空っぽの1K
「このゴミ!」
狭い一間の部屋に、乾いた平手打ちの音が響き渡る。
小学生の娘は、母親の怒声を浴びながら、床に手をついて小さく丸まっていた。
「お前のせいであの人に……ッ!」
二度、三度。痛々しい音とともに、少女の頬は赤紫に膨れ上がる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――」
謝罪の言葉は、この部屋の湿った空気に溶け込み、既に意味を失っていた。何年も前から、彼女の言葉は空っぽだった。
「くそがッ!」
母親はゴミ箱を蹴り飛ばして中身を部屋中にぶちまけた。中古のブランドバッグをひったくるように掴み、鍵もかけずに外へ飛び出していく。
「…………」
静寂が戻った部屋で、娘は声を押し殺したままドアを見つめていた。
ゆっくりと立ち上がり、冷え切った水でハンカチを濡らして頬の熱を冷ましながら、彼女は散らばったゴミを一つずつ拾い始めた。床にこびりついた汚れは、そのハンカチで何も考えないようにして十分以上も擦り続ける。
脱ぎ捨てられた服を回収し、洗濯機に放り込む。ゴウンゴウンと回る水の渦を、彼女は空っぽの瞳で見つめ続けた。
「あ、ゴミの日」
月曜日の冷たい朝。
少女は部屋中のゴミを袋にまとめ、ぶかぶかの上着とサンダルを履いて外に出た。凍てつく風が、剥き出しの足首を刺していく。
「…………?」
ゴミを置き、ふと目をやった隅に、それがいた。
「……あ」
おかっぱ頭に、ピンクの浴衣。誰かに捨てられたのであろう愛らしい人形だ。
「…………」
少女はしばらくそれを凝視した。
祈るような手つきで人形を抱き上げ、薄汚れた髪を優しく払い、子供を愛するようにぎゅっと抱きしめる。
「ふふっ」
彼女の足取りから、重力が消えていた。
家とは逆方向へ軽やかに歩き出していく。すれ違う大人は誰もが少女の頬の傷、そして異常なほどのその微笑みを見て見ぬふりをした。
最後に見撃されたのは、二キロ先にある小さな神社の境内だったという。
少女に抱かれた人形は、命を得たかのように美しく笑っていたらしい。
そして母親は今も、娘を探している。
その狂気に満ちた形相は愛ゆえか、あるいは失った玩具への執着か。
だが彼女の激情を証明する者は、この世界の何処にも居ない。
「ずうっと一緒だよ」
あの日、人形の胸に顔を埋めた少女が漏らした、初めての幸福。
その瞳は、ゴミ捨て場の冷たい朝の光よりも、ずっと純粋で、透明であった。




