あの人
「あの人」
そう言って指を差す先輩に、私は顔を向けた。
「知ってる? 窓際社員って呼ばれてんのw」
知っている。
いつもパソコンと睨めっこ。
何の仕事をしているのか誰も知らない。
曰く、ユーチューブを見ている。
曰く、ゲームをしている。
仕事もせずに、ただダラダラと過ごしていると、そう考えられていた。
「いなくなれっての」
悪態をつく先輩。
「そうですね」
同調して答える。
それに気を良くしたのか、先輩はさらに彼の悪口を連続させた。
それを私は、合わせるように笑顔を作って聞いていた。
ある日食堂にて。
お昼の弁当を作り忘れてやってきた。
だが席が埋まっており、見渡しても何処も人だらけ。
「大手は違うなあ」
感心しているが、早く食べないと。
「あ」
空いている席がある。
そこだけ忘れ去られたかのような小さなテーブル。
彼がいた。
覇気のない、静かな男の人。
私の部署の、窓際社員と呼ばれた人。
「……」
私は仕方なく進んだ。
「あの、此処いいですか?」
声をかけると、彼は冷たい目線を向けてきた。
冷たい眼差し。
「どうぞ」
彼は手元に視線を戻して端を進めた。
「失礼します」
席に着き、お盆を置く。
野菜炒めセット。
どちらかと言えば、精進料理に近い。
手を合わせて声に出さずに『いただきます』と唱えた。
落ち着いて端を使って食べ物を口にする。
目を閉じ、口の中のそれらに意識を向け、味わい、喉元を通る感触を、胃の中に落ちる感覚を掴む。
お皿の食べ物が半分ほど減ったところで。
「どっかのお嬢様?」
声を掛けられた。
目の前の男の人だった。
こちらをじっと見つめている。
じっと。
見つめられていた。
「……そうです」
嘘だ。
家が厳しいのは確かだが、それを言うほど彼を知らない。
「ふーん」
たちまちつまらなさそうに視線を下にする彼。
失敗した。
何故かそう直感したのだ。
「えっと、お嬢様とかそう言うのではなくて、家が厳しくって」
どんどん声が小さくなるのを自覚した。
彼の視線がこちらを向く。
「うん、解るよ」
彼は端的にそう答えた。
「ついつい反抗的というか、ぶっ殺したいって思うことあるよね」
ドキリと胸が跳ねた。
「まあみんながみんな考えることだし、気にすることでもないけどさ」
彼は隣のお盆のお皿に手を伸ばした。
カレーだった。
「君は食べないの? カレーとかラーメンとか」
食べない。
そんな化学物質満載の食べ物なんて。
「美味しいよ。身体の健康を気にせず美味しいものを口にする。幸せだと俺は感じる」
パクパクと頬張る彼。
確かにおいしそうに食べていた。
ごくりと喉がなる。
「明日も一緒に食べる?」
「え」
「ひとりで食べるより、誰かと食べる方が愉しいからさ」
「……」
家族と食事をするときが一番苦痛だった。
だからいつも食べるときは独りで食べていたのに。
何故か不思議と、彼と一緒に食べたいと思ってしまった。
「ええ」
箸を進める。
その進め具合が、少し早い気がした。
「あんたさあ」
「何でしょう?」
ある日の仕事中、先輩から声を掛けられた。
「なんか最近あいつに絡んでるみたいだけど」
そう言って親指で彼を指さす。
いつも思っていたが、先輩の言動はあまりよろしくない。
直接的に言うと、下品だ。
「はい、仕事の相談に乗ってもらっていて」
聞くに、彼はエンジニアだそうだ。
会社内の各部署から寄せられる、機械やPC、システム類のトラブル解決に務めているよう。さらにはカウンセリングなんてことも。
そのような窓口があることは知ってはいたが、まさか彼がそうだったとは露知らず。
「あんな奴に相談とか、あんた頭おかしいじゃない」
鼻で笑う先輩。
「……そうですね」
私は笑った。
「もうあんな奴に関わるのやめときなって。貧乏になっちゃうよ?」
そう言う彼女は、ブランド物を買うことに熱心だ。
ネイルや化粧だってそう。
