男なんて死んでしまえっ
彼女と出会ったのは入学式だ。
一目見て夢中になった。
女性なら誰もがうらやむスラリとした身体。綺麗に形取った丸みのある胸。張のある臀部。彫刻家が女神を彫る際、美を追求したかのような妖艶さで、それでいて清楚で、そして誰をも魅了するような肢体をしている。極めつけはその相貌。画家の描いた妖精のようなあどけなさ、そして女神の如く柔和な笑みを浮かべる女性性のある彼女。すべての世代の人間を引き込むその雰囲気に圧倒された。
部屋に閉じ込めて一生お世話したいくらい、彼女は美しかった。
そしてその近寄りがたく、すべてを拒絶するような視線。
たまらなかった。
その凶暴性。その狂気性。その脅威性。
人を射殺すが如く睨む、とりわけ異性に対して向けるそれは人殺しのそれだ。
けれど彼女は罪に染まっていない。直感的に解った。
彼女は東京の人間ではない。九州のとある村出身ということ、年齢が同い年であること以外、しばらくしてもこの大学で知る人は誰もいない。
過去をくり抜いたかのように、経歴を抹消したかのように。
彼女について知る物は誰もいない。
そして彼女には友人らしい友人はいない。
その近寄りがたく、拒絶するような姿勢によって、誰も彼女と知り合うことが無かったからだ。噂では街に出て身体を売っているなんて根も葉もない憶測が飛び交っているが、私はこれっぽっちも、そんな彼女の悪い噂を信じていない。
そんなものではない。
もっと奥底に秘めたる思い。想い。
もっと熱く、もっと恋焦がれるほどの強い感情。
恐ろしくも修羅のような怒りのそれ。
――私は思う。
嗚呼、彼女が欲しい、と。
機会を待った。
その間、彼女に近づこうとしたものは皆、彼女の前から消した。正確には追い払ったというべきだが、少し言葉が悪かった。彼女の家は知っている。彼女の生活パターンも知っている。
すべてが愛おしく、すべてに愛おしい。
けれど私は、そんな彼女に声を掛ける勇気がなかった。
彼女の美貌を、彼女の神聖さを、彼女の誠実さを、あたかも偶然を装って出逢う、なんて醜い方法ですら使いたくなく、そうした厭らしい私を見せるのが怖かったから、汚したくなかったから私は一歩退いていた。
ただ遠くから見つめることしか出来なくて、ただチラリと視線を向けることしか出来なくて、ただそれだけでも、私の心臓は早鐘のように脈打った。身体がうずき、今すぐにでも彼女を抱きしめたい衝動に駆られてしまう。
縛り上げ、服を剥ぎ、嫌がる彼女を無理やり犯す。
そんな自分を彼女に向けたかった。めちゃくちゃにしてやりたかった。
けれど距離を置く。そうした方が互いに、いや彼女にとっては安全だからだ。
そして偶然にも。あまりに偶然にその時が来た。
お手洗いでバッタリした。
用を足して手を洗っていると、私が使っていた個室の隣から彼女が出てきたのだ。私が入ったときは既に閉じられていた扉。まさか彼女がいたとは思いもしない。
突然のことに頭が混乱し、何度も何度も手を洗っていた。
どうしよう、どうしようと頭が回転した。
そして――。
お手洗いには誰もいない。
私と彼女だけ。
嗚呼――想像するだけでぼうっとするではないか。
「……あの、大丈夫?」
「え?」
「鼻血が……」
「あ……」
言われて気づく。
鼻を通って出てくる赤い血液。
私の真っ白なワンピースに落ちて、赤いシミを作っていた。
「ハ、ハンカチ」
今日に限ってハンカチをポーチから出し忘れていた。
慌ててポーチを探るが、焦りが増してハンカチを見つけ出すことができない。
鼻をすすり、そして押さえながら探すがやはり見つからず、私は恥ずかしさで気がおかしくなりそうだった。
「私の使って……」
「え?」
差し出されたハンカチ。
青色の生地で、端に花が刺繍されたモノだった。
「で、でも」
「いいから……」
そして私の顎を持ち上げて、ハンカチで鼻を押さえながらつまんでくれた。
彼女の顔が目の前にある。
孤高で気高くも、儚くて恐ろしい彼女の美しい顔。
それが私を心配している。
私だけを見てくれている。
全身が熱くなるのを感じて、股の間が先より強く疼いた。ショーツが少し湿っている。
「な、何で止まらないの……」
焦る彼女の顔が可愛かった。
一生懸命に私を介抱してくれる彼女が美しかった。
「あ、ちょ」
身体から力が抜け、意識が朦朧として。
