お嬢さま……、ではなくレアと誘拐
馬から降りて空を見上げた。数日ごとに似たような時間、いつもお嬢さまと遠乗りをする。
ゴウ、と激しい風の音がして見上げると、竜がこちらを目掛けて降りようとしていた。内側から輝く宝石のようなミッドナイト・ブルーの肢体がみるみる大きくなってくる。
その勢いが止まらないのは、乗りこなす人間がいないから?
お嬢さまを狙っているーー!!?
直感したレアはアフロディータを押し退けて、小さな体で止めようとした。
それが白い縁取りの口を開いたところまでは認識している。腹に衝撃を受け、視界は暗転した。
風の合間にお嬢さまの甲高い、レアと呼ぶ悲鳴が聞こえた気がする。
そんなに叫んだら、喉を痛めてしまいます。せっかく綺麗なお声なのに。
ーーーー…………。
トサッ、と軽い圧迫感から解放された。体は投げ出されたが、上手に衝撃を最小限に受け止めるものがある。
なんだろう、ゆらゆらする。
浮き上がりそうだった意識が、再び沈みそうになった。
「客室へ運ぶ。先んじて扉を開けてくれ」
知っている声。男の人。アルデコチェアの屋敷にいるどの人とも話し方が違う。はっきりした声は腹から出ていて快いのに、低くて胸がじんわりしてくる。しかし、腹まわりはなんだか冷えてきた。
(じゃあ、いま私はどこにいるの。これは夢……?)
斜め上に、黄土色の金髪。こんな近い距離に、男性の顔がある。ありえない。この人の腕の中にいるなんて。
「……ラウさん?」
青い瞳がレアに向いて、罪悪感でいっぱいに歪んだ。
「すまない。すぐに医者を呼ぶ」
医者、と疑問を挙げるとまた謝られた。
客間では椅子に座らせられ、入ってきた医師に軽い触診と質問を受けた。
「痛むところは?」
「いえ、とくに……」
「お名前と年齢、お勤め先は言えますか?」
「レア・エギレタ。二十歳です。リングロウ領アルデコチェア家でアフロディータお嬢さまの侍女をしています」
ふむふむ、と診察票を埋めていく医師は最後ににっこりとした。
「心身ともに異常なし、ともかく今日はゆっくりなさってください」
「はぁ……ありがとうございます?」
レアと似たようなメイド服を着た女性に湯浴みを勧められ、腹のあたりが竜の涎で濡れた服を脱ぐ。
見慣れない浴室、見慣れない壁紙、嗅ぎ慣れない香りのシャワーバブル。
ここはアルデコチェアのお屋敷ではない。
お湯に浸かっていると、ラウの相棒竜であるイアルイドに咥えられてきたことを現実として受け止め、記憶の整理ができた。
数刻前まで主人とともに平原にいた。それから。
ルティーシュ家からはなんの連絡もなかったのに、竜は襲来した。乗り手もなしに。
早くアフロディータの行方を確認しなければならない。ざばりとまだ温かい湯から上がった。
与えられた新品らしい裾の長いワンピースに着替えると、メイドから人を部屋に通していいか訊かれた。どうぞと答えて転がり込んできたのは、なめらかな金髪の青年だった。普段の隊服とは違い、余裕のあるシャツに暗い色のズボンを合わせている。
「申し訳ない!」
ブン! と下げた頭はつむじどころか、首の後ろ側まで見えている。
ラウがいる、ということはやはりここはスターサル領だろうと推測できた。状況はまだわからないけれど。
「ええと……?」
「イアルイドがレアを誘拐してきたんだ。覚えてるか?」
名前を呼ばれるのにまだ慣れなくてドキッとしてしまった。主たちが名前で呼び合ってることだし、お互い身分のない同士なのだから名前を呼び捨てにしようということになったのだったか。年齢差もあるし、主人を差し置いて親しくはしていないが。
「平原にいたときに、竜が降りてくるところは見えてました。誘拐……、だったんですか?」
