その男は変態か、紳士か
日本で普通に暮らしていると、命のやり取りをする機会などまず訪れない。当然、包丁より長い刃物を持った人間を見る機会もない。
どうやって対処するのが正しいのか、学校では教わらなかった。
でも恐らくなのだが、凶器を構えた相手に対して強気の姿勢を見せるのは、危険だ。凶器を相手に向ける人の精神というのは、恐らく相当に追い詰められた状態である。
落ち着いて、冷静に、そう、焦った仕草を見せてはいけない。
もちろん背中を見せて逃げ出すのも良くない。いや、これは熊に出会った時の対応だっただろうか。
冷静なふりをしているが、めちゃくちゃ怖い。
足が震えていないことを褒めてほしい。剣ってあんなに長いのか。刺されたら絶対に死んでしまう。
何が怖いってこの二十代位に見えるイケメンさん、なんか少し顔が赤いのだ。興奮しているのが一目でわかる。こうなってしまうと、人は話が通じなくなる。
この人は、きっとこの湖の管理人さんかなんかで、景観をぶっ壊した私に対してぶちぎれてしまって、怒りのままにぶち殺そうとしているのだ。だとしたら私が助かる道はない気がする。
でもそれは良くない。我々は獣ではないのだ、まずは対話、何においても交渉、暴力反対。
ところでふと疑問に思ったのだけれど、言葉は通じるのだろうか。
……殺されたくないので、一応魔法を放つ準備をしておく。さっきの炎を間に発動させれば、逃げ出す時間くらいは稼げるはずだ。
手を広げて、両手を相手の前に突き出す。
棒も捨てて、戦う気はないよというアピールのつもりだ。人を害したいと思わないけれど、それで命を落としてしまっては仕方がない。両方が平和裏に分かれるための魔法の準備だ。
先ほどの手順を踏むのであれば、発動させるべき場所を意識して、魔法の姿をイメージ。それから「燃え上がれ」と口にすれば、魔法は発動されるはずだ。
青年から目を離さないようにしながら、タスクをこなしていく。すると突然彼の身体がわずかに震えた。何をする気だと思い、じっくりとその姿を観察していて気がつく。彼の足元にじわりと水たまりが広がり始めていた。
私は彼の失態から目をそらす。凶器を持った人物から目をそらすのは勇気が要ったが、顔を赤らめながらプルプルと震えて失禁する成人男性を直視するのは、もっと勇気が要った。相手のことを思うと、かわいそうで見ていられなかったともいう。
こんな人が日本の街中に現れたら連日ニュースで大騒ぎになるだろう。『イケメンの心に潜んだ闇に迫る』みたいな感じで。
この世界ではこうして挨拶するのが常識なのだとしたら、私は山奥に籠って隠者になることも辞さない。
「……どこにも行きませんので、お着替えされたらいかがですか」
もう怒られるのは諦める。こちらが誠意をもって接すれば、命まではとられないはずだ。湖の原状回復に数年間努めることで、許しては貰えないだろうか。
額に手を当てて、目をそらして待っていると、足音が聞こえ、彼がゆっくりと動き出すのが分かった。これがもし、私に不意打ちを仕掛けるための作戦なのだとしたら、まさに奇才の発想だろう。
まんまと策に乗ってしまったことになる。
しかし、そんなプライドを捨てるような作戦を取らなくても、おじさん一人くらい簡単に殺すことはできるはずだ。それほど大層なものではないとお伝えしてあげたかった。
私は尊厳を投げ捨ててまで油断を誘うほどのモノではない。
水音が聞こえてから数分間待つ。私が沸騰させた湖のお湯が役に立ったかもしれない。塞翁が馬というやつである。
彼は今の失態をなかったことにしたいのか、爽やかな声で「お待たせしました」と声をかけてきた。今度は剣をしまっており、清潔感のある服装で、適切な距離を保っている。
そして何より言語が理解できることに、私は心の底からホッとしていた。
「失礼しました、美しい魔法使いの方。俺の名前はラルフ=ヴォーガン。〈オランズ〉の街を拠点に活動する、二級冒険者です」
冒険者、そんな職業がある世界なのか。
年甲斐もなく、その響きにワクワクしてしまった。エルフや魔法が存在するファンタジーな世界なのだ。そりゃあ冒険者だっているだろう。