気づいた時には気を失っていた。
目を覚ますと保健室だった。
「あ、起きた?」
彼女がいた。
椅子に座って本を読んでいる。
「先生、目を覚ましました」
「遅かったわね」
四十代くらいの保健師の先生が、私の所へ来て様子を見る。
「状態は大丈夫そうね。少し貧血で倒れただけみたいだから安静にしていれば明日には体調が戻るわ」
「ありがとうございます」
彼女は先生に頭を下げた。
少し申し訳ない気持ちになる。
「私は少し席を外すから、この子の様子を見ていてくれる? 時間になったら戻ってくるから変える準備はしておいてね」
「解りました」
そして保健室を出ていく先生。
またも二人きり。
心臓が高鳴る。
「いきなり倒れたんだもの……びっくりした……」
言葉と言葉に間を開けながらも、彼女は口を開いた。
「ごめんなさい。体調が崩れると鼻血が出やすくって」
嘘を吐く。
かれこれ十九年。インフルエンザ以外で体調を崩したことはない。病気にだってなったことが無い。
「寝不足……?」
「そうね。昨日レポートの作成に時間がかかっちゃって」
これも嘘。
既にレポートは完成し、その見直しも完了している。あとは提出期限が来た時に出すだけだ。
「そうなの……そう言えば、もうそんな時期なのね」
窓の外を見る彼女。
私もそちらを見る。
電灯で照らされた構内。
風によって木々の枝が揺らめいていた。
ヒラヒラと枯れた葉が落下しているのを見る。
皆コートや上着を深く着て、ポケットに手を突っ込んで構内を歩いていた。
保健室の時計を見ると、十七時ごろ。
「あなた、名前は?」
彼女が名前を訊いてくる。
「寺内美咲。あなたは?」
「寺内さんね……私は神崎美沙貴」
知っている。その漢字もまた勿論のこと。
「名前が一緒なんて偶然だね」
それを知ったときは歓喜に包まれたのを覚えている。これは一種の運命だと、そう感じた。
「そうね……みさき、なんて……別に珍しくもなんともないと思うけれど」
冷たい言葉であしらわれた。
表情の乏しいそれを言うと、より一層冷たさを感じる。
けれど私は知っている。
本当は驚いて、声を上げたいと思っていることを。
彼女は恥ずかしがりで照れ屋なのだ。
今風で言うと、ツンデレと言う奴だ。
「可愛らしい名前よね。私は好きよ。自分の名前も、あなたの名前も」
「……私は好きじゃないわ……」
知っている。彼女の家庭事情も、彼女の身の上も、全部知っている。
知っていて、私は彼女に惹かれ、魅かれ、好きになったのだ。
本当は今すぐにでもベッドに引きずり倒してしまいたいけれど、それを我慢してる自分を誉めてやりたい。無理強いはしない。そう決めているのだ。
「えっと、神崎さんは東京の人?」
「違うわ……福岡県よ……中でも田舎の方だけれど」
「田舎っていいよねえ。私は生まれ育ちも東京だからここの雰囲気には慣れっこだけれど、人が多いのも困りもの。電車に乗って山登りに行くのが趣味だからね」
「田舎は良いものではないわ……田んぼと畑と古い風習、暗いし昏いしほんと寂れた場所だから」
そう言う彼女の言葉、そして雰囲気は暗かった。
美しい容貌からは考えられないそれを感じとって、憐れにも引き込まれてしまう。その物悲しさ。抱きしめたくなるような、胸を締め付けられる不憫さ。
これは耐えられない。
「東京はどう? 愉しい?」
話題を変えて、明るいものへと持っていきたい。
少ししてから反応が返ってくる。
「いろいろなモノがあって……まるで遊園地みたいだったわ」
「そうよねそうよねっ。私も子供の頃に街に出た時はびっくりしたもの。人とモノに溢れた凄い場所だってっ」
「ええ……ほんとに」
神崎さんは笑みを溢した。
「どこへ行ったの? モール? ブランド店?」
「本屋さんかな。とても広くて、見つけたい本が何処にあるかも解らないほどだった」
「どんな本を探していたの?」
「……ミステリー小説ね」
彼女が先ほど読んでいた本もそうだった。
「私も読むわよ、ミステリー小説。ちらっと見えたけれど、鞄の中に入れたその小説、知っているもの」
「え、知ってるの? 文川幸也先生をっ」
「ええ勿論、あまり有名ではないけれど、コアなファンの多い作家よね? 叙述トリックは難しいわ。一歩間違えればどんでん返しが一気に興覚めになる。一般トリックと違って、実はこうでしたなんてのは乱発しすぎてはいけない。なのにその作家は見事に昇華しきっている。散りばめられた伏線によって、違和感がないというか」
