関所破らず
日がそれほど高く昇らないうちに、関所に到着することができた。
長い行列ができるほどではなかったが、かといって、関所を通る人が途切れることがない程度には人がいる。
関所の奥は簡単な宿場町のようになっている。昨日ハルカ達と同じ場所で寝泊まりしていた者は、比較的軽装の者が多く、裕福そうな者はいなかった。ある程度の資金を持つ者は、夜までに関所を通り抜けて、この先で宿をとっていた。
「では私たちも行きましょうか」
ハルカは胸の前にユーリを抱き上げた。ユーリはその小さな手で、ハルカのローブを握り、その顔を見上げる。
目が合い、ハルカが微笑みかけると、ユーリの表情もやわらかくなった。
「ユーリは、何を最初に話してくれるんでしょうね」
順番を待つ間に、ハルカが独り言のようにつぶやくと、傍にいたモンタナが返事をする。
「多分誰かの名前です。覚えやすいですから」
「そうですか、呼んでもらえたら嬉しいですね。ユーリ、私はハルカ、ですよ」
ユーリは穏やかな表情で話しかけてくるハルカの期待に応えたくなって、口を開いてみるが、失敗が怖くてすぐにやめる。それを見たハルカが、皆に声をかけた。
「今、ユーリが何か話そうとしてましたよ?」
「あ、私の名前ね、コリンよ、こりん」
「モンタナです」
「ノクトですよぉ、のーくーとー」
「集まるなよ、そんなにいっぺんにってもわかんねーだろ」
全員が集まる中、少し離れたところから見ていたアルベルトと、ユーリの目が合った。ユーリは考えた末に、アルベルトの方を見ながら、はじめて言葉を発してみることにした。
「……アぅ」
一番短くて簡単な名前を選んで声に出してみると、思っていたよりちゃんと声がでてきて、ユーリは表情をほころばせた。
アルベルトは目を丸くした後、何も言わずに、にーっと笑った。嬉しかったらしく、そのまま歩いてユーリに近づいて、その頬を優しくつつく。
「上手く呼べたじゃねーか」
その嬉しそうな顔と、誉め言葉にユーリもすっかり気分がよくなっていた。この人たちは名前を呼ぶだけでもこんなに喜んでくれる。
「コぃン、モーくん、のぅと、はーかママ!」
順番に呼べば、皆がそれぞれ嬉しそうな顔をしてくれて、それを見るとユーリも何だか幸せな気持ちになれた。愛されている気がした。
そんな中ハルカだけが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして口を開けている。非常に整ったその顔が、間抜けた顔をしていると、親しみが持てて、より魅力的になるとユーリは思っていた。ハルカの困った顔や、へにゃっと笑った顔がユーリは好きだ。
一方ハルカは、突然ママと言われて、思考を停止させていた。そういえば今の性別は女性だから、親役となると、パパではなくてママなのだ。とはいえ、いったい誰がママなんて教えたのだろうか。
もしかして、ユーリの今はいない母に自分の姿が似ているのだろうか。
そこまで考えて、ハルカは少し悲しい顔をして、ユーリのことを優しく抱きしめた。
「はい、呼んでくれてありがとうございます」
パパでもママでもいい。
慕ってくれるなら、ユーリの寂しさが埋もれるなら、呼び名くらいは許容しようとハルカはそう思った。
皆でユーリのことを構っているうちに、入国審査の順番が回ってくる。
ノクトに順番が回るまでは、特に問題なく話が進んだ。それぞれのドッグタグを見せ、ユーリについてはコーディが用意してくれた身分証明書を提示する。
ノクトがハルカ達同様に、懐からドッグタグを取り出して提示した。ハルカ達同様に、銅板に身分が刻まれているのだが、その裏には薄桃色の水晶がつけられており、いくつかの宝石がちりばめられている。
それを見せながら、ノクトはのんびりとハルカ達に説明をした。
「特級冒険者になるとですねぇ、それ以上ドッグタグを更新することが無くなるんですねぇ。だから、好きな意匠の物を、冒険者ギルドのお金で作ってくれるんですよぉ」
ノクトのタグを見て以降、関所にいた兵士たちの動きがぎくしゃくとしたものになる。
