第三話 【あんにゃーろう】
およそ、十畳程の一室。
ひらひらとした白レースの桃色のカーテンベッド。
あたり一面、何かしらのぬいぐるみが精緻に置かれたファンシーすぎる部屋で、これまた目が痛くなるような装飾があしらわれた椅子に、橙色の髪の少女。レイチェル・ベリーがタオルを頭に被せ座っている。
「ったく。あのハゲ。レイチェル、レイチェルうるせーんだよ」
あの後、食堂兼酒場を後にしたレイチェルは、自身が長期で借りている宿に一目散に帰って風呂に入った。
そして風呂から上がり、ほっと一息つくとハゲの一言が急にぶり返してきて、自然と悪態がでてしまった。
なので、レイチェルは落ち着くために、先程淹れたお気に入りのハーブティーで舌と脳を潤す。と、頭の中に一つのひらめきが訪れた。
「あーなるほど。アレか。好きな女に嫌がらせしたくなるタチなのかあのハゲは。救いのないロリ○ンだな」
一応、ラカントラマの名誉の為に補足しておくが、彼はボン、キュ、ボンのお姉さんが好きなのだが。ともあれ――
レイチェルがこうも自身の名前を毛嫌いするのにはワケがあった。
「誇れか……」
だらんと背もたれに体を預け、息の抜けた声で静かにそう呟くレイチェル。
彼女はジュピテイル王国の最北端、スノーパスの田舎で産まれた。両親は苺農園を営んでいて、質素でも裕福でもない、所謂、普通の家庭で育ってきた。
そんな普通の家庭を築く両親の想いがこもった〝レイチェル〟という名の由来、それは――
「誰が童話のお姫様だっつーの」
自身の名の由来にレイチェルは嫌悪感を隠さず、吐き捨てる。
彼女の言葉通り、レイチェルという名はこの世界の有名なお伽噺話からとられた。
その話の内容は、簡単に言えば貧民街出身のレイチェルが、王妃になるまでの成り上がりを描いたもの。
実際にあった話だとかないとか。
その真相は不明ではあるものの、しかし夢のある素敵な一冊には違いない。
そんな一冊を何故、彼女が嫌っているかというと、その答えは至極簡単だった。
「人生、そんな甘くはねーんだぜ」
物語の中のレイチェル姫は、基本的に巻き込まれ体質だ。自身で道を選択はせず、努力はするが、必死こいてではない。
持ち前の美貌と、何かあっても周りが助けてくれたり、窮地に陥っても運の良さでそれをカバー。
そうして、女女して成り上がっていくレイチェル姫を彼女は忌避している。無論、それだけじゃない。
「――――アタシは、誰よりも努力してんだよ」
レイチェルはキッと視線を尖らせる。
その先に写るモノは、これまた桃色のファンシーすぎるテーブル。
しかしその上には、この部屋には相応しくない膨大な量の紙の束がうず高く積まれている。
一体何枚あるのか。総量は謎だ。だが、それこそが彼女の努力の証。魔法というモノに興味を持った時から集め、研鑽の日々を記した書類である。
魔法の才が幼少の頃からあったレイチェルは、一冊の中のレイチェルも魔法の才があったこともあり、自ずと比べられ暮らしていた。
確かに、周りにいる同年代よりもレイチェルは優秀ではあった。しかし、物語の中のように順風満帆でもなく、努力しなかったわけじゃない。
元々の才を周囲に持て囃されても彼女はそれで満足することなく、血の滲むような努力を続けた。
そうしてメキメキと魔法と魔術の才を磨き、スノーパスの田舎では、いづれ宮廷魔術師になるのではないかと噂されるほどの実力を身につけていく。
しかし、その裏ではやっかみを受けたり、自身の価値を否定されたりもあった。
このような背景もあって、レイチェルは自身の努力を否定されているような気持ちになり、だんだんとレイチェル姫だけではなく、名前をも嫌いになっていった。
そして、スノーパスの学校に入った彼女が、自身の名を捨て、代わりに名乗った名前が〝バレット〟だ。
「これが習得できたんだ。この先がきっとあるはず。絶対、絶対、産み出してやる」
レイチェルの得意とする魔術、〝バレット〟。
約四百年前に居たとされる、四大魔法師の一人が編み出した魔法を強化する技術だ。