「そうなのよっ、最近は叙述トリックが流行りみたいで本当にうんざりしていたところだけれど、この人の作品は凝りに凝られているというか、不自然なミスリードがない絶妙な進行を作り出していて、『そうだったのかっ』じゃなくて『そうきたかっ』って思わせてくれる展開が面白くて――」
と、饒舌に話す彼女。
ハッと我に返って、寺内さんは俯いてしまう。
「ごめんさない……少しはしゃぎすぎてしまったわ」
「別にいいわよ。私もミステリー小説が好きだから、その話になるとめっちゃ早口になっちゃうし」
彼女と出会うまではミステリー小説は全く興味がなかった。こんなまどろっこしい内容の何が面白いのだろうと思っていたけれど、いざ触れて進めてみると案外面白かったのを覚えている。
「もうそろそろかしら」
時刻は十八時前になろうとしている。
十八字に閉まる手前、長居していては先生のお邪魔になる。
むしろあの時間に目を覚ました私。グッジョブだと思う。
こうして彼女と話をする機会を得られたのだ。長すぎず短すぎない時間。
私にとっては至福の時間である。
「もしよかったら、また話しない?」
そうさりげなく訊いてみた。
「え?」
「文川先生の作品でいろいろと話がしたいの。駄目かしら?」
そう言うと、彼女は少し目を右往左往させた。
そして、私を見て。
「いいの?」
「勿論っ」
私は笑顔で応えた。
「あ、ありがとう……」
彼女は可愛くはにかんだ。
――それから彼女と友達になるのは早かった。
ミステリーに限らず様々なジャンルの本について語り合った。一緒に本屋さんに行き本を探し回った。お昼だって彼女と共にした。お互いに家に行ってお泊り会をしたこともある。
一瞬だった。
彼女は周囲と壁を作っていたが、本心は誰かと繋がりたかったのだろう。私と一緒に過ごす時間を心の底から楽しんでいるように見えた。
けれど、どうも一線を置いている節はあった。
肩が触れるほどに近づけばそっと距離を離され、手を繋ごうとしてもそっと避けられて。
たしかに友達以上の距離感ではあるが、それ以上は無理だった。
勘の良い彼女のことだ。きっと私の言動に察しているのだろう。
そしてまたも、それは唐突に訪れる。
私は彼女の部屋で一緒に必修科目の小レポートを作成していた。
今日は、彼女はやけに静かだ。
彼女が薬を口にしていることも、両親からではなく義両親から援助を受けていることも知っている。
「…………」
「…………」
別段私に対する攻撃的な意思は感じられない。
私の家に来た時は、彼女のコレクションがあるクローゼットは開けないようお願いしている。彼女に私のそれがバレたという線はない。
彼女がこうして落ち込むことはこれまでも数回かあった。その時は大抵彼女と会うことはなく、約束もキャンセルされたことはあったけれど、私はそれを快く了承していた。だからこそ、今回もその症状が出たのだろうと。私がここへ来た時点で驚いていたた。彼女の様子から明らかそう言う日だと思ったのに、私を招き入れたからだ。
彼女の落ち込んだ表情を横からチラリと見た。
その落ち込んだ表情さえ美しいのだから何ともそそられる。
「…………」
「…………」
私たちは静かに小レポートを進める。
彼女と共に時間を過ごし始めて夕方。
そろそろ頃合いだろうと思って帰る支度を始める。
「今日は時間だし、そろそろ帰るね」
そう言って、立ち上がろうとした。
「……?」
けれど彼女は私の服を掴んでいた。
「もう少し、此処に居て……」
そう言われた。
「うん」
私は何も言わずに頷いて座る。
レポートを取り出すことなく、彼女の意に沿わせてただその場にいた。
「私……辛かったんだ……」
そして突然に開いた口から聞かされる、悲痛な言葉。
「うん……」
私はそれを黙って聞いた。
「パパからね、いっぱい痛い思いをさせられた。ママは私を守ってくれたけど、パパに叩かれて続けて今も入院してる。殴られたし、悪口だって言われて」
知っている。もちろん知っている。けれど口にはしないし、否定も何もしない。ただ頷くだけ
「学校に行ってもクラスメイトからいっぱい悪口言われて、学校裏に連れていかれて叩かれた。痛かった……変な目で見てくる男子からも、告白された人からも、皆から……」
「うん……」