少しやり過ぎなくらい。
「そうしますね」
「そうしなって。私の指導の方がしっかりしてるし」
と、鼻息荒い先輩。
実際は彼女から教わったことはほとんどない。
自分で勉強して、さらにベテランな方々にも訊いてきて今に至るのだ。
先輩は知らないが、等級は私の方が上だったりする。
けれど先輩は先輩である。
立てないといけない。
「ふーん、そっか」
そんなことがあったことを、けれど彼に見抜かれてしまった。
食堂にていつもの場所。
私は口を開いてしまっていた。
「別にいいんじゃない」
「え」
てっきり私を責めたり、先輩との関係性について何か言うのかと思っていたが、彼はあっさりだった。
「怖いんでしょ?」
「……」
そう、怖いのだ。
先輩に嫌味を言われたり攻撃されたり、そうして巡り巡って周りから疎外されたりすることが。
「変化が」
「え」
その言葉に拍子抜けした。
「え、えっと」
「何でここに居るの?」
そう問われて、すぐには答えられなかった。
「先輩に、俺とは関わらないって言ったんでしょ?」
「……」
「嘘ついちゃダメでしょ。俺と初めて話したときもそう」
「うっ、それは……」
やっぱりバレてた。
すごく恥ずかしい。
「俺と関わること、イコール先輩の意に反する。俺と関わらないこと、イコール自分の意に反する。けれどどちらも選べない。矛盾。つまり中途半端」
ブスリと、何かが心に刺さった。
いや。
……違う。
元から刺さっていたものが、さらに深く突き刺さったような感じだろうか。
「どうする? どっちがいい?」
そう問う彼。
彼はラーメンをすすっていた。
豚骨味、そしてみそ味。
交互に食べていた。
美味しそうに、食べていた。
「先輩との現実か、俺との現実か。あの部署での現実で、私生活からの現実。全部君が辿り、そして未来へと作ってきたものだ。責任は自分で取らなくっちゃね」
「……そ、そんな無責任」
「うん、無責任だよ。俺はただ言っているだけ。でもどう受け止めるかは君次第。そんなもんさ」
今度は二つの味を同時に口にしていた。
「どちらか一方だ。そしてそれを受け止めるのは君。これまでみたく、人のせいにしてどちらも捨てるか、どちらも中途半端に触れるのか」
知ったような口ぶり。
私の身の上話はほとんどしていない。
本当に仕事の相談や解決策を話していただけで。
そのうえで、互いの好き嫌いや、私のちょっとした愚痴を言っただけで。
「態度、姿勢、話し方、目つき、会話の内容から九割把握できるよ。君は他責だ。諦め癖の付いたおバカさんだ。親のせいにして何をした? 先輩のせいにして何をした? 結局は君が決めて、君がしたことだ。人のせいにはできないよ?」
彼はとんこつ味とみそ味を交互に見て、先に豚骨味を優先して食べ始めた。
「俺を捨ててもいいよ」
「え」
そう言われて、何故か寂しくなった。
「人間関係なんて、その辺に転がってる石ころと一緒だよ。簡単にとっかえひっかえできるし、蹴飛ばすこともできる。興味が湧いたなら拾えばいいし、なんなら持って帰って大事にすればいい」
此処のみそ味はあんまり好きじゃないかな、と。
彼はそのラーメンを残してしまった。
「君が決めたらいいよ。その決心を俺は尊重するだけだ」
片づけを始めた彼。
私のお皿の上は半分ほど残っている。
「それじゃあ、また明日」
そう言って、彼は席を立った。
「……」
窓際社員と呼ばれていることに彼は気づいていた。
それについてどう思うか訊いたことがある。
返答は至って簡単だった。
興味ない、と。
仕事を気にする方が大事だ、と。
解りやすい返答だった。
「……」
料理を口に運ぼうとして、やめた。
残してはいけないという葛藤の末に、残してしまったのだ。
初めての事だった。
「あんた、またあいつと話したの?」
ある日、先輩にそう言われた。
鋭い剣幕だった。
近くにいた社員がそそくさと距離を置くのを見た。