魔法というのは、端的に言うならば自然の超常現象を人的に引き起こすもの。
それは火、水、風、土の四種類からなる。
一方で魔術は魔法を発生させ、その形を変異、変形させたりするものだ。
魔術〝バレット〟は魔法を圧縮し、一点集中型として放つ。
その術は自身の全力を極少に留める為、非常に難しいとされている。ただ、レイチェルはその魔術を六歳の時に習得した。
まごうことなき天才。しかし、それだけではレイチェルは満足しない。
椅子から立ち上がり、彼女の向かう先はテーブルだ。そのテーブルの上にある紙の束の一つを乱暴に手にとり、
「アタシは四大魔法師を越して、新しい魔法を見つけてやる。そんでもって、五大魔法師として歴史に名を刻んでやる!」
壮大な夢を抱くレイチェル。葵色の瞳には、明確な決意がこもっている。
「――ん」
と、盛大に決意表明をしたレイチェルの視界に、耳が垂れた猫のデコレーションが施された木枠が写る。
縦に十センチ、横は二十センチ程の長方形の木枠。その中はモノクロで、スノーパスの学生服を着た四人が写っていた。
一人は目を細めだるそうなレイチェル。
一人は何がおかしいのか。豪快に笑っているニクス。
後の二名の名前は不明だが、一人はふてぶてしさを感じる硬い表情で、もう一人は品のある柔和な微笑みを浮かべている。
「便利な時代になったな。ホント」
十年くらい前にとある技術者によって開発された現像技術、写真というものを眺め、レイチェルは感心の吐息を溢す。
「まさか、アタシが誰かと一緒に写るなんて思わなかった」
レイチェルはスノーパスの田舎で起こった事を学び、学校では基本誰ともつるまず一匹狼を貫いてきた。
退屈だったが平穏な学校生活。しかし、卒業まで残すこと一年に変化が訪れた。
「――チッ。どいつもこいつも馬鹿面してらぁ」
写真に写る三人は、その自身の平穏を脅かし、ダンジョンの試験で必要だとしつこくパーティーに勧誘してきた阿呆ども。
無論、最初は断っていたが、紆余曲折ありパーティーを組むことになった。
それからは退屈のしない日々だった。しかし、面倒事にも巻き込まれる。フィフティーフィフティーな奴ら。
そんな思い出を想い返し、自然と舌打ちが出たレイチェルだが、表情は裏腹に穏やかである。
「――――。……ったく」
彼女はふぅと一息吐き、紙を元の場所に戻す。と、テーブルの引き出しを開き、その中から一枚の封書を取り出した。
赤の封蝋で閉じられたそれは、彼女当てに宛てられたモノなのだろう。
金色の文字で、レイチェル・ベリー様へと書かれている。
それを手に取り、どこか憂いを感じる視線で、レイチェルは文字を指でなぞっていく。と――裏返し、その裏側にもあった文字――――魔導学院へのご案内を見て「うん」と小さく頷く。
「やっとか。でも……」
自身の目標であった魔導学院への招待状。これを手に入れる為にレイチェルは、探索者をやっていたのだ。
行く以外の選択肢はない。喜びはひとしお。――だが、一つ彼女には懸念があった。
「……アイツは――――。ってもう、こんな時間か」
想い更けながら上げた視線。その先に時計が写る。現在の時刻は、夜の九時半だった。
流石にあの阿呆もそろそろ帰ってくるだろう。レイチェルはそう思い、部屋に備え付けてあるキッチン方面へと向かう。そして――
「夜食、作ってやっか。お前も食べるだろ?」
と、彼女にしか見えない〝何か〟に語りかけた。
◇◆◇◆◇◆
夜更け。通りの家の明かりはまばらだ。飲食店からは少し声が漏れ聞こえる。
そんな夜道を軽装からラフな格好へとチェンジしたニクスは、棒刀の先に荷物をくくりつけ、ご機嫌に鼻歌を奏でながら歩く。
あの後、夕飯を食べ終え、無事ラカントラマに会計を押し付けたニクス。
腹を満腹にしたら返り血が気持ち悪くなってきたので銭湯に行こうとしたら、顔の赤いゆで卵――ラカントラマも行くと言ってきた。
無論、断る道理もないので、
そのまま男二人で風呂に入り、談笑からのありがたい説教。
ラカントラマはいちいちうるさいし、面倒くさい。だが、話をしている時間は嫌いじゃない。