身分まで教えていただいたが、二級冒険者がどの程度のものなのかがわからない。
主任です、とか代表取締役です、とか言ってくれるとわかりやすいのだけれど。身分証明として初対面で名乗るくらいなので、きっとそれなりにいい階級なのかもしれない。
目の前に立つラルフ青年は、粗相をしてしまったとはいえ、待ち望んだ人間である。剣を持って睨み合ったことは水に流して、ここはぜひグッドコミュニケーションをもって、人里へ案内してもらうべきだろう。
自己紹介してもらったからには自分も返事をしなければならない。名乗ろうとしてふと考え込む。
私は誰なのだろうか。
意識としては間違いなく、山岸遥だ。四十三歳、未婚のサラリーマン。
性別は男、関東の片田舎で生まれ、東京の大学で学び、そのまま就職した。
つい昨日まで、会社で日夜仕事に励んでいた。
今頃出勤してこない私の扱いはどうなっているだろうか。無断欠勤をし続けるなら、当然クビになるだろう。そんなことよりも行方不明者として事件になってはいないだろうか。突然元の世界に戻ってしまったら、それはそれで困りそうだ。
あるいは眠っている最中に、心臓でも止まって死んでしまったのかもしれない。
そう考えると、かなり悲しい気持ちになる。
誰かが早く私の死に気付いて、探しに来てくれることを祈るばかりだ。長年貸していただいた物件を汚すのは気が引ける。
思考がそれてしまった。
どちらにしても、ではこの体は誰なのかという話になる。魂が乗りうつったとも考えられるが、その可能性は低い。なぜなら私の服装が、家で休むときに着用している、ダルダルのジャージだったからだ。
ではやはり、私は山岸遥で間違いないのだろうか。言い淀んでいるうちに、ラルフ青年からフォローが入る。
「……ダークエルフは珍しいと聞きますから、名乗れない事情があるなら伺いませんよ」
実に気の使える青年だ。
なぜ初対面の時に、その優しさを見せてくれなかったのか。もしこの感じで接してくれていれば、私はころっと信用して、お互いに嫌な思いをせずに済んだだろうに。
ただまあ、それについては、湖に魔法をぶっ放した私にも、責が大きくあるので、言いっこなしにしよう。
しかしこれからお世話になろうという相手に、名無しの権兵衛で通すわけにはいかない。この体が私のものであると想定し、ひとまず名乗らせていただくことにする。
「ヤマギシと申します。魔法の試し撃ちをしておりました。景観を乱してしまったことを謝罪します。こちらはあなたの所有する土地でしたか? 必要でしたら原状回復に協力いたします」
名前を聞いたラルフ青年は、ピクリと眉を動かしたが、それだけだった。名前に対して思うところがあったのかもしれない。あるいは和名が聞きなれなかったのか。
「いいえ、ここは誰の土地でもありません。しいて言うのなら、【独立商業都市国家プレイヌ】の領地になるのでしょうか?」
知らぬ名前が出てきた。存外丁寧な対応に、また彼への好感度が少し上がる。
やはり彼がお漏らししないような出会い方をしたかった。困ったことに、どんなにちゃんと対応してくれても、最初の印象が頭から離れないのだ。
私はこの世界の情報を一切持っていない。外見を鑑みれば、あまりに無知であるのは不自然だ。すでに十分不審者ではあったけど、それを許容してもらえる理由が欲しい。
記憶喪失などとでも言い張ってみようか。
思いついてみれば、それしかないような気がしてくる。
「……私、どうも記憶が欠落しているようです。ここがどこで、自分が何をしていたのかもよく覚えていません。ご迷惑をおかけして申し訳ないのですが、できたら街に連れて行ってはいただけませんか?」
「記憶が欠落? 怪我とかはありませんか? 噂には聞いたことがありましたが、本当にそんなことが起こるのですね。構いません、ご案内しますよ。ついでにわからないことがあったらなんでも聞いて下さい、お答えしましょう」
「ありがとうございます。恩に着ます」
なんと素晴らしい好青年だろうか。
やはり最初に剣を抜いて構えていたのは、私が警戒させるようなことをしたのが悪かったのだ。誠実に接すれば、相手もそれに応えてくれる。
事態が穏やかに進み始めたことに、わたしはほっと胸をなでおろした。