今すぐにでも抱きしめてやりたかったけれど、私は堪える。そしてグッと拳を握った。爪が食い込む。
誰がやったのかも知っている。いつか追い詰めて殺してやろうとも。
「先生も変な目で見てきて気持ち悪かった……触られて、ほんと……気持ち悪かった」
知っている。全部知っている。全部……。
彼女に恋して一目ぼれして、彼女に関することは何でも調べた。調べれば調べるほどに反吐が出そうになった。涙があふれ出たのを覚えている。
「ちゅ……ちゅうがくの終わりのとき……お、おそ、おそわれて……いじめられるよりも、叩かれるよりも、その感触がすごく残ってて――」
「もういい。もういいよっ」
叫んでいた。
彼女を抱きしめて、優しく包み込む。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼女はしきりにそう言った。
頭を抱え、身体を震わせて泣いていた。
「きらいきらいきらい、全部きらいっ」
唐突に叫び散らし出し、私を押し倒した。
「ころす、ころすの、ころしてやるのっ!」
どれもがあまりに突然な出来事。
私は混乱し、あたふたする――なんてことはない。
彼女がこういった言動に走ることは前から知っていた。
彼女が私と会っていない日は、そんな自分を知っているからこそ、私と会いたくなかったのだろう。カメラとマイク越しに彼女の姿を見たことがある。ここまで暴力的でないにしろ、精神が不安定になって独り言や物にぶつけることは度々あった。
セキュリティが高く、防音に優れたこの建物では誰にも迷惑は掛からない。あるとすれば、自身の身体に傷をつける行為にも胸が痛んだ。
「うっ」
私の上に跨って、彼女は私の首を絞めてくる。けれど苦しくはなかった。痛くはあったけれど。口ではそうは言っているけれど、彼女は優しいから。
私の顔にぼたぼた落ちてくる涙に、私も涙を流していた。
抵抗はしなかった。
ただ彼女の気の向くままに任せていた。
「え、あ、っごめんなさい、ごめんなさいっ」
ふっと我に返って、自分のしていたことに気づき、彼女は私から離れて部屋の隅へと慌てて移動していた。
身体をこれでもかと縮こまらせて、ガクガクと震えて。
私は小さく咳き込みながら、彼女を見た。
目を瞑り、顔を覆って、膝を丸めて、自分を守るように身体を庇っている。
痛々しいにもほどがある。
彼女がいつもしている長袖。
温かくなっても半袖を着ることはなく。
きっとその下は――。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
「…………」
私はゆっくりと彼女に近づいた。気づかれないように悟られないように、それほどゆっくりとした緩慢な動きで彼女に近づいた。
目の前までくると、彼女は私に気づいてビクリと震えた。
身体を殊更に振るわせて、歯をガタガタと震わせて、後ろは壁なのにそれでも私から距離を取ろうと後退する。
彼女は涙を流す。
私も彼女と同じくらい涙を流していた。
「…………」
私はそっと手を差し出した。
ビクッと震える彼女。
私はそのままで、彼女の反応を見る。
私からはこれ以上何もしない。彼女が私の手を取ってくれることを信じて、ただ待つだけ。
「う、うう……」
彼女は私を見ていた。
伺うように、探るように見ていた。
私は何も言わない。ただ微笑んで、彼女を待つだけ。
「…………」
手を震わせながらも、彼女は私の手に手を伸ばしてくる。
私の首元に視線を向けて、喉を鳴らして逃げるようにまた。
今度は手を握った。逃げようとするその手を握った。
そして思い切り引っ張って、私の胸の中に彼女を収めた。
バタバタと暴れる彼女。
猛虎に暴れるそんな彼女を、拳や脚が少し痛かったけれど、私は力いっぱい抱きしめた。
彼女が諦めるまで目いっぱいに。
「大丈夫」
耳元でそう言った。
ビクッと震える彼女。
「私を見て」
彼女が顔を上げた。
「私だけを見て」
その眼をじっと見返した。
金色の髪が動きを止める。
青色の瞳が私を見た。
綺麗なハーフ。
嗚呼、綺麗だ。
「大丈夫、私だけを見て欲しい」
吸い込まれそうなその瞳。
未だに震える彼女。
私が顔を近づけると、彼女も私に顔を近づけてきた。
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