でのディナーはまた今度にしよう。それが次に会う時の楽しみにもなるだろうし。そう思ったニクスは、立ち上がろうとするツクヨの手を握ってそれを補助しつつ、
「あー、あれだ。そろそろ解散でもしとくか? アレだったら……」
と、口に出したニクスに反論を唱える者がいた。それはかん高いグーという音を奏でる不届き者。――正体は、ニクスの腹の虫だった。
なんとも閉まらない、空気を呼んでくれない自身の腹に、ニクスはタハハと苦笑。ツクヨを支えていた自身の手を離し、一歩後退りして口をへの字に曲げた。
星と月が輝く夜空を背景に、一泊の沈黙が落ちる。ツクヨは右の手の甲を口元へと持っていき、クスリと微笑むと、その白い細腕をニクスへと緩やかに伸ばした。
「そうですね。でも、夜道を一人で歩くのは心細いですし、何かお返しもしたいので……ニクスさんさえ良ければ、ワタシの家までお願いできませんか?」
本来なら手の届かない輝く月。幼い頃何度手を伸ばしただろうかわからない。
だが、目前に居る一層と輝いている月は手の届く存在で。
「勿論だぜ!」
ニクスは鼻を擦って、照れ隠しをしながら月の触手を掴んだ。
ちょっとだけ、ほんのちょっぴりだけ、この後の事も期待しながら。
◇◆◇◆◇◆
漆黒の女神、ツクヨに促されるままニクスは着いていき、そうしてたどり着いたのは、通称貧民街と呼ばれる区画だった。
辺り一面が灰色で、時代に取り残されてしまったかのような崩れかけの煉瓦の建物が立ち並ぶ。
ひび割れた灰色の路肩には、ボロ布を纏う人が数人寝転んでいる。地面に至っては、油なのか水なのか不明だが、ぬかるんでいて異臭を放っていた。
――――殺風景。そんな一言が似合う廃墟。
ここは来てはならない悪意が蔓延る場所。
そうニクスは探索者になりたての時に、ラカントラマから忠告を受けていた事を今更になって思い出した。
どうして、こんな所に。
現在の状況にニクスは奥噛みし、一刻も早くこの場所を離れたかった。
さっきまではあんなに楽しかったのに。これ迄のドキドキは消え失せ、今はとても不安だ。
大人な関係を期待して、色街を通っているときまでがピークだった。
煌びやかな世界。こんな寒空なのに肌色成分の多いお姉様方。
そこまでは自身の妄想が形になると、ニクスは思っていた。
だが、その区画を素通りし、着いた場所は色っぽい雰囲気の欠片もない埃くさい場所。
本当に彼女はここに住んでいるのだろうか。
疑念はふつふつと沸き上がってくる。けれど、何かしらの理由があって、ツクヨはこの場所に居を構えたのだろう。
理解に苦しみながら、ニクスはツクヨを横目で見る。その表情は平然としていて、恐れは全く無さそうだった。
途端、ラカントラマの言っていた『止めておけ』が過り、それが事実になるのを恐れたニクスは、握っているツクヨの手を軽く引いた。
「なぁ、後どれくらいで着くんだ?」
「すいません。もう少しです」
此方に顔を合わせ、朗らかに微笑むツクヨに邪気はなく、少しだけ荒れた心が和らいだ。
なら、大丈夫。大丈夫な筈だ。
信じるものは救われる。そう思いたい。
一株の懸念を心の奥に押し込んで、ニクスはツクヨと共に歩く。
暖かった手は、すっかり冷えきっていて。
夜空に浮かんでいた月も、今は雲で覆い隠されてしまっていた。
そうして歩き続けること、十五分程。開けた場所に着き、ツクヨは足を止めた。
それに伴いニクスも足を止め、その場所に空色を向けた。
正面、壊れた噴水からちょろちょろと水が溢れだしている。
その周囲には、石製のベンチだった物や花壇だったものだろう残骸が、風化して散らばっていた。
察するにおそらくここは、広場だったのだろう。
「なぁ――」
なんで立ち止まったんだ。と、ニクスが言いきる前に、ツクヨは繋がれていた手を解いた。
そして、一メートル程先にある噴水の前まで、彼女は羽根が生えたかのような軽やかな足取りで向かった。
