加減の練習
触れるだけならば大丈夫なのに、力を籠めようとすると制御が難しい。
とはいえ、物を持ち上げるときに力を籠めすぎるということはないので、本来であればこの角を削るという行為も、それほど心配する必要はないはずだった。
ノクトに先に注意されてしまったせいで、変に緊張してしまっていたが、軽くやすりをかけるくらいであればそれほど難しくもなかった。
偶に指の腹で引っかかりを確認しながら優しくやすりをかけてやると、すぐに引っかかりはなくなって、つるりと触り心地良くなった。
「上手ですねぇ。ちゃんと細かな調整もできるじゃないですか。何事も経験ですから、繰り返し攻撃の練習をしてみるしかないですよ」
ノクトは首を大きく後ろに傾けて、角をハルカの腹に押し付けて寄りかかり、ハルカのことを見上げる。胸が大きいせいで、ハルカからはノクトの口元しか見えない。
「顔が見えませんねぇ……。というわけで、今度は力加減の仕方を覚えましょう」
姿勢を戻してノクトは振り返りながら、人差し指を立てて、くるっと回し、ハルカの前に障壁を展開する。
立ち上がったノクトはピンク色の半透明な障壁を、数度ノックした。
「これは僕が本気でパンチして、ギリギリ割れないくらいの障壁です。これを割らない程度に叩いてみましょうか。その力加減が一般的な女性や、非力な男性のパンチの威力です」
真面目にハルカの師匠をしてくれる気があるみたいで、次々とやることを提案してもらえることをハルカは嬉しく思っていた。
思い出してみればこれまでの人生で、親身になって物事を教えてもらった記憶がない。優等生だったハルカは、比較的学校生活でも放置されることが多かった。教師からしても大人しい優等生より、少し手のかかる生徒の方がかわいいものなのだろう。
蔑ろにされたこともないが、ただそれだけだった。
きっとかつての担任は、もう自分のことなど覚えていないのだろうという確信があった。
ノクトの提案にハルカは神妙に頷いて、こぶしを握り締めた。
叩くたびに障壁が割れる。
その度にニコニコ笑いながらノクトが障壁を張りなおしてくれる。本来なら自分で障壁を張ればいいのだが、ハルカにはその強度の調整が難しい。
だからと言って手加減の練習のためにものをいちいち壊すわけにいかないし、まして人で試すことなんてできるわけがなかった。
やはり出力の調整が難しく、遠慮をしすぎるとただ触れるだけになってしまう。一度うまくいっても、次に同じようにやってみようとしても、うまくいかず障壁を壊してしまう。
幾度もそれを繰り返していくうちに、ノクトが独り言のように話し始める。
「不思議ですねぇ。一般的には身体強化魔法が使えるものというのは、物理的な戦闘に長けた者です。あなたの様に、その制御が利かない身体強化使いは見たことがありません。魔素の扱いについても同様ですが、まるでそのように作られた体に、突然、心だけが乗せられたみたいな感じでしょうか」
動揺したハルカが見事に障壁をぶち破って、数十度目の失敗をする。
時間を置かずにノクトがすぐ新しい障壁を張った。涼しい顔をしてやってくれているが、数十回の魔法を平気で展開させてるのは流石の特級冒険者だ。
二回続けて障壁を割らずにひびだけを入れることができたとき、扉をノックもせずに入ってくる者がいた。
担架に乗せられて、武闘祭出場の選手が運ばれてくる。
トーナメントの一回戦で、自分の腕を犠牲に勝利をもぎ取った格闘家だった。
明らかに右の腕がひしゃげており、その反対側は地面を引きずられたような擦過傷が全体に広がっている。
対戦相手はあの槌を担いだ大男だったから、その試合の模様が怪我を見ただけでなんとなく想像がついた。
「あらぁ……、せっかく腕を治してあげたのに、また怪我をしちゃったんですねぇ……」
そのままベッドに寝かされた姿を見ながら、ノクトが呑気に呟いた。ベテランは大けがを見ても焦らないらしい。ハルカはそのひどいケガを見て、自分が傷ついたわけでもないのに、右腕がむず痒くなってきていた。
ノクトはそのぐちゃぐちゃになっている右腕に無造作に手を伸ばして、なぞるように触っていく。一か所で手を止めて、ハサミを取り出すとチョキチョキと勝手に服を切り始めた。
露出された腕を見て、うんうんと頷いてノクトはその部位を指さしてハルカに話しかける。
「ほら、ハルカさん、骨が飛び出てますよぉ」
「とびでてますよ、じゃないです……」
ハルカが声を震わせながら目を細めてそれを見る。
「患部はちゃんと見たほうがいいんですけどねぇ」
小さく呟いたノクトは、そのまま骨が出ていない場所を軽く握った。
男が吠えるように絶叫して目を覚ました。
「ばっきゃろぉ! だれだてめぇこの野郎! いてぇじゃねぇか畜生め!!!」
実に元気そうにノクトを罵る男は、叫んだ拍子に手を動かそうとしてまた大声を出した。
ノクトはにこにこと笑いながら耳を塞いだまま返事をする。
「あなたのケガを治してくれる人の師匠ですよぉ。治し方を選んでほしくて起こしましたぁ」
涙目になりながら、ふーふーと息を吐く男は、寝転がったままノクトを睨みつける。
「なんだってんだ。大した話じゃなかったらぶっ飛ばしてやるからな!」
「えーっとですねぇ、骨がバキバキじゃないですかぁ」
「おーい! そこのねぇちゃん、この口にハエが止まりそうなとんちきをなんとかしてくれぇ!!」
ハルカも表情をひきつらせながら、静かに首を振る。いくらのんびり話していようとも、ノクトが意味もなくそんなことをしているとは思えなかった。
ノクトは男の様子など歯牙にもかけずにのんびりと話を続ける。
「痛くない治療法とぉ、死ぬほど痛いけど骨が前より丈夫になる治療法、どっちがいいですかぁ?」
そんなもの痛くない方に決まっている。それを尋ねるために痛い思いをさせたのだとしたら、男が少しかわいそうな気がした。
男が自分の腕を見てから、顔をゆがめて大声で宣言した。
「んなもん、丈夫になるほうに決まってるだろうが、ばっきゃろぉめ!」
「そうですよねぇ、そんな気がしましたぁ」
聞き間違いではないかとハルカは自分の耳を疑ったが、話はついたと言わんばかりにノクトが棚から布を取り出した。
「それじゃあ準備をしましょうねぇ。ハルカさん、猿ぐつわ噛ませたら、その飛び出てる骨、全部まっすぐにしてもらえますかぁ?」
当たり前のようにかけられた言葉に、ハルカは全力でぶんぶんと首を横に振るのだった。