それに、銭湯へ行くと毎度フルーツ牛乳を奢ってくれる。風呂上がりのこれがまた最高なのだ。
「とはいえ、ちっと遅くなったかあ?」
目前、ニクスは三階建てのレンガの建物の前で止まり、静かに中へと入る。
この建物は、ニクスが長期で借り入れをしている宿屋。ウチノ屋。普段は受付に看板娘が立っているが、時間も時間なのでそこには誰もいない。
一階、二階、そして三階へとあがり、左に曲がる。
曲がり角から二つ目の部屋がニクスの借りている部屋で、そのもういっこ左がレイチェルの部屋だ。
「荷物おいてから行くか」
言って、ニクスは自身の部屋の鍵を解錠、扉を開ける。と、中には入らず、荷物を入り口の壁に全部立て掛けた。
そうして扉を閉め、向かう先はレイチェルの部屋。
部屋の前へ立ちノックをする。
すると、「空いてる」の一言が直ぐ返ってきた。ノブに手を回し部屋の扉をあける。
「お邪魔しま……おぁ……」
あけると、一瞬世界が切り替わったような錯覚をニクスは味わった。
数回ほどこの異世界に来ているも慣れない。
ピンク色の視界の部屋は、やはり彼女は変わっていると痛感させられる。
しかし、それを否定するつもりはない。世の中、十人十色なのだ。
「遅い」
部屋の中央へ向かうと、ぶすっと、仏頂面をしてデコデコしている椅子に座っているレイチェルが待っていた。
寝間着だろうか。ピンクのモコモコした服を着ている。相変わらず、派手好きだ。ともあれ――
ちらりと、備え付けてある時計を見れば時刻は十一時半を過ぎていた。
確かに遅くなったと思ったニクスは、両手を合わせる。
「すまん、すまん。――――ん?」
ニクスの平謝りを無視し、レイチェルはスッと腰をあげるとキッチンへ向かった。
そして、直ぐに戻ってくる。
お盆の上にパイとティーを乗せて。
「ちょっと冷めちゃったけど、ミートパイでも食べる?」
「――お、おう!」
どうしたんだろうか。ニクスは訝しむ。
普段、レイチェルはこうした気を回すことはあんましない。
そもそも、〝話があるから来て〟と、彼女は言っていた。
流石にミートパイを食べさす事が〝その話〟ということはないだろう。
とはいえ、レイチェルの料理は上手い。ここでその飯を食べないのは損だ。
今でこそ余裕がでて外食できているが、探索者に成り立て――最初の一ヶ月は、お金が心許なく彼女に作ってもらっていた。
助かっていた日々を思いだし、ニクスはミートパイの匂いに促されるように、席につく。
「頂きます!」
「ん」
一口大に切ってミートパイを口に入れる。
最初に肉の油と旨味がじんわりと広がり、次にトマトの酸味がくるスッキリとした味わい。
その後、なんのハーブを使っているのかわからないが、爽やかな香りが鼻を通り抜ける。
「――うめぇ」
やはり、レイチェルの料理は絶品だ。
ニクスは頬を緩め、もっとミートパイの味を堪能するべく、ナイフとフォークを動かしていく。
そんな満足そうな表情を浮かべるニクスに、レイチェルは無言のドヤ顔を向け、自身の目前に置いている本を一冊とると、その本を静かに広げた。
二人の会話はそれ以上ない。
ナイフとフォークを動かす音。本の頁を捲る音。秒針の音。
十分くらいの静かな時が過ぎる。と、唐突にレイチェルが口を開いた。
「魔導学院から招待状が来た」
顔を跳ね上げ、食べる手を止めたニクスは、レイチェルを見る。
足を組んで本の頁をめくっている彼女の表情は、無表情で何を考えているかわからない。
だが、ニクスは彼女の〝夢〟を知っている。
なので、照れ隠しをしているだけで、きっと心中は喜びに満ちているだろうと推測した。
「そっか。おめでとう。案外、早く目標達成できたな。…………ってことはもう、毎日仕事しなくてもすむのか」
「ん、そーだな」
元々レイチェルは、夢を追う為、学校を卒業後は他国にある魔導学院へ行く事を志望していた。
ただ、その学院は魔法や魔術に精通、あるいは優秀なもののみを召致する。所謂、招待制の学院で、残念な事に彼女へ招待状が届くことはなかった。