「すみません」
何故かその言葉が出ていた。
口癖、だろうか。
「だったらあいつに近づくのやめな。あいつキモいし」
彼にも聞こえるように言っていた。
チラリと彼を伺うと、けれど彼は素知らぬ顔。
というかこちらに視線すら向けていなかった。
……寂しかった。
「あーあ。私もあいつみたいに楽したいなあ」
と、めちゃくちゃなことを言う先輩。
「……」
それが本音なのだろう。
嫉妬、 そして八つ当たりが。
——虚しくなった。
私は何をしているのだろう。
「窓際社員のくせに、私よりも高給取りでさ。ムカつくよね」
本人には聞いていないが、ある人がそう口にし、それがこの部署に噂として広がり、定着したのだ。
だがやっている仕事の内容を聞くと、おそらくその通りだと思う。
「……そうですね——」
と、言いかけて、私は口を閉じた。
じろりと先輩から視線が来た。
けれど私はその視線をじっと見た。
「何その目、ムカつくわね」
ずいっと近づく先輩。
きつい香水のにおいが鼻につく。
「……」
目。
目だった。
不思議と感じた。
彼女は、寂しい人なのだと。
「いえ、すみません」
そう言って、私は彼女から視線を逸らした。
何かが私の中から消えた。
「……ムカつく女ね、尻軽女」
明らかなパワハラ、セクハラ。
けれどどうしてだろうか。
その言葉がやはり軽く感じられた。
気にならなかった。
「私、異動しようと思います」
開口一番、そう口にした。
考えに考え抜き、そうして決めた一つの答えだった。
「へえ」
けれど彼は、山盛りから揚げから視線を離さなかった。
傍には醤油、からし、マヨネーズ、ワサビ、胡椒——。
大丈夫だろうか。
「前から呼ばれていた部署がありまして」
「何処?」
その部署を答えると、彼は笑った。
「いいんじゃないか? 今の君にはピッタリだ」
彼はそう言ってくれた。
嬉しくなった。
そしてマヨネーズから揚げを食べる彼。
美味しそうに食べていた。
「それであの……」
少し言い淀んでから、その言葉を口にしようとして。
「俺、異動になってね」
「え」
嫌な感じがした。
「ど、どこにですか?」
恐る恐る聞いてみると、彼は言う。
その返答を聞いて、少し安心した。
「一応、本社にいるんですね」
「まあね」
いろいろな調味料を付けて、食べ比べを始める彼。
「上がね。その部署の問題を解決してほしいって」
曰く、問題児がいる。
曰く、まとまりがない。
曰く、部署が機能していない。
「問題だらけだが、やりがいがあるよ」
そこへ異動するにあたって、彼は昇進した。
その部署の責任者として。
「そうなんですね」
彼が遠くに行ってしまう。
どんどん進んでいく彼に。
けれど追いつきたい。
「あの」
私は言った。
「また相談に乗ってもらって良いですかッ」
つい声を上げてしまった。
けれど周囲の喧騒に飲まれて消える。
しかし近くにいた数人はこっちを見た。
恥ずかしかった。
「そうだね。じゃあこれ」
そう言って手渡してきたのは、IDだった。
「この会社の会議用アプリをダウンロードして、このIDを検索して」
ワサビを付けた唐揚げを食べて、涙を溜める彼。
見た感じ、付け過ぎだと思う。
「連絡してくれたら応答するよ。すぐはできないかもしれないけど」
慌てて水を飲む彼。
そんな彼を見て、ふふっと笑ってしまった。
「はい、大丈夫です」
箸を進めた。
油こてこてのから揚げ定食。
前々から気になっていたそれを、私は口にした。
ジュワリと口の中に溢れ出る肉汁。
全身にその刺激が走り抜けた。
「美味しいものを口にするって幸せだろう?」
そう言われ、私は首を縦に振った。
「食べ過ぎると太るからな」
その言葉に、ちょっとムッとして。
私はヒールの先を、彼のすねにコツンと当てた。
それに彼は驚いて私を見て。
そして彼は小さく笑った。
私の胸の奥には。
刺さっていたものが無くなっていた。