山岸遥という男
山岸遥は鍵っ子だった。
その当時では少し珍しい共働きの両親のもとに生まれ、生活には何不自由することなく成長をしてきた。
家のことはもっぱら家政婦さんがやってくれていて、両親の姿を見るのはほとんど休みの日だけだった。
父と母は仲が良かったし、イベントごとにはきちんと休みを取って顔を出してくれる自慢の両親だった。たまにしか話を聞いてもらえないのは寂しかったが、小さな時からそうだったのでそういうものだと思っていた。
山岸遥は本を読むのが好きだった。
本の中にいるヒーローに、派手な活劇に、夢あふれる魔法にあこがれた。
いつか自分もそうなりたいと思っていた。
正しいことを、正しく主張し行うことこそが、正しいと思っていた。そうすれば誰もが理解し合えると信じていた。悪者は改心するし、ライバルとは手を取り合えるはずだった。
物心つき、いざ集団で生活しなければいけなくなったとき、あれ、なんか上手くいかないな、と遥は思った。
何度か自分の正義を主張してみた時、思ったより楽しくなかった。
自分が頑張って正しいことをしたと思ったとき、悲しそうな顔をして押し黙る人がいた。
自分の主張した正義を使って誰かをバカにする人がいた。
それは至極当然で、世間の人の誰もが遥の思う正義を支持するわけではなかったし、価値観だって違う。笑いを求める人は、まじめなばかりで面白みがないと遥のことを倦厭した。自らが話題の中心にいたいものにとっては、いちいち話の腰を折る遥は煙たい奴だった。
遥は悩んで悩んだが答えは見つけられず、尊敬している両親に相談することにした。
夕食を終えて、リビングの椅子に座りプラプラと足を遊ばせながら両親の帰りを待つ。大人用にあつらえられたこの椅子は遥には少し大きかった。
立派で誇らしい彼らのことだから、きっと自分の納得できる回答をくれるに違いなかった。そう思って待っていたが、帰ってきた母の最初の一言はしっ責であった。
当然と言えば当然だ、この時間までに眠りなさいと言われていたのに起きていたのだから。
それでもどうしてもと言いつのろうとしたところで、父が帰ってきた。
父も遥がこんな時間まで起きていたことに良い顔はしなかった。
しかし遥は諦めなかった、どうしても聞きたかったのだ、自分にとって絶対的な大人である両親が、この疑問にどんな回答をくれるのか。
結果は散々だった。
そんなくだらないことを言っていないで寝なさい、と深いため息とともに告げられた。
遥の期待や夢で膨らんでいた風船はしゅんと小さくしおれてしまった。
もちろん、毎日働いていればひどく疲れた日や、嫌なことがたくさん起こる日だってある。
彼の両親にとってたまたま今日がその日だっただけで、いつだって彼の話に取り合わないわけではなかった。彼らだって余裕がある日は遥の話を聞いてやったりもする。
一世一代の相談をするには、とてもタイミングが悪かった。ただそれだけの話だった。しかしこのことをきっかけに、遥の生き方は大きく変化することになった。
遥は一人でいる時間が多かったので、もともと感情表現が得意な子供ではなかった。この件をきっかけに、その傾向はますます加速することになる。遥は怒ったり、泣いたりをいつしていいかわからなくなってしまったのだ。
自身にとってあんなに大事だった質問に、まともに取り合ってもらえなかったのだ。両親に大切にされていないような気がして、彼らに嫌われそうなマイナスの感情を出すのが怖くなってしまった。
自分らしさを表現できず、かといって間違っていると思うことに身を委ねることもできず、心を閉じ込めたまま毎日が過ぎていく。
たまにしか会話をしない両親はおとなしい子だと思っていただけで、遥のそんな悲壮な思いにはついぞ気が付かなかった。
反抗期も訪れず、やがて高校生になったころも遥は変わらず優等生であったが、人に強く出ることのできない青年になっていた。人の顔色を窺うのは上手になったためか、それなりに好かれていたが、どこか満たされない日々を送っていた。
そんな遥にも年齢相応の青春が訪れる。
クラスの元気で、人気のある女の子に告白をされたのだ。
遥は特別優れた容姿はしていなかったが、成績もよく人当たりもよかったので、そんなところに彼女は好感を持ったようだった。