ニクスに言わせればレイチェルの魔法や魔術は凄まじいの一言。体術は自分のが強い自信はあるが、決して弱くないし頭は数倍良い。総合成績は学校で三番目で非の打ち所など全くない。
優秀すぎる彼女が、何故魔導学院へ招待されなかったのだろうか。思い当たる節は一つしかない。そう、立地だ。
なんせ、スノーパスの学校は王国の最北端にある。きっと魔導学院の目がそこまで届かなかったのだろう。
「ホント、みる目ねぇよな魔導学院も。でも、言われた通り探索者やって正解だったな」
言葉には出さなかった、しかしきっと心ではやりきれない気持ちだっただろうレイチェルに、妙案をくれた友達がいた。
それが探索者になること。
今の時代、探索者は魔石の関係で世界でもっとも重要な職業である。その職業につき、魔術の才を見せつけ、ある程度有名になれば招待がくるかもしれないとのことだった。
「白猿、アンタには無理させた」
「別にいいって。みんなと違って特別やることもなかったしな」
卒業後、自身の友達である三人は、夢ややらなければいけない事があった。
レイチェルは謂わずもがな魔導学院へ進むこと。
一人は領地の経営、そして発展。
一人はこの国を守る騎士に。首都へと向かった。
無論、ニクスにも夢がないわけじゃないが、すぐに叶えられる夢というものでもない。
だったら今、自分ができることを。
そう思い、毎日ダンジョンに潜って彼女の夢の手伝いをしていたわけだ。
「行って、暴れてこい」
「はー。……アンタならそう言うと思った」
グッとフォークを突き付け、にんまりとするニクス。
レイチェルは躾のなってないガキを相手にするかのように嘆息し、本を閉じる。
そして、テーブルに片肘をつき、手の上に顔を乗せ、萎びれた猫のような仕草で葵色の目を細めた。
「行きたいけど……まだ一年経ってない」
「あん?」
一年経っていないとは何か。行きたければ行けばいいのに。
ニクスはレイチェルの言葉の意味がわからず、フォークを降ろしながら首を傾げた。
「ったく。はぁ…………。約束があんだよ。約束が。アンタを探索者として連れ出す代わりに、一年はちゃんと面倒みろって言われてんの」
煩わしそう――――いや、実際に煩わしいのだろう。ともあれ、でかい溜め息とともに吐き出されたその言葉は、ニクスにとって初耳だった。
「一体、誰にだよ?」
「んなこと言うの……腹ぐ――ヴァン=クライス・スノーパスしか居ないに決まってんだろ」
「あー。クライスか。なるほど」
ニクスの問いかけに何か言いかけて、言い直すレイチェルは呆れきった表情。
思い当たる節があったニクスは、得心を得たとばかりに頷く。
ヴァン=クライス・スノーパス。ニクスの初めての友人で、付き合いは六年と長い。そんな彼はスノーパスの跡を継ぐ、次期領主。つまり貴族だ。
頭脳明晰で質実剛健。スノーパスの学校の主席で、絵に書いたような人格者だ。
しかし、そんなクライスにも欠点がある。
「心配性だからなー」
そう、クライスは極度の心配性なのだ。
遠足へ行く時も、学校の試験でダンジョンへ遠征する時もそう。不備がないか五度くらい確認してくる。
鬱陶しいとは思った事は一度もない。むしろ、ニクスは忘れ物が多いので、彼のその性格には助かっていた。
「それはアンタに対してだけだっつーの。興味ないヤツには……ま、いいや」
ぶつくさと小さく呟くレイチェル。どうやらニクスとその人物への理解に、少々の乖離があるご様子。心の中に何を思っているのやら。
ただ、その理解を共有するつもりもないらしい。彼女は言葉をきると、
「腹ぐ――じゃなかった、アイツに手紙書いてるだろ」
「お、おう。一ヶ月に一回送ってくれって言われたから送ってるけど……よく知ってんな」
「アンタの手紙を見たアイツから、こうしろああしろって、事細かな有難いご指摘の手紙がアタシにもくんだよ」
ありがた迷惑だと、レイチェルは表情を曇らせる。
なるほど。ニクスも流石にそこまで言われれば察することができた。つまり彼女の懸念は、
「よーするに、魔導学院への招待状が来たって手紙に書かなきゃいいんだよな?」
