ブロンテスの穏やかなる日
ナギが山の頂上に差し掛かった瞬間、巨釜山の天辺に巨人が姿を現した。
身の丈数十メートルどころではない巨人の顔はもはや雲に遮られて確認すらできない。
ナギは慌ててくるりと回って距離を取ってから、背中にいるハルカたちの方へ顔を向けて、ギャウギャウと何かを訴えている。
ハルカたちにとっては、規模は違えど一度は見たことのある姿だ。ブロンテスの幻である。
目を凝らしていると、虚像の足元では山肌の一部が静かに開き、本物のブロンテスが顔を覗かせていた。
「おーい、約束通り来たぞ!」
アルベルトが身を乗り出して手を振ると、虚像が一瞬ぶれてから消える。
ナギは虚像が消えた後も、ぐるりぐるりと近くでしばらく円を描いて飛んでいたけれど、ハルカたちに「大丈夫だから」と散々説得されて、ようやく恐る恐る〈楽園〉へ着陸したのだった。
水際に降りると、少し離れたところには鉄羊の集団がのっそりと歩いている。のっそりしているように見えても、常にバチバチと音を立てているので、どうやらナギのことを警戒しているようだ。
ナギはナギで、変な音を怖がってペタンと地面に伏せているからお互い様だろう。
「びりびりするからちょっかいかけたらだめですよ?」
注意すると、ナギはちらっちらと何度か鉄羊を見てから、ずりずりと後ずさりした。逃げ腰を全身で表明する姿に、ハルカは苦笑して頭を撫でてからその場を離れる。
ナギは大きく育った割に、ちょっと怖がりである。森にすむような魔物は、モンタナが獲物として教えてくれたから平気で狩ってくるのに、鉄羊のようなよくわからないものは怖がる。
怖いと思うのは思えるだけの知性があるからこそだけれど、子供っぽいその反応がハルカからするとかわいらしく見えるのだった。
今回もブロンテスの家へ招かれたハルカたちは、この間と同じ位置取りで腰を下ろして話しはじめる。
「大きな竜だ。驚いて空を飛ぶ魔物撃退用の像を出してしまった。怖がらせてしまったようで申し訳なかったな」
「いえ、きちんとお伝えしてなかったのが悪かったので……。ナギにはあとで私が謝っておきます」
「ふーむ、随分賢い竜のようだね。言葉も通じるのか」
ナギの方がしゃべるわけじゃないから微妙なところだけれど、モンタナによればちゃんと理解していそうな雰囲気があるらしい。実際細かい指示を出してもその通りに動いてくれるので、通じている可能性の方が高いはずだ。
「おそらく、分かっていると思います。卵の頃から育てているので」
「魔素だまりに住む竜に近い性質を持っているのかもしれないね。ハルカさんをみればさもありなんと言ったところか」
うんうんと頷くのはモンタナだ。
ナギは小さいころハルカの背中に引っ付いていることも多かったし、卵時代の持ち運びもまた、ハルカが作った障壁によって行われていた。
魔素が生き物に影響を及ぼすのだとしたら、ハルカが発している魔素が何らかの作用をもたらしていてもおかしくない。
「さて、そうだ、ヘカトルを引き取りに来たんだったな。アルベルト君が連れてきてからすっかり家の中で過ごすようになってしまってね。ほら、友達が迎えに来たぞ」
ブロンテスの陰から出てきたヘカトルは、口をもさもさと動かしながらのっそりとアルベルトの横まで歩いてきて、ぴたりと止まった。アルベルトが手を伸ばしてその背中を撫でようとして、弾かれたように一度手を上げる。
「相変わらずびりびりすんな、こいつ」
一度触ったら大丈夫なのか、それからはばふばふとやや乱暴に背中を撫でていたが、ヘカトルはあまり気にしていないようだ。
「まぁ、飼うと言っても特別な世話は必要ない。普通の草花も食べるから、放し飼いにしておいても大丈夫だよ。毛が伸びすぎてしまったらたまにカットしてあげるといい。鉄羊の寿命は人と同じくらいだ。何もなければあと八十年くらいは生きるんじゃないかな。今の年齢はアルベルト君と同じくらいだと思うよ」
「へー、お前何歳なの?」
アルベルトが尋ねると、鉄羊は食んでいた草を飲み込んで「めぇえ」と答えた。もちろん何を言っているかはわからないけれど、返事はちゃんとするようだ。
「大丈夫そうだね。……そういえば、ここに来ようとしていた人たちは帰ったのかい?」
「はい、帰りました。街に住む人たちの一部も、ここの生活を脅かすことのないように気を付けてくれているので、そうそう誰かが来ることはないと思います」
「それはありがたい。あまり騒ぎになるようなら、私みたいなのはどこかに隠れたほうがいいだろうしね」
「……もしそんなことがあれば、何とか私の方へ連絡を入れてください。ブロンテスさんと……鉄羊たちくらいならば場所を提供できるあてもありますので」
「まぁ、大丈夫だと思うんだけれどね」
拠点の奥。
暗闇の森を抜ければそこは破壊者が跋扈する無法地帯になる。そこでならブロンテスたちが住んでいたって誰も文句言わないだろう。なにせその中でもっとも人の居住地に近い区域に君臨する王が、こんな提案をしているのだから。
「ブロンテスさん」
モンタナが少し大きな声を出して一つ目の巨人の気を引いた。
のっそりとした動きで顔を寄せたブロンテスが答える。
「なにかな?」
「十八年くらい前に、ドワーフが一人ここへきたですよね?」
「……ああ、傷だらけの、良く体を鍛えたドワーフが来たよ」
「その時、魔物から獣人の子を助けてくれたですね」
「ああ、偶然だった。驚かしたら丁度赤ん坊が落ちてきてね、慌てて手を伸ばしたんだ。どうしていいかわからなくてね、結局治療してあげたドワーフに任せることにしたんだ。念のため彼の帰り道にいた魔物は皆脅かしてどかしておいたから、無事にふもとまでたどり着けたと思うのだけれど……。……そういえば、モンタナ君はあの時の子かな。髪の色合いがそっくりだ」
「……そです。助けてもらったドワーフが、僕の父さんです。昨日聞いて知ったですよ。ありがとです」
「そうかぁ、ちゃんと元気に大きく育ったんだなぁ。礼には及ばない。元気に育っている姿が見れただけで、大層気分がいいよ」
ニコニコと笑っているブロンテスは、裏もなく本当に嬉しそうだ。
「ブロンテスさん! そんなわけだから、本当になんかあったら頼ってくださいねー。流石に仲間の命の恩人からはお金とらないので」
「おう、ヘカトル連れてくしな。また殴ってほしかったら言えよな」
「うん、殴るのはもういいよ。だいぶすっきりしたからね。でもそうか、奇妙な縁だね。それだけでも私がここで生きていた価値があったのかもしれないね」
出会った時よりもだいぶすっきりとした表情をしているブロンテスは、しみじみと言って茶を啜った。
「ああ、そうだ。君たちがまた来ると聞いて、そっちの小さい台所の方も整備しておいたんだ。好きに使っていいからね」
気づかなかったけれど言われて見てみれば、確かに人サイズの台所が随分と綺麗になっている。大きなブロンテスが、指先で丁寧に掃除をする姿を想像して、ハルカはどうにも頭が下がる思いだった。
「ありがとうございます。大変だったでしょうに」
「いやいや、人が来るのが嬉しくて。掃除するのも楽しい時間だったよ」
穏やかな巨人ブロンテスは、照れたように笑いながら毛のない頭を手のひらで撫でるのであった。





