07.凍風戦ぐ朔日の朝
――暗雲立ち籠む社の杜に
光の御柱一筋ありて
御空切り裂き落ちたる蕾
深花逐われて来たる稀人
鏡は映す遼かな大地
鑑は綴る悠かな吟咏を
土圭移りて真を照らす
広き杜中に鳴るは鈴の音――
「……風が冷たい」
深い森の中にポツンと佇む屋敷の縁側で、諷は空を見上げていた。いつもの、白い水干のような衣装に身を包み、白い尻尾を揺らめかせる。
外は薄暗い雲に覆われ、しとしと小雨が降っている。この森に雨の降るのは稀なことだ。
森の木々は濡れそぼっていても、何かを手招くように蠢く。彼方の山には大きな影がかかっている。諷は神妙な面持ちで、森の向こう側を凝っと見つめた。
「やはり、あれは間違いではなかったのだろうか」
昨晩の夢。淡い記憶の中に予期した、確かな光。諷はその光に想いを馳せる。
広い闇の中に、一筋の光が射す。その光がじわじわと広がっていき、眩しい世界が開く。そこは、どこかの丘の上、一面の花畑と、青い空。ぷかぷかと浮かぶ雲に紛れるように、どこからかやってきた鳥が、丘の真ん中で歌う少女の頭にとまる。確か、そんな光景だった。
あれが、いつかに下された神託と同じものならば、一波乱来る。滅多にない嵐の気配に、諷は白い耳をピクリと動かした。
諷は、この杜を作り出した、ある神の神使である。
神使としては、稲荷神社の神狐や、天満宮の牛などが有名だろうか。動物と神社との深い関係が信じられたことから、その動物が神さまの使い、眷属であると信じられるのが、神使であるが、諷の場合は個別の契約である。人間による信仰によってこう成ったわけではない。
諷は、数多世間に知られるような神使たちのような力は持ってはいないが、神さまに仕え、神さまを支えることを誓っている。与えられた仕事は様々あるが、その仕事の一つとして、この杜の管理を任されている。
ここは、とある世界。現世から隔離した、異空間である。誰が呼んだかこの場所は、「あそびの社」と呼ばれている。
諷は、すっかり慣れてしまった人の姿で、朝の身支度を進めていく。部屋を片付け、廊下は雑巾がけをする。
今日の朝食は卵かけご飯だ。ツヤツヤとしたご飯の上の真ん中にくぼみをつくる。そこに、とろりと卵を乗せる。少しだけ出汁をかけたら、出来上がり。
「んふーーー♡♡」
諷の本来の姿は、白猫である。サラサラふわふわの白い毛並みに、金色の瞳。長い時を生きて、人の姿を取れるようになった今でも、その象徴たる白い猫耳と尻尾は消えてはいない。
楽しそうに動く尻尾の根元につけられた鈴が、さやさやと鳴る。
付け合わせのたくあんと、和布と豆腐の味噌汁を啜り、諷は幸せそうに顔をほころばせる。朝の空気は澄んでいて、静かなその時間はゆっくりと過ぎていく。諷はこの時間が一等好きだ。
もしかしたら、猫が? と思われる方もいるかもしれない。
けれど、誤解しないでほしい。諷は最早猫にあらず、すっかり人の世、しかも現世の文化にも慣れ親しんでいるということを。人の姿を取っているときには、人と同じ消化機能を持つということを。
ちなみに猫にとって有害なものは様々あるので、実際に猫に近づこうという人は気を付けるように。
食事を終えた諷は、食器を片づけると、部屋に戻り、必要なものを取り揃えにかかる。乱れた髪や服も整えていく。
ふと、諷は、すべてを見通して置きながら、何も伝えずに愉しんでいるらしい神さまを想い、息をつく。どうも主さまは、この酔狂な遊びに愉悦を覚えているらしい。困ったものだと思いながらも、知らず口角が上がるのは、諷も存外、こういう嵐は嫌いではないからだ。
「光の御柱、か」
神さまの言葉を思い出す。神さまとはよく雑談はするが、未来についての話は多くは語ってくれない。その中で、たまに受ける神託は貴重なものだ。
『暗雲、社に立ち籠む。
光の柱一筋あり』
数週間前に神さまから下されたその言葉を思い出す。暗雲とは、この天気のことなのだろうか。光の柱とは、その隙間から射す陽光かなにかだろうか。
そう考えを巡らせても、答えは出るわけもなく。
諷は床の間から、一振りの刀を手にする。二尺ほどの長さで、黒い鞘に、赤い下緒、柄にも赤い柄糸が巻かれている。一通り点検をして、礼をして、腰に差す。
よし、と一つ声に出して、諷は番傘を片手に、下駄をつっかけ、縁側から庭に降りた。歩くたび、リン、と軽やかな音が響く。後ろに束ねた一房の白い髪が揺れる。
「全く、主さまの酔狂には敵わん。が」
開いた番傘に、つぴつぴと雨が跳ねる。諷は屋敷を瞥見して、あおあおと茂る森に足を向ける。
「今日も良き日になりそうだ」
木々に誘われるように、諷の姿は緑に消えた。赤い傘も、白い霧の中に埋もれる。
「多少忙しくはなりそうだが」
声は風に流れて消えた。