「そ。でも、できるのアンタに?」
「それは――――」
初めての友達で六年の付き合い。嘘も方便というが、できれば嘘をつきたくない。
しかしレイチェルの夢、その一歩を踏み出すチャンスがきた。
それを邪魔をしたくないし、気分よく送り出したい。
自身の髪をくしゃくしゃとかきながら懊悩するニクス。明確な答えが出ず、頭に浮かんだ言葉を訥々と溢していく。
「聞かれたら無理だ。けど、書かないことはできる。それにクライスなら、たとえバレたとしても理解してくれんじゃねぇかな」
「なんとも中途半端な……。――ふーん。じゃ、怒られたとしてもアンタが説得してくれるってワケだ」
「説得ってか……そもそも、クライスはそんなことで怒るほど器が狭くねぇぞ?」
「確かに普段はね。でも、アンタのことになると違うんだよ。ま、でもいいや。言質とったし」
絶対ではないと確約はしないニクス。
それでも懸念が晴れたのか、レイチェルは憑き物が落ちたようなスッキリとした表情だ。
そうして、「うーん」と、彼女は二徹後の職員のような伸びをし、
「でも、ま、アイツの事はおいとくとして――――」
「ん?」
「アタシもアンタが心配なのはあるんだよ」
「あん? どうしてだ?」
ニクスの頭上に疑問符が浮かぶ。
はて、レイチェルが今まで自分を心配した素振りを見せたことがあっただろうか。全く身に覚えがない。
ダンジョンで仕事をしているときも、私生活でも、彼女は何時だって必要以上は絡んでこない。
此方が遊びに誘っても大体すげなく断られ、必ず一定の距離を保って接してくる。野良猫のような女だ。
やはり、意味がわからない。ニクスはジッとレイチェルを凝視してしまった。
すると、その視線に何かを感じたのだろう。レイチェルは目尻を吊り上げ、額をピクピクと動かす。――機嫌が悪いときの仕草だ。
「チッ……んなもん考えなくてもわかるだろ。アンタ、家事全般できないし。知らない人にはほいほいついてくし、困っている人がいたら誰でも助けようとするし、乳のデカイ女には鼻の下伸ばす。……馬鹿すぎなんだよ」
「んなこと、ないんだけどな」
「はぁ? んなことあるから言ってるんだろっ。今までの行動をよーく思い出してから言いやがれ、この馬鹿猿」
自覚のないニクスに対して、レイチェルは心底、面倒だと非難。
その非難を受けて、ニクスは彼女の言う内容――自身の行動を振り返る。
先ずは家事だが、それはその通りだから、弁明はしない。だが、知らない人についていったいったり、誰でも助けるなんて、救世主みたいなことはしてないつもりだ。
確かに、知人の誘いであれば大抵断らない。
ただ、明らかに悪そうな人、明らかな物乞いは避けて、一応人は選んでいるつもりだった。
乳のデカイ人はアレだ。興味ないねとは言えない。年頃の男の子なので、そこは甘めに見てほしいところ。
ともあれ、前述の行動がレイチェルの心配の種であるのならば、今後はもう少し慎んで行動しようとニクスは心に刻む。
ニクスは、ニカッと晴れ晴れとした笑みを溢し、
「すまん。わかった。今後は気をつける」
「本当にわかってる? アンタに何かあったら、アタシがグチグチ言われるだから。だから――」
レイチェルは深い溜め息の後、疑いの眼差しを向けた。どうやら根底にあるのは、自身の保身のようだ。
だが、どうにかなってほしいわけでもないのだろう。レイチェルは、
「困ったらハゲと詐称女に頼れ。あの二人は、まぁ……信用できると思うから」
と、ニクスに助言を送る。それにニクスは「勿論、わかってる」と返した。
その後は再度の確認とばかりに念を押された。
くれぐれもクライスに言わない。あと半年間は絶対頼らない。なんでも、怒るとねちっこいからだそうだ。
クライスはそんな人物ではないと、ニクスは信じている。が、レイチェルには、馬鹿につける薬はないとばかりにあきれた顔をされた。
そうして、確認が一段落すると後顧の憂いがなくなったのか、レイチェルは表情を緩めた。
「――ま、でも、なんだかんだあったけど、学生生活の一年間とダンジョンの半年間。それなりに楽しかった」
