仕事の風景
広い執務室には、印鑑を押す音、紙をめくる音、それに小さな足音が響く。時折隣の部屋から笑い声が聞こえ、作業の手は一瞬止まり、またすぐ再開する。実に平和な昼下がりだった。
押印された紙は、ほいほいと適当に机の前に投げられるので、ハルカは黙ってそれを集めて、種類別にまとめ直していた。明らかに領地関係の見てはいけない書類や、他勢力からの依頼書のようなものも混ざっており、目を通すのには気が引ける。
はじめのうちにそれに気付いたハルカは、作業に混ざることを辞退しようとしたが、ノクトとダグラスという年寄り二人に押しとどめられて、結局手伝うことになった。
ノクトはともかく、ダグラスからは何をもってそんなに信用されたのかが謎である。
黙々と作業を続けていると、視線を書類に落としたままノクトが語り掛ける。
「作業に慣れていますね。この手の経験が?」
「それなりに。師匠も手慣れていますね。毎日働いていればそれほど手間にはならないのでは?」
「でも遠出しないと退屈でしょう? 向いていないんですよ、こういうのは。……それに、組織が安定した時点で、もう僕がここでやることはあまりないと思ってます。たまに帰ってきて、力が変な方に向いていないか確認すれば十分です」
「そういうものですか」
「ええ、そうですよ」
師弟がとりとめのない会話をしながら仕事を続けている間、広い部屋の中ではユーリとナギが歩き回っている。捉まらなくても歩けるようになったユーリが、ふらふらと進むと、ナギがそれについていく。
ふいに足を止めたユーリに、後ろから来たナギがぶつかり、二人はもつれあうように床に転がった。
ユーリは泣き出したりすることもなく、下敷きにされてギャオギャオ声を漏らすナギの頭を撫でてやっている。
「ユーリ、ナギ、怪我はありませんか?」
「だいじょうぶ。ナギ、ごめんね」
そうしてまたユーリが歩きだすと、ナギは懲りずに後ろをついていく。しっかり仲良くしているようで、ハルカとしては安心だ。
大竜峰でみた大型飛竜は中々強く狂暴だったから、一緒に過ごさせるのは少し不安もあったのだ。いざとなったらしっかり躾けをしなければいけないと思っていたが、この調子なら大丈夫そうだ。
子供が生まれたら、犬や猫を飼って一緒に成長させてやるといいと聞いたことがある。ナギがその犬猫の代わりに、ユーリに寄り添って一緒に育ってくれるのを願うばかりだった。
新しい紙が渡されなくなったので、どうしたのかと思いそちらを見ると、ノクトは紙の束をまとめて横によけていた。
ハルカはそれを横目で見て、まとめた書類をテーブルに移し、新しいものをデスクに乗せて尋ねる。
「それは?」
「これは仮メンバーの書類です」
「承認しないんですか?」
「んー。ダグラスがこの辺りのものを承認しなかったというのには、意味があると思っています。であれば、直接会って決めたほうがいいでしょう」
「なるほど、時間がかかりそうですね」
「当然面接はハルカさんにも手伝ってもらいます」
「……私は部外者ですが?」
「師匠の真面目なお願いは聞きましょうねぇ」
「今のはまじめに言ってますが?」
「一緒に面接してくれないと、退屈になって全員落としちゃうかもしれませんねぇ」
「……そんなことはしないと信じていますが、お付き合いすることにします」
断っても言い募るということは、本当に自分の協力が必要な可能性がある。それにどんな人が宿に入りたがるのか見させてもらうのも、いい経験になるだろうとハルカは思った。
もちろんただ楽しみたいだけかもしれないが、それはそれで構わない。ハルカだって、ここでノクトと離れることになるのは寂しく思っていた。数日間仕事を共にするくらいは、望むところだった。どうせ決定権はノクトにあるのだろうし、一緒に面接するといっても、隣に座って話を聞いているくらいのものだ。
そんなに大変な仕事にはならないだろう。
そうハルカは楽観視していた。
ところ変わって、客室ではダグラスと仲間たちが談笑していた。
ノクトとの契約の護衛代金は、目が飛び出るような金額になっていた。しかし苦笑しながらも、ダグラスが一括で支払ってくれたものだから、コリンは過去にないくらいご機嫌だった。
「それにしても、ノクトさんって領主さまだったんですね。拠点も大きいし、こんなに長いこと居なかったんじゃ、困っていたんじゃないですか?」
「そうじゃな、本当に困ったもんじゃ。よく連れて帰ってきてくれたと感謝しとるよ」
「ハルカがノクトさんと師弟になったからここまで一緒に来ることになったんですけどね」
「それじゃが、ノクト様が冒険者の弟子を持つとは驚きじゃよ」
そう言って体をゆすって笑うダグラスに、アルベルトが尋ねる。
「でもあいつ宿主なんだろ? 弟子なんてたくさんいるんじゃねーの?」
「まさか。他人に気を使うような人じゃないからの。特にただ強くなりたい輩や、野心や下心をもって近づいてくるような奴の相手は、まずせんな。今でこそあんなに穏やかじゃが、『月の道標』を作った頃は、もっと怖い人じゃったしなぁ。そんな人でも魅力はあったがな」
「怖いって言われても想像つかねぇよ」
「皮肉屋じゃったし、割と短気じゃったよ。今みたいになったのは、ここ三十年くらいじゃなぁ。王国の先代と交流をしてしばらくしてからじゃな」
懐かしそうに語るダグラスだったが、ここにいる誰もがそんなノクトの姿を想像できずにいた。アルベルトたちの知っているノクトは、穏やかで、物知りで、頼りになるのに子供っぽいところのある、変な大人でしかない。
「じゃからまぁ、最近ノクト様を馬鹿にするものが出始めたのも、仕方がないといえるかもしれんな」
音を立てて湯飲みを置いたダグラスは。背筋をピンと伸ばして、少し低い声で呟くのだった。
お知らせです。
先日、書籍化の打診をいただきました。
本格的に話をすすめることになりましたので、うまくいけば来年くらいには皆様に本になった『私の心はおじさんである』をお届けできるかもしれません。
どうぞよろしくお願いいたします。