「今日は楽しかったです。久しぶりに、そう久しぶりに、普通の女の子になれた気がしました」
言いながらツクヨはその場でくるりと回転し、黒のスカートがちいさな円を描いた。
「何が……」
満足そうに語る黒の瞳に、ニクスは自身の空色を合わせ戸惑いの表情を浮かべる。
まさか、ここが彼女の家って事はないだろうと。
そんな狼狽えるニクスを余所に、ツクヨは自身の両手を首の後ろに廻し、胸元の黒い花を外した。
その後、両手を皿の形にして、彼女はその上に黒い花を咲かせる。
「ニクスさん。この花の事をご存知ですか?」
視線を花に落とし、ツクヨはニクスへと問いかける。
その意は、いったい何処までを含むものだろうか。ニクスは言いよどんだ。
花言葉なのか、咲く場所とか季節も含めてなのか。そこまでを込められての問いなのだったらニクスは答えられない。でも、名称くらいは当然知っている。
「……ガランサスの花だろ?」
「はい。その通りです。別名はスノードロップ。暝神ルナが愛したと伝わる花で、花言葉は『希望』『慰め』。寒い季節に咲き、太陽を受けて花びらをひっそりと開かせる花は、この大陸では希望の花なんて言われています」
ニクスの回答に頷くと、ツクヨは丁寧に詞を唄うかのように語っていく。
そんな大層な事までは知らなかったニクスは、ただただ感心すると同時に納得もした。
なにせ、村の名前になるくらいだ。縁起が良いものなのだろうと。
希望の花か。だとしたらピッタリだと尚更ニクスは思った。
自身の脳裏に育った村を浮かべ、これからやろうとしている事――――自身の夢に間違いはないんだと顔を綻ばせる。
「ただ、別の大陸ではこうも呼ばれてています」
言いながら、ツクヨは顔を上げる。その表情は、造り物めいた感情の無い貌。冷たい氷を連想させた。
今まで見たことない、冷えきったツクヨのその姿に固唾を飲むニクス。
「なんだ?」と脳内に疑問符を浮かばせ、実際にそれを言葉にしようとした矢先、ツクヨのピンク色の唇が開いて、言葉は紡がれた。
「それは――――。あなたの死を望むというものです」
瞬間、今まで感じたことない寒気が、自身の身体を支配していくのを実感した。
贈った物がそんな花言葉を持っているなんて、知らなかった故の動揺もあるが――
「…………なんなんだ、それ」
一番は目前に起こった現象――――ツクヨの足元を起点に、突然沸き出てきた赤色の泉のせいだった。
呆然とするニクスを前に、泉は細い線にいくつも枝分かれし、放射状に伸びて灰色の床を赤に染めていった。
ただ、それもどうやら限度があるようだ。
赤はニクスの丁度手前で止まると、螺旋を描きながらツクヨの足元へと戻り、墓から伸びてくる死者の手のように巻き付いていく。
「ニクスさん。本日は、本当にありがとうございました。こんなに清々しい気持ちになれたのは、何百年振りなのでしょう。見当もつきません」
滔々と語るツクヨの姿。それは何か、良からぬモノに憑かれているのではないかと、そう誤認してしまいそうなほど怪異的で。
「この花をピッタリだと言ってくれて、ワタシに贈ってくれて。――――おかげで、元気がでました」
うっとりと黒い花に頬擦りをするツクヨに、ヤバいと危険信号がニクスの本能に、臓腑に、警鐘を鳴らして訴えかけてくる。
その、すこぶる五月蝿い警戒音にしたがって身体を動かそうともがくも、自身の身体はその信号を無視して、大地に縫い付けられたかのようにビクともしてくれない。
「――――」
発しようとした声がでなかった。
冷や汗が頬を伝うのがわかった。
目も離せないのも、動けないのも理解した。
その結果――――
地面に留まっていた赤が、地面から鎌首をもたげて中空へと浮かぶ。すると、その赤だった触手は、まるで毒に犯されたかのような禍々しい黒色に変色した。
「――――なので、ニクスさん。……さようなら。また何処かで会いましょう」
ツクヨがそう呟いた途端、ニクスの視界は真っ黒に、強制的に塗り替えられた。