「オレも楽しかったぜ」
それはこちらのセリフだ。
ニクスもまた、レイチェルと過ごした日々はかけがえないもの。
「そういや、いつ出発するんだ?」
ニクスの問いにレイチェルは考えるそぶり。
「明日の昼くらい?」
「ずいぶんと急だな……。わかった。見送りくらいするぜ」
「ん」
短く返事をして、レイチェルは再び本を開く。
どうやら会話はそれで終了のようだ。
ならばと、ニクスもパイを食べるのを再開する。若干冷めてしまったが、やはり上手い。
そして、食べながらふとおもう。
もう、レイチェルの料理は暫くは食べられないのか。そう思うと、少しだけ寂しさを感じたニクスであった。
◇◆◇◆◇◆
次の日。
陽が頂点へと登りかけた頃、目を覚ましたニクスは、跳ね起きた。
「――――ヤッベ。今何時だ?」
焦って時計を確認すると、現在の時刻は昼の十一時だった。
昨日は遅かったから、大分寝過ごしてしまったらしい。
「あっぶねぇ。ギリギリか? ……にしても寒くなってきたな」
安堵した後、身震い。自身の身体をクロスに抱きしめ、両腕を擦る。
今は冬に近い秋の季節。薄着の寝間着では、若干肌寒さを感じた。
そろそろ厚着もださなければと思いながら、ニクスは立ち上がり、ハンガーにかけてある適当な上着を羽織る。と、向かう先は戸口。
「詳しい時間帯は、教えてくれなかったからなー」
先ず、出立の時間を確認しなければ。その後は時間が許すなら昼飯くらい一緒に。
そんな事を考えながら、ニクスは戸口を出てレイチェルの部屋へと訪問した。
「ん? おかしいな」
ニクスは首を横に捻る。
何回かレイチェルの部屋をノックしたが返事がない。彼女も遅かったから寝過ごしているのだろうか。
なんとなしにノブに手をかけると、何故かノブがくるっと回転した。
「あれ? 開いてる…………」
昨日、お暇した後、閉め忘れたのだろうか。無用心だなと、しかし、開いているのなら直接起こすことも可能だろう。
ニクスはそう思って、扉を開けた。
「入るぜ。――――え?」
キョトンと、ニクスは目前に広がる光景に頭の中が真っ白になった。
なぜなら、中はもぬけの殻だったのだ。
ピンク色の壁紙だった一室は、自身の部屋とおんなじ壁紙になっている。
ただ、雑に剥がされたのだろう。
糊がところどころのこっていたり、元々の壁紙も剥がれている箇所がある。
「弾女?」
呼び掛けに応じる声はない。
寝惚けて部屋を間違えたのだろうか。
「いや、そんなはずはない」
流石に隣の部屋だ。間違えるはずもない。
それに――
「ベッドとかはそのまんまだ」
中へお邪魔すると、レイチェルの部屋だった痕跡が所々見られる。
ピンクのお姫様めいたカーテンベッドやテーブル。そして、デコデコの椅子。大きい荷物は残っている様子。ただ、ぬいぐるみとかの小物系はなかった。
「あんにゃろう……」
ニクスは理解し、表情を強張させる。夜か朝か時間は定かではないが。
賄賂パイを食べた後、彼女は部屋を片付けて出て行ってしまったのだ。
別れの挨拶もないとは、なんとも薄情な女。なんて事を思いながら部屋を一周し、最後にニクスはキッチン方面へと向かう。すると――
「ん?」
台所の上に一枚の紙を発見した。何か字が書いてある。
ただ、余程急いでいたのか、読めないことはないが字がきたない。
ニクスはその紙を手に取り、しかめっ面で読んでいく。
書かれている内容は――――。
『早起きごくろうさん。そんな白猿に心優しいアタシから餞別だ。冷蔵庫に朝食を用意してある。心して食えよ。
それと、壁紙が上手く剥がれなくてさ。今まで殆ど魔石譲ってたんだから、修繕費とかそこら辺、諸々よろしくな。それじゃ、行ってくる。また、会おう』
無造作に置かれた紙きれ。どうやらそれは、ニクスへの手紙だった。
読み終わったニクスは、空色の瞳を輝かし、だらしない微笑みを浮かべる。
「ありがたく頂くぜ。――あんにゃーろう」
そうして、グッと拳を天へと突き上げ、
「また会おうぜ。元気でやれよ相棒!」
素直じゃないレイチェルの門出を祝うのであった。