「断じて計画されたものではない。信じてくれ。今日は俺と共に休日だったから、ただの空の散歩に出たんだと思って見送って……あいつがまさかレアを連れ帰ってきてしまうなんてこちらも驚いている……いや、言い訳だ。なんと謝罪すればいいか。本当にすまない」
姿勢を変えようともしない彼の腹筋がそろそろ心配になってきたので、楽にしてくださいと頼んだ。それからはぴしりと直立している。
「アルデコチェア家には知らせを特急で飛ばしたから、今日はこちらで接待させてくれないか」
ラウの提案にびっくりして首を振る。
「そんな、すぐ戻らなきゃ。お嬢さまがまだ平原で待ってらっしゃるかもしれません」
走り出しそうなところを肩を掴んで止められた。
「落ち着いて。初めての竜の飛行があんな形だったんだ。医師には大丈夫だと言われたが、安静にしていてほしい」
レアが否定する前に、力強いノックが響いた。
「団長、こちらにいらっしゃいますか!」
ラウが入れと促すと、するりと入ってきた男が敬礼する。
団長と呼ばれて平然と返事をした。レアは彼が竜騎士であることしか知らず、ラウも腰が低いので気兼ねなく話していたけども。竜騎士のトップである肩書きに目を丸くしているうちに、部下が話し出してしまった。
「飛札であちらから了承をいただきました。明後日ならお館さまも謝罪に同行できるとのことですので、フレーフォイルスを遣って日時をお伺いしているところです」
「わかった」
男を退室させて、ラウは眉を下げる。
「こちらの都合を押し付けることになり心苦しいのだが、きみにはルティーシュ家で二泊過ごしてほしい。明後日必ず竜で送り届ける」
「二泊って……勝手にお屋敷をそんなに長く離れられません」
「手紙でアルデコチェア当主にきみの滞在を納得いただけたから、心配とか迷惑は考えなくていい」
しかしレアの懸念はアフロディータだ。
家に連絡がついているのなら、いまごろアルデコチェア家からアフロディータの迎えも出ているだろう。それか彼女なら単身屋敷に戻って行動を起こそうとしていたかもしれない。
アフロディータに気苦労をかけたくなかった。ラウとこうして会話をしていることを知られたら、きっと悲しませてしまう。大人しくお嬢さまを拐わせておけば、いまのレアのようにラウと仲を深める機会があったかもしれないのに。けれど大事なお嬢さまが怖い思いをするのも嫌だ。だからやはり、レアが拐われるのでよかったのかも。
「ラウ、レア、入っていい?」
少年の沈んだ声がした。
ラウがドアを開けると、ローレンディの目線が泳ぐ。
「……レア? だよね?」
その目はしっかり目的の人物と結ばれているにも関わらず、本人確認される。レアは度々こういう経験をした。どうにも、仕事で髪をきっちり結んでまとめている姿と、髪を下ろしているときでは雰囲気からして違うと多々指摘されてしまう。
「はい」
「……イアルイドがすみませんでした!」
腰を九十度に曲げたローレンディ。さきほどのラウとそっくり。こちらも波打つ髪がさらりと落ちた隙間から首元が見えて、ネックレスをしているのがわかった。
彼の心中は感情と思考が渦巻いている。
今日の家庭教師の授業を終えて執事から話があると事のあらましを聞かされ、レアの身を案じた。そしてレアの誘拐で交流が断絶して二度とアフロディータに会うこともなくなるとすれば、ローレンディには絶望だった。もともと交流は少ない領地同士とはいえ、マイナスになるようなことはしたくない。
「ローレンディさまともあろうお方が、おやめください。私はなんともありませんから」
レアが膝をついて下から見ると、少年は泣きそうだった。
「竜の行いは我が家の責です」
「気に病まないでください。あの、これからイアルイドさんにもお会いできますか?」
「……いいのか?」
ラウに訝しげに確認されるので頷いた。
拐われたのだから竜を恐れると思われたのだろうが、実際はそうでもない。