食べ物の認識
別にレジーナはここに残りたかったわけではない。
街に行くのが面倒だったのだ。
そもそも人と関わることが好きなわけではないし、街に出て人の目に付くことも好きではない。それだったら何もないところで素振りしているか、ぼーっとしている方がいくらかましだ。
それにユーリがこちらに残るというのならば、自分も残ったほうがいいだろうという考えもあった。
ハルカとコリンは強いが、戦闘の勘となると、アルベルトやモンタナには及ばない。それはよーいドンの戦闘では強いが、不意打ちには弱いということだ。護衛にはあまり向いていない。
だからなんとなく、海の方を見ていた。
海に魔物がいて、海岸線上に人が歩いていないのならば、それは陸地にも攻撃を仕掛けてくるということだからだ。
海に白い泡が浮く。そこだけ不自然に水の動きが阻害されているということだろう。隣でとぼけた顔をしている二人に向かって、レジーナは仕方なく声を発した。
「なんかいるぞ」
レジーナの指さした方向を見たハルカは、即座に海側一面に障壁を張り巡らせた。なんかの正体が分かったわけではないが、攻撃が飛んでくる可能性があるのならば、備えておくべきだ。
「なにあれ、尻尾?」
海を割って出てきた一本の細い何か。知らないものには尻尾にも見えるかもしれないそれの正体を、ハルカは知っている。
柔軟な動きをして、吸盤をいくつも備えているあれは、尻尾ではなく足だ。非常に太いその足はそろりそろりとナギたちの方へ伸びて、そして障壁に阻まれて止まった。
先でつんつんとつつき、やがてバンバンと足をたたきつけ始める。それが二本三本と増えていくのを、ハルカたちは砂浜で遊んでいたユーリとナギへ近寄りながら見守っていた。
「でっかー……。ハルカ、障壁大丈夫?」
「はい、恐らく。以前よりは色々と工夫しているので。あれは……蛸ですかね、イカですかねぇ……」
「なにそれ?」
「えーっと……、軟体生物で……、まあ、食べるとおいしいです」
「食べるの? あれを? なんか気持ち悪くない?」
「見た目は悪いですけど、結構おいしいんですよ」
日本人的な発想だ。海産物を見ると基本的に食べ物に見えてくる。
透明感のない濃い色を見る限り、蛸なんじゃないかと思うのだが、全容が見えないのではっきりしない。
はじめのうちはおっかなびっくり腰が引けていたナギだったが、しばらくするとそーっと鼻先を近づけてその太い足を観察し始めた。
やがて砂浜へ姿を現したその魔物の頭は丸く、ずりずりと壁へ寄ってくる。
「蛸ですねぇ……」
大きさは大体ナギの頭より少し大きいくらい。確かに人なんかは簡単に食べてしまいそうな大きさだが、並べてみると迫力がちょっと足りない。
吸盤を使って壁を登り始めたところで、レジーナがぽつりとつぶやいた。
「きめぇ」
「うん、気持ち悪いね、あれは……」
女性には絶賛不人気である。
文句を言いながら歩いていったレジーナは、ユーリの下へたどり着くとその体を抱き上げて戻ってくる。
「とりあえず仕留めないといけませんね」
ハルカは見えない障壁を登っていく不気味な巨大蛸に向けて、ついっと指を動かした。
相手の命を奪ってもいいのなら、とれる手段は無数にある。
特に日本人であったハルカからすれば、陸上の動物を仕留めるよりも、海産物を仕留める方が、圧倒的に忌避感がなかった。
砂浜から突如飛び出した氷の柱が、空に向かってまっすぐ伸びて、蛸の頭を貫いた。
唐突な致命傷に巨大蛸は狂ったように暴れる。手足をばたつかせ、口から墨を吐き出し障壁を真っ黒に汚す。ナギは慌てて障壁の近くから撤退だ。
「わぁあああ、ちょっとなにあれなにあれ、気持ち悪い!」
バタバタと暴れ出した時点で、コリンがハルカの腕を引っぱりながら叫ぶ。ハルカはというと冷静なもので、生命力が高いなぁと感心していた。頭の片隅ではどう食べるか算段を立てている。
もしこれがこの海の魔物の全容だというのなら、海を渡ること自体は問題がなさそうだとハルカは思っていた。
その時であった。
突然障壁に海水がかかり、暴れていたはずの蛸が波と共に海に引きずり込まれて消えていく。
墨が洗い流されてクリアになった視界に、突然極太の何かが叩きつけられた。
障壁がたわむ。
「わ、わぁ……」
ハルカの腕を引っ張っていたコリンが、言葉をなくしてその威容を見上げた。ナギですら見上げるしかない巨体が、海から頭の一部をのぞかせていた。
ここまで大きいと、もはや怪獣だ。
「も、もしかして、さっきのママとか、かな?」
「い、いえ、なんかさっきの蛸を食べてるみたいなので、た、多分違うと思います」
「いったん逃げない? 戦うとか、そういう大きさじゃないよあれ。巨人でも竜でも食べちゃいそうだよ?」
「……そうしましょうか」
ビタンと再び叩きつけられる、視界のすべてを塞ぐ巨大な足。びりびりと空気が揺れて、障壁がたわんだ。
拠点にいる間に色々と訓練したおかげで保っているが、以前だったらとっくにぶち割られているところだろう。
砂浜から離れ、遠く林の方まで避難すると、ようやく障壁に足を叩きつける音がやんだ。海の上に見えていた山のような頭が、ブクブクと青色の中に沈んでいく。
もう出てくる様子はなかったが、それでもハルカはしばらくの間障壁を解除することができなかった。
「……ハルカ、やっぱりこっちの海渡っていくのやめない?」
「う、うーん……、確かに悩んでしまいますね……」
「だってほら、ナギも嫌がってるよ?」
いつの間にやらナギは、ハルカの後ろに避難して地面に伏せている。
いざとなれば一緒に飛んでくれるのであろうけれど、もう砂浜には近づきたくないようだった。
「怖かったね」
ユーリが鼻先を撫でてやると、ナギはぐるっと小さく返事をして、ハルカの様子を窺った。ナギにしてみればこの集団のリーダーはハルカだから、結局その言葉がすべてだという部分はある。
できれば行きたくないなーという気持ちが込められた視線を向けられたハルカは「まぁ、そうですよね……」と呟いて、地図を地面に広げるのだった。





