近所のおじさん
ハルカたちは海の魔物に追いやられて、砂浜から離れた場所に座っていた。地面に座ってぼんやりと海を見ているので、先ほどとやっていることには大差ない。
「あの大きいの、あれも蛸だった気がするんですよね」
「え。あの気持ち悪いののでかいやつってこと?」
「はい。ですから空を飛んでいる分には襲い掛かってこないと思うんですけど……」
「うーん、ちょっと嫌だよね、あの生き物が下にいるって思うと」
「そうですよねー……」
魔物というのは魔素を取り込んで進化した動物だ。長いこと駆逐されないでいると代を重ねるごとに、魔物としての質が上がり、より強くより賢い魔物が生まれる。海というのは人の手が及ぶ場所ではないので、どうしても魔物の駆逐が遅れるのだ。
例えば人魚だったりマーマンだったりの破壊者がいれば、上手いこと数を減らしてくれるのだけれど、この辺りには当然住んでいない。きっと人族がこの辺りを訪れた頃には、既に手を付けられないほどに海の魔物が育ってしまっていたのだろう。
「あれ、強いのか?」
そう尋ねたのはレジーナだ。
小山のような大きさの魔物が弱いはずはないが、どれぐらい強いのかはちょっとわからない。
大型の船でも簡単に沈められそうだが、そんなことだったらハルカでもできる。自分で作った障壁をしならせることは当然できるし、あの巨大な足を跳ね返せるとかというと、やってみないとわからない。
「案外ぶっ殺せるんじゃねぇの?」
「……試してみないとわからないですが、海の中に引きずり込まれるとまずいですからね」
「じゃあ海に引きずり込まれないようにしたらいいだろ」
「……確かにそうですね」
例えば姿を見せたところを完全に障壁で覆ってみるとか、海の水を凍らせてみるとか、手段はなくもない。空を飛んでいけば離脱はそれほど難しくないような気がする。
魔法を十分に準備して挑んでも勝てない相手かと言われると、そうでもない気がしていた。
比べては失礼かもしれないが、大竜峰の真竜であるヴァッツェゲラルドと対峙したときの方が、ビリビリとした緊張感があった。
「確かにじゃないよ、ハルカ?」
見た目の気味の悪さに飲まれているコリンは、あまり気が進まないようでハルカのことをたしなめる。
「なんにしても、街へ行った三人の報告を待ってからですかね。他に方法があるようなら無理にこの海を渡らなくてもいいですから」
「でも、あいつまだこっち狙ってるぞ。舐められてる」
そう言ってレジーナが海を指さすと、丁度良く先ほどの巨大なタコが目元の辺りまで海面から浮いてくる。ぎょろりぎょろりと動く目玉に気付いたナギは、慌ててハルカの下へ戻ってきた。
「どうしたもんですかね」
ハルカは手前に広く障壁をはったまま、しつこく近海に居座る蛸を眺めた。全長が分からないから軽い気持ちで障壁を解くわけにいかないのが面倒なところだ。
だからといってあまり内陸に避難しすぎると、ナギの姿を見た人がでて、また騒動になりかねない。
怖がって震えているナギはかわいそうだが、いましばらくは、仲間たちが戻ってくるのを待つしかないというのが現状であった。
夕日が沈むにつれて海も少しずつ色を変えていく。
人の手が入っていない美しい海から、時々どぷりとぬめりけのある巨大な蛸の頭が出てくるのは非常に気味が悪い。
「うお、なんだあれ!」
帰ってきて早々、アルベルトは海を指さして大声を上げた。
海の方を見ないことにしていたらしいナギは、帰ってきた仲間たちを見て喜んでお迎えに出ていったのに、戻ってきて早々アルベルトの指先を見てしまい、またぺたんと地面に伏せてしまった。
「魔物がねー、ああやってたまに出てきてこっち見るのよねー」
一日中その光景を見ていたコリンは、もはや慣れっこで反応も鈍感になっている。ここまで足が伸びてこないとわかっていれば、ただ気持ち悪くて巨大な生き物でしかない。
「へー、でっけぇ……。倒して食わねぇの?」
「アル、あれ、食べたいの?」
「あ? 魔物の肉ってうまいの多いだろ。あれもうまいんじゃね?」
「毒とかありそうじゃない?」
「いや、毒はないよ」
「へー……、え、誰!?」
のんびりと気を抜いていたコリンは、聞きなれない声に慌てて飛び上がって振り返る。するとそこには、人のよさそうな顔をした男性が一人「やぁ」と言って手を挙げていた。
ハルカはユーリと一緒に大蛸を警戒しながら砂浜へ降りていっていた。蛸が食べられないのならば、せめてナギが食べていた甲殻類を食べたい。
ただの食欲に突き動かされた散歩だったが、それはユーリも一緒だった。
「カニ、食べたことないけど、美味しい?」
「おいしいですよー。殻をむくのがちょっと面倒ですけど」
「蛸もたべたことない」
「うん、蛸もおいしいですよ。さっき捕まえたのはとられちゃいましたけど」
氷漬けにされた甲殻類を障壁の籠の中に放り込んで、ハルカは砂浜をユーリと手をつないで歩く。おそらく同じ日本にいたはずなのに、ユーリはあまりあちらの食べ物に詳しくないようだ。
どんな人生を歩んできたのか教えてもらっていないが、ちょっと普通とは違う人生だったことは想像がつく。ハルカがいた頃の日本で、十代半ばで亡くなるというのはそういうことだ。
こうして色々話せるようになったのだ。
美味しいものも食べさせて、楽しい生活をさせてやりたいと願うのは当たり前のことだ。
砂浜を上がり、平地を進み、焚火が見えるところまで来ると仲間たちが帰ってきているのが見えた。しかしその影がいつもよりも一人分多い。
やや早足になったハルカは、火の明かりでその顔を確認できるところまでくると、目を見開いて声を上げた。
「フォルカーさん! どうしてここに?」
「やぁ、久しぶりだね、ハルカさん」
フォルカー=フーバー子爵。
ハルカたちが初めての遠征の時に知り合った、ドットハルト公国の貴族がそこで穏やかに笑っていた。