ハルカはすっかり頭から抜け落ちていたが、特級冒険者というのは歩く爆弾みたいなものだ。気分一つ、指先一つで人の命を簡単に刈り取ることのできる化け物たちだ。
前線に立つ兵士たちこそ、トラブルに巻き込まれ、その怖さを叩きこまれていた。
通り抜ける前に、明らかに他の兵士と装備の違う者が現れて、ノクトの傍へ寄ってくる。
ハルカ達は、慌ててその間に入ろうとするが、ノクトに手でそれを制された。
「お久しぶりですね。なぜこんな所に? ここは清高派の貴族の領地ではありませんでしたか? 鞍替えしましたか?」
「滅相もない。ほんの半年ほど前になりますが、我らが女王の命で、主な関所周りの領土を直轄地とすることに成功いたしました」
「それはたいそう不満が出たことでしょう?」
「はっ、しかし問題はないと踏んでの命であります。それからノクト殿にお伝えすることが数点ございます。お耳をお貸しいただけませんか?」
「はい、いいですよ」
その男はハルカ達の方を気にしながら、少しひざを曲げて、ノクトにだけ聞こえるように耳打ちをする。
ほんの数十秒でそれは終わり、ノクトは自分の頬をかいた。
「概ね予想通りですね」
「はっ、このまま国へお帰りになるようでしたら、数日待機していただければ、こちらで護衛を準備いたします」
「いぃえぇ、もう頼りになる護衛を雇っているので、それは遠慮しますよぅ。あと、しばらく王国内をうろつく予定ですからねぇ、物々しいのはいらないんです」
「頼りに……、ですか?」
赤子連れのハルカ達を不審な目でその男は見つめるが、やがて諦めたように肩を竦めた。
アルベルトはムッとした表情で睨み返していたが、男はそれに取り合う様子もない。
「ノクト殿がそうおっしゃるのであれば結構です。最後に女王様より伝言を授かっております」
「はい、なんでしょうか?」
「では失礼ですが、お言葉をそのままお伝えします。『いつもすまんの、ノクトじい。帰る前に顔を見せておくれ』とのことです」
「はい、確かに伺いましたよぉ。じゃあ行きましょうねぇ、皆さん」
男はまだ言いたいことがありそうにしていたが、それを躊躇している間に、ノクトがハルカ達を促して歩き出してしまった。実直そうな男に同情したハルカが、ちらちらとそちらを窺っていると、それに気づいた男が、駆け寄って声をかけてくる。
「あの、しつこいようで申し訳ないのですが、やはり精鋭を数人選んで護衛を付けたほうがよろしいのでは? 小さなお子様も連れているようですし」
「いいえぇ、僕はこの護衛が結構気に入っているんですよぉ。あなたならともかく、兵士は誰が信用できるかわかりませんからねぇ」
「……そうですな、申し訳ございません」
ノクトの冷たい言いように、ハルカは男が怒り出すのではないかとドキッとしたが、そんなことはなかった。この様子だと、ノクトの言うことはあながち大げさではないのかもしれないと思う。
「旅の無事をお祈りしております」
「ありがとうございます。そちらも寝首をかかれないよう気を付けるんですよぉ、ジャック坊や」
「流石にこの年になって坊やは勘弁してください、ノクト殿……」
頭を押さえながらも、複雑な表情でノクトの言うジャック坊やがハルカ達を見送ってくれる。背筋がすっと伸びて顎髭ともみあげの繋がったその男の年齢は、四十にも差し掛かるように見えた。
宿場町を出て、歩きながらノクトは気楽な調子でハルカ達に告げる。
「坊やが言うにはですねぇ、恐らく私たちの後ろを最低二組のストーカーが付いてきているそうですよぉ。それから、私たちに先行して確認できる限り三組の伝令が走っているそうです。大歓迎ですねぇ」
「……人気者だな、お前」
「はい、ありがとうございますぅ。ちゃんと守ってくださいねぇ。さぁ、訓練の成果を出すときですよ、ハルカさん!」
のろのろと拳を突き出しながら言うノクトに、ハルカは表情を引きつらせる。
「私、魔法で戦いますからね?」
勘違いされては困ると、ハルカは皆に聞こえるように念押しをするのだった。