捕まえた
ゲパルト辺境伯は赤絨毯の上を堂々と歩き出す。
その威風堂々とした姿は、明らかな強者の気配を醸しており、プライドの高い吸血鬼たちですら道を空けるほどであった。しかしその瞳や表情には自由な意思が感じられず、確かに魅了の魔法にはかかっているようである。
ハルカはユーリをそっと障壁のベッドに下ろし前に歩み出る。ベッドをアルベルトとコリンの間に止め、一言発しようとした瞬間にゲパルトの体がぶれたように見えた。
左足を軸にして放たれた蹴りが、道を空けていた一人の吸血鬼の頭部を鈍い音と共に破裂させる。高く上げられた右足は、そのまま吸血鬼の体を踏み砕きながら床に叩きつけられる。と、同時に振るわれた右拳が、もう一人の吸血鬼の腹部にあたり、その胴体を火薬でも使ったかのように爆散させた。
ほんの一呼吸にも満たない間に二つの砂山が出来上がった。
「なっ、にをしているの!?」
カーミラが叫ぶのと同時に体を縮めて反対側へ飛んだゲパルトは、再びその右拳をうならせる。避けることが間に合わないと踏んだ吸血鬼は、辛うじて顔面の前にその腕を出して防御態勢をとったが、努力虚しく腕と頭部が同時に弾け飛ぶ。
次は自分だと察した吸血鬼がプライドを全てかなぐり捨てて走り出した直後、その心臓付近に小さな穴が空く。吸血鬼の体は前のめりになりながら数歩前に進み、そのまま床に砂を散らすことになった。
「あと二人です」
「犬ぅうう! 人間を蹴散らせと言ったはずよ!!」
短剣を前に突き出したモンタナの呟きは、カーミラの声にかき消される。
「ユーリを頼みます」
「おう」
先ほど飲み込んだ言葉をアルベルトに託して、ハルカが前に出ると、イーストンが後ろから囁く。
「隙を見てあの吸血鬼仕留めるから、少しだけ時間を稼いで。そうしたら魅了も解けるはず」
「わかりました」
「どうしてこうなるのよ! もういや!! なんであんたいつもちょっと言うこと聞かないの!? 人間! ぶっ飛ばすのは人間よ!」
カーミラの声を聴いたゲパルトの体が動く。大きな体をしているというのに、体幹がぶれず、頭の位置を変えずに歩くせいで初動が掴みにくい。
いつの間にかその蹴りの範囲に入っていたハルカは、慌てて障壁を自分の周りに張り巡らす。
足がぶれて頭部狙いの必殺の蹴りが放たれる。障壁が割れるのは覚悟のうえで、腕を上げてその蹴りをガードする。
二枚、三枚、障壁が割れて腕に足背がぶつかる。障壁のおかげでインパクトタイミングがずれたのか、思ったような衝撃はなかった。
それでも殺しきれなかった勢いが、ハルカの体を浮かせたが、逆側に張り巡らせていた障壁にぶつかり、体が吹き飛ぶことは避けられる。
真竜と戦った時のように、衝撃で距離を取らされた間に仲間たちを狙われるのはごめんだった。
一度足を引くだろうと思っていたところで、ハルカの首に負荷がかかる。足の甲がそのまま引っかけられて、首をへし折る勢いで前に引っ張られていた。
ハルカが一歩足を前に踏み出してやや前傾の姿勢を維持し、その右足に腕を絡める。上手く捕まえたと思った瞬間、ハルカの眼前には、右足の引く力を利用して飛び上がったゲパルトの膝が迫っていた。
思わず身を竦める。
膝と額がぶつかり、その勢いにハルカの体が大きくのけぞる。景色が吹き飛び目が回りそうだ。すぐに後頭部に衝撃が走り、ハルカは自分が背中から床に叩きつけられたことを悟った。
ユーリの「まま!」と叫ぶ悲鳴が聞こえた。
心配させてしまった、悪いことをした。そう思い、ハルカは苦笑する。でももう大丈夫だ。
「捕まえた」
景色が回転する中で、しっかり腕を絡めていたゲパルトの足がボキリと音を立てたのを聞いていた。人の骨が折れる音を聞いて喜ぶ日が来るとは夢にも思っていなかったが仕方がない。
はっきり言って身体能力以外でこの相手を何とかしようというのはハルカには無理だった。はじめから障壁と、丈夫な体と、この怪力頼みだ。
寝転がったまま何度も左足の踵を叩きつけられながらも、ハルカは勝利を確信していた。あとは仲間たちがカーミラという吸血鬼に勝つだけだ。どんな攻撃を受けようとも、この足を放す気はなかった。
「捕まえました!」
「うおおおおおらぁあ!」
ハルカが叫ぶと、それとほぼ同時にアルベルトの雄叫びが聞こえ、鈍い音と共にゲパルトからの攻撃がやむ。目を開けて首を上げてみると、額から血を流したゲパルトがその場で床に伸びていた。
大剣を振り切った姿勢で、アルベルトが荒い息を吐く。
「あー……、くそ、マジで身体強化して殴って、やっと意識飛ばせたか、死んでねぇよな。あ、ダメだくらくらする」
「犬!? あ、くっ!!」
大立ち回りしていたカーミラだったが、ゲパルトの敗北に動揺する。その瞬間、細い首にベティによる斬撃が閃き、カーミラの首が宙を舞った。あまりにスプラッタな光景にハルカは思わず眉を顰め目をそらした。
そうしてその先でユーリが自分の方を心配そうに見つめているのに気がつき、ハルカはほっと息を吐いて空いた手を挙げる。
「大丈夫ですよ、ユーリ」
これで終わりだ。吸血鬼騒動はもうこれ以上酷いことにならないだろう。そう思ってハルカが体から力を抜いたところで、地面に落ちたカーミラの首が喚く。
「犬ぅ! なんで負けてるのよぉ、言うこと聞かないし、役立たず! あほ犬! もういらない!!」
「……ぐうおおお……、足がいてぇ、頭もいてぇ……。くそ、負けたのか」
「犬!! 起きたなら戦いなさい!」
早くも目を覚ましたゲパルトが、寝転がったまま呻くと、いらないと叫んだはずの首だけのカーミラが目を輝かせて指示を出す。
再び緊張したハルカたちだったが、ゲパルトはそのまま大あくびをして、小指で耳をほじくり、その先端についた耳垢をふっと吹き飛ばす。
「嫌だね、だってあんたさっきもういらないって言ったじゃねぇか」
「な、な、な、なんで魅了が解けてるのよ!」
「そりゃあ、あんたが死にそうだからじゃねぇの?」
「し、死にそう? 私が? 千年生きている私が、死ぬの? 嘘よ、そんなわけないじゃない」
「いや、死ぬだろ。だって首だけじゃんか」
「え、殺さないわよね? 私は死なないわよね?」
目だけをきょろきょろと不安そうに動かすカーミラは、いくら美人といえども完全にホラー映像だ。しかしそれを見下ろすイーストンたちの視線は冷たかった。
「嘘、嘘嘘嘘噓、嫌よ。嘘よ。私は死なないわ。犬、助けなさいよ。私あなたに餌もあげたし、体も拭いてあげた。髪も梳いてあげたし、毎日撫でてあげたわ! 助けなさい……、私を助けなさいよ!!!」
「えー、どうすっかなぁ。っていうか、俺も負けたし、そんなの決める権利ねぇもん」
「嫌、嫌よ……」
静かになってしまったぼろぼろの謁見の間に、目じりに涙を溜めたカーミラの荒い呼吸音だけが響く。