どうしたらよいのか、彼女のことを好きなのかどうかもわからなかったが、嫌いということはなかったし、彼女を傷つけることも嫌だったので、遥は彼女と付き合う運びとなった。
彼女は明るく元気で、遥も彼女と過ごす日々は好ましかった。
いつもより笑顔が増え、なんだかこんな毎日は素敵だな、と思っていた。
何より彼女は自分のことを好いてくれているのだと思うと、心穏やかな時間を過ごすことができた。
しかし半年も過ぎたころその楽しい生活は終わりを告げた。
「面白くない」「何を考えてるのかわからない」「遥君からは何も提案してくれない」「私のこと好きじゃないんでしょ」
と。
そんなことはない、遥は彼女を大事にしていたつもりだし、一緒にいる日々も楽しく思っていた。
咄嗟に何か言おうと思ったが、遥は何も言えなかった。
だって、彼女は少し怒りながら泣いていたのだ。
それをされると遥はもうどうしようもなかった。
未知の感情なのだ。ただ、それを見て遥は思った。僕はきっと彼女を傷つけてしまったのだろう、と。何がいけなかったのか分からなかった。
何も言えないまま、彼女との日々が終わった。
遥はあまり笑わなくなった。
冗談も言わないし、人が楽しそうにしているところにも近づかなくなった。
いつか何かの間違いで、また自分のことを好ましいと思ってくれてしまう人を傷つけたくはなかった。
まともな感性を持っていれば、もしかしたら彼女が泣きながら怒っていた時に、ちょっとしたすれ違いだと気づき「そんなことはない」と声を張り上げることができたかもしれない。しかし遥は相手の言葉を否定するのが怖かった。遥はまた大きくボタンを掛け違えてしまった。
大学生になり、ますますゲームや物語が好きになった。
それらは道筋が示されているし、自分がそれらを楽しんでいても誰も傷つけることがないからだ。
たまに寂しいと思うときもあったが、辛いと感じるほどではなかった。
やがて遥は自分は元からこういう、孤独を好む人間であったのだろうと自分で思い込むようになっていた。
少しずつ、自分が何に傷ついて、何を恐れてこうなってしまったのかを忘れていった。時間が彼の心を癒したとも言えるし、棘を抜かぬまま傷口が塞がってしまったととることもできた。
会社に就職したころだった。
両親が結婚記念日の旅行に出かけて、そのまま帰ってこなかった。
高速道路で玉突き事故に巻き込まれたそうだった。
遺体はひどい状態で、とても遺族に見せられる状態ではなかったらしい。
何が何やらわからないうちに葬儀は終わり、全員がいなくなって部屋に一人になってから、遥は初めてポロリと涙を流した。
自分は両親に何か孝行をしてやれたのだろうか。
誰もその疑問に答えてくれる人はいなかった。
遥はそれからおよそ20年、ただただ働いて、家でゲームや漫画や小説を消費する毎日を送っていた。
正しいことがしたかった。
自分を曲げるのが嫌だった。
人を傷つけるのが嫌だった。
人を悲しませるのが嫌だった。
でもどうしたらいいかわからなかった。
遥はただ、善性の人間であろうと努力していた。
感情表現が下手で仏頂面でも、行動で示していくしかないと思っていた。
世の中が間違っていても、人が傷つかないようにフォローすればいいと思っていた。
貧乏くじを引いても、他人が悲しまなければよかった。
いつしか彼は、自分が傷つくことは見ないようになり、他人の心ばかり見る人間になっていた。
山岸遥はそんな人間だった。
しかし世界を渡ったとき、身体が変わったとき、なんだか妙にすっきりとしてしまったのだ。
誰も自分を知らず、誰がどんなことを考えているかもさっぱりわからなかった。
そもそも自分が本当に自分なのか、今いる場所がどこだかすらわからないのだ。
人のことを考える余裕なんてなくなっていた。
そんな思考が全面に出てきたとき、彼の視界は突然クリアになった。
正に生まれ変わったような気分だったのだ。
ヤマギシハルカは確かに意固地で、お人よしで、仏頂面で、善良な人間であったが、今はもう山岸遥とは少し違う人間に変わっていた。
こちらでひとまず序章は